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第3話 死刑囚・アルバ③
演奏会前日は最期の機会として、夜通しの練習が許可されているらしい。アルバは結局夕食を食べることなく盆を下げた。そしてそのまま風呂に入った後、看守に連れられ自分の寝場所に案内された。
壁際の両サイドにベッドが二つ、勉強机が窓際に二つある、簡素な部屋。看守曰く二人一組の部屋らしいが、どうやら同室の死刑囚はまだ練習しているらしく、部屋にはいなかった。
「ここで寝ろ。練習するならその辺にいる看守に告げろ。以上だ」
看守が部屋から去り、アルバはベッドに横たわった。なぜ自分がこんなところにいるのか、とっくに答えが出ている問いを悶々と考え続けた。
どこで自分の人生は狂ってしまったのだろう。死刑宣告を受けた時から? 王族の前でヴァイオリンを弾いたときから? それとも──楽団の男に拾われた時から?
自分がスラムにいた頃、見知らぬ男が自分を楽団へ連れて行った。半ば誘拐だったが、死にさえしなければそれでよかった。その男曰く、音楽団のバイオリニストが脱走したらしく、その彼に風貌が似ているからと、アルバをバイオリニストとして育てるべく拾ったようだ。
それまで音楽というものは聴いたことが無かった。初めて音楽に触れた時、重厚な音の連なりが鼓膜を震わせ、一つのメロディーラインが編み出される一瞬一瞬に胸が高鳴った。音の高低、強弱だけで、どうしてこうも自分の心を揺さぶり、熱くさせるのか不思議でたまらなかった。
そうして音楽の世界にのめり込んだアルバは、自分を拾った男とほとんどマンツーマンでヴァイオリンを教わり、ヴァイオリンを片手にいくつもの音楽と出会った。
「君は音に愛されている」
過去にアルバを拾った男の死に際、アルバにそう言い残した。
だが、自分は音に愛されているわけじゃない。愛しているのだ。一方的な片思いなのだ。
現に今、音に愛されていたら、こんなことにはなっていない。音が本当に自分を愛しているのなら、殺人犯として冤罪を掛けられて、明日死ぬことにはなっていないのだ。
「なんで……」
なんで、こんなことになってしまったのだろう。どこで間違えたのだろう。もう現実を見たくない。もう何も聞きたくない。アルバの沈痛は、微睡の中に沈んだ。
ヴァイオリンの音が聞こえる。
激しい熱情とともに、旋律が聞こえてくる。
ふと、アルバは意識を浮上させた。部屋に時計がないから、今が何時なのかは分からない。窓の外を見ると日はすっかり沈み、三日月が高く昇っている。そして、どこからかいびきの音がかすかに聞こえてくる。きっと夜中なのだろう。
アルバは隣のベッドに視線を向ける。ベッドには誰も寝転がっていない。きっと練習中なのだろうか。こんな夜中まで練習するなんて、よほど生に執着しているのだろう。
いびきの裏にヴァイオリンの音が聞こえる。もしかしたらその音の主が自分の同室の死刑囚なのか。
アルバは起き上がると、近くを見回っていた看守に申し出て、部屋を出た。そして旋律の出どころを探す。これから死ぬというのに、その音が気になって仕方なかった。丁寧に、孤独に紡がれる激しい旋律。その正体が知りたくて、会いたくて、無意識に足を動かしていた。
音の出どころは、最初に訪れた部屋からだった。こっそり扉からその様子を伺う。
そこにいたのは、カミーユだった。
電球の小さな光が、まるで月光のようにヴァイオリンを弾くカミーユを淡く照らしている。彼の荘厳な佇まいが相まって、絵画のような美しさを際立たせている。
そこから紡がれる彼の音は、どこまでも優しく、どこまでも耽美だ。
弾いているのはヴィヴァルディの『夏』。激しい熱のこもった演奏は、アルバの中で消えた火を灯してくれるように感じる。ずっと聞いていたい。この音楽に浸っていたい。
そうしてカミーユの音楽に耽っていると、不意に彼のテノールが聞こえた。
「そこにいるのは分かっているぞ」
アルバは驚いて半歩下がる。しかしその時、扉が開いてカミーユと目が合ってしまった。
「お前かよ」
「ご、ごめん。思わず立ち聞きしてしまって……」
「明日死ぬつもりのくせに、随分余裕があるみたいだな」
アルバは何も言い返せなかった。無意味だと分かっていながら、どうして今更になって音楽を聴いているのか。どうして彼の音楽に惹かれたのか、自分でも分からなかった。
「……帰れ。気が散る」
カミーユは扉を閉めた。そして再び演奏し始める。
アルバは帰らなかった──いや、帰れなかった。帰ろうとすら思わなかった。
アルバはその場に蹲った。意味はないのに、音に包まれていたい。自分の本能が音楽を欲している。音に包まれることを喜んでいる。激しい旋律はまるで自分の感情のようにぐるぐると渦巻く。その渦中で、自分は意味もなく叫んでいる。喜んでいる、愛している!
胸のつかえが全て消え去り、心も体も癒えてゆく。嬉しい。音楽が聞けて、嬉しい。
「……帰れと言ったはずだ」
しばらくして、再び扉が開いた。
「……ごめん。帰れなかった」
「は?」
カミーユは目をしばたたいた。
「音楽を聴いていたかった」
アルバがそう言うと、カミーユは眉を顰め、不満そうに溜息をついた。
「じゃあ、自分で演奏しろよ」
それは出来ない。アルバは静かに首を横に振った。
「……君は、無意味に思わないの」
「何が」
「音楽。どうせ死ぬのに、音楽を奏でることに意味があると思うの?」
カミーユは何も答えなかった。張り詰めた沈黙が流れる。
「ごめん……」
沈黙こそ答えだ。そう思ったアルバは部屋に戻ろうとした。カミーユはそんなアルバの小さな背中にチッ、と聞こえるように舌打ちをした。
「俺の音楽が、そんなに気にくわないのかよ」
「え?」
「音楽を奏でることが無意味だと? 俺の音楽は無意味だと言いたいのか!」
カミーユは憤慨し、アルバの手首を掴んだ。爪が食い込むほど強く握られ、アルバは鋭い痛みに顔を歪めた。
「痛っ……!」
カミーユはお構いなしにアルバを壁に押し付けた。壁に背中をぶつけ思わず呻く。
「俺の音楽は本物だ、俺には、音楽しかないんだ!」
逃げ場を失くし、アルバはカミーユの顔を見ることしかできない。
「言えよ。俺の音楽こそ、本物だって、言えよ!」
カミーユの瞳には燻る炎のような憤りが籠っていた。アルバは、彼が一体どうしてそこまで怒っているのか分からず、狼狽しながら、恐怖で肩を震わせた。
「そこまでだ」
ふと、看守の声が聞こえ、二人は振り向いた。
「懲罰房に行きたくなければ、部屋へ戻れ」
カミーユは再び舌打ちをして、音楽室へ戻った。
「演奏の練習をしないなら、さっさと寝ろ」
アルバは看守の言う通り部屋へ戻ると、ベッドに飛び込んで、さっさと目を閉じた。
頭の中で彼の音楽と叫びがリフレインする。
彼の音楽への情熱はきっと本物だ。でも、演奏会が終われば、二度と彼の音楽には触れられない。叫びの理由も知ることはない。死が目前だからか、アルバは結局朝まで一睡もできなかった。
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