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プロローグ

 1から5までの数字が縦に並んだボタンへと、シルバーのリングが光る長い人差し指をすっと伸ばす。習慣的に3と記されたボタンを押しかけて、御子柴(みこしば)晃大(こうた)は違う違うと指先を一つ上にずらした。4という数字がぱっと白く光り、かすかに足元が振動する。  ここ『VIPマグナム』男子寮に晃大が引っ越してきたのは、今から約二年前。地方の実家を出て、東京の大学に進学したのがきっかけだった。時間や人間関係に縛られるのが好きでないため、もともとはアパートで新居を探していたのだが、いろいろあってここに入寮することになった。  いろいろといっても理由は至って単純。第一にこの寮には門限がなく、基本的には何時でも出入り自由。大浴場は二十二時になると閉まってしまうが、五階にあるスポーツジムと一緒に設備されたシャワールームは二十四時間使用可能。  平日の朝晩はイタリアンシェフ――ジュリオ・シルヴェストリによる食事付きで、こちらもまた、申告さえしていれば提供時間外でも取り置き可能だ。夜間から早朝にかけてナイトクラブでバイトをする晃大にとって、あらゆる面で時間に制約がないというのは非常に助かる。  ジムやらイタリアンシェフやら一体どこの高級ホテルだという話だが、事実としてこの寮は、一条財閥の御曹司、一条(いちじょう)雅臣(まさおみ)が趣味で元高級ホテルを改築したもので、内外装ともに洗練されたモダンな造りになっている。にもかかわらず、家賃はたったの三万五千円というバグ設定だ。  ともすれば、わざわざ他のアパートを探して住むほうが馬鹿らしい。入寮には顔写真と全身写真を添えた謎の書類審査と対面面接があったが、そこは難なくパスできた。  寮の生活には早々に慣れ、快適な日々を過ごしていたのだが、入寮三年目を迎えようという一ヶ月ほど前の三月中旬、突如として転機は訪れたのであった。 (あー、晃大。今話いー?)  出先から帰り、ちょうど今のようにエントランスを抜けてエレベーターに乗り込もうとしていたときだった。ふと、背後からかかった声に晃大は足を止めて振り返った。 (一条さん。どうしたんすか?)  百八十ある晃大よりさらに数センチほど高い背丈に、スーツ越しでもよくわかる引き締まった体。この寮の設立者かつ管理人でもある一条は、キャリアに反して三十手前とまだギリ若者の部類に入る。 (急で悪いんだけどさー、おまえ、来月から別の部屋に移動してくんね?) (え、移動……すか?)  問い返した晃大に、「んー」と一条は軽い相槌を打つ。 (三月いっぱいで(とおる)が退寮するだろ? それも兼ねて、今一人で部屋使ってるやつんとこ移ってほしいんだよね) (はあ……)  徹とは、現在二人一組で部屋を共有している晃大のルームメイトだ。晃大の二つ年上で、今年度で大学を卒業するので、それを機にということらしい。  正直、少し面倒くさい。が、寮長に言われたのなら受け入れる他ない。 (わかりました……けど、新しいルームメイトってどんなやつなんすか? 俺とタメ?) (いや、一個下。四月から大学二年。どんな奴かは会ってからのお楽しみってことで) (や、お楽しみって)  適当だなと思いつつも、踏み込んで訊くほど関心があるわけでもない。基本、部屋には寝に帰っているだけのようなものだし、ルームメイトがどんな相手であろうとあまり関係ないのが事実だった。 (ま、おまえどんなやつ相手でもそれなりに上手くやってけるだろ。てことで、あいつのこと任せたわ)  最後の一言にやや違和感を覚えたが、こだわることなく話は終着し、晃大は今月の初めから四〇二号室で暮らし始めることになった。新生活が幕を開けてかれこれ二週間ほど経つけれど、未だに三階で暮らしていたときの癖が抜けず、さっきのようにエレベーターのボタンを押し間違えてしまいそうになる。  きちんと四階で開いた扉をすり抜けて、左手に向かって二つ目の部屋。鞄から取り出したキーで部屋を解錠して、ドアノブを捻る。電気を点け、たちまち目に入った惨状に晃大はこめかみを押さえて立ち尽くした。  ――あいつ、また……。  玄関の端から端へと無作為に転がった五つの靴。『五足』じゃなくて、言葉通り『五つ』だ。靴なのになぜ奇数なのかは、所有者ではない晃大には知る由もない。   とりあえず適当に足で蹴って端に寄せ、自分の靴だけはきちんと後ろ向きに揃えて脱ぐ。一歩足を踏み出すと、そこはもうジャングルだった。  床を埋め尽くさんばかりに脱ぎ散らかされた大量の服。漫画。ゴミ。  慎重に足場を見極めながら部屋の奥に近づくにつれ、騒がしい怪獣の鳴き声が聞こえてくる。ちらりと声の方へと視線を向けると、グシャグシャに乱れたベッドの上、片手をズボンに突っ込んでぽりぽりと股間を掻きながら眠るルームメイトの姿があった。  ――きったねーな、おい。  晃大も決して綺麗好きというわけではないけれど、このルームメイトのだらしなさは常軌を逸している。今すぐに叩き起こして部屋を片付けろと言いたいところだが、クラブのバイトを終えて晃大が帰宅した現在の時刻は明け方の五時半。せっかくの休日にそんなことで睡眠を妨げられるのは不本意だろうと、晃大は一人、ため息を零す。  それにしてもと、足音を殺して、いびきをかいて眠るルームメイトのそばへと歩み寄った。  ――ほんと、顔だけは無駄に可愛いんだよな……。  月一で美容院に通い、どこぞのK-POPアイドルばりに派手な青髪をキープをしている晃大とは対照的な、天然で色素の薄いピンクがかったブラウンヘア。瞼を閉じていてもわかる大きな目。小さくてつんとした鼻。淡い朱色の唇――  とても、こんな密林地帯で生活しているとは思えない可愛らしい顔をしている。色も白ければ体格も華奢で、これほどまでズボラでなければ、同性でさえ好意を寄せるやつがいてもおかしくない。あくまでも、『これほどまでズボラでなければ』の話だけれど。  彼が顔合わせ早々に取った行動は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いてる。 (あー、ども。俺、今日からルームメイトになる御子柴晃大です。クラブでバイトしてるから深夜とか明け方に帰宅することが多いんだけど、そういうときはできるだけ起こさないよう気をつけるから、理解よろし……)  初めて見る汚部屋にぎょっとしつつも無難に挨拶を口にしたが、そんな自分を見つめる相手の目つきに違和感を感じて、晃大は言葉を止めた。  とても初対面の人を出迎える出で立ちとは思えない、アフロ一歩手前の寝癖ヘアと、よれよれのジャージ姿。だらしない部屋にお似合いのだらしない格好をしたその新しいルームメイトは、丸く大きな目をすっと細めて、威嚇ともとれるような態度で晃大を見上げていた。 (え、俺、なんか気に障ること言っ――) (あ、いっけねー! なーんか落ち着かないと思ったら、チンポジ、ちょっとズレてたわ! もうちょい右? いや、左かな? 根元辺りからこう、ぐっと掴んで引き上げてっと……)  唐突に股間に突っ込まれた手が、言葉と連動して右やら左やら上やらに移動する。いったい何が始まったんだと、晃大は眉を顰めて身構えた。  実に三十秒近くそんな奇妙な時間が続いた後、「よし、一丁上がり!」とパンツの中で彷徨っていた手が引き抜かれる。 (えーっと、御子柴晃大くんだっけ? 俺の名前は小熊(こぐま)結月(ゆづき)! 俺、掃除とか片付けとか苦手でちょーっとばかし迷惑かけちゃうこともあるかもしれないんだけど、そこはまあ、お互い様ってことで! よろしく!)  意気揚々と伸ばされたその左手に、取れ立てほやほやと思しき陰毛が挟まっているのに気がついて、思わずうわっと後退りそうになった。後にも先にも、初対面でここまで相手をドン引きさせるような人間に出会うことはもう二度とない気がする。  もちろん握手はそれとなく躱して、晃大はよろしくとだけ返しておいた。肩を竦めて引っ込められた指の隙間から、ひらひらと舞い降りる縮れ毛の行方だけは最後までしっかりと目で追いながら…… 「ったく……」  一体何がどうなったら、この可愛らしい顔をした人間に、このだらしない性格が宿るというのだろう。  大口を開けていびきをかくその寝姿を思わずまじまじと見つめていたら、ふいに「ふごっ」という変な声を出して結月の肩が跳ねた。続けざまズボンに突っ込んでいた手をぱっと引き抜いたかと思うと、目を瞑って眠ったまま、悪霊退散とばかりにこちらへと向かって陰毛を投げかけられる。 「うおっ」  慌てて背後に身を仰け反らせ、晃大は既のところでそれを躱した。汚いにもほどがある。  今さらながら、一条が口にしていた「あいつのこと任せわ」という言葉の意味を理解し、自分はとんでもない問題児を押し付けられてしまったらしいということを悟ったのだった。 

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