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00 プロローグ

   城の扉の影から姿を現したのは、背の高い狼獣人だった。  純白の尖った耳、豊かな毛並みの尻尾。筋肉質な身体に鎧を纏った精悍な騎士は、この北の果て(ノースエンド)城の城主だ。 「おかえりなさい、イアンデ様」  城主のイアンデを出迎えたのは、リネアという名の小柄な(うさぎ)獣人の青年だ。  長い黒髪、頭の上にはつややかな黒い長耳、色白の肌にラベンダー色の瞳。  彼は兎獣人らしい大きな瞳のせいで、21才という歳のわりに少しあどけなく見える。しかしにこりと笑みを浮かべると、その表情がガラリと大人びたものへと変わった。 「お疲れ様でした。イアンデ様。お食事はすまされてきましたか?」 「まだだ。これから食べる」  婚約者のイアンデをエントランスホールで出迎えるのは、この城に来てからのリネアの日課になっている。  帰城後のイアンデは、いつも同じ行動をとる。  無言で前を通り過ぎ、階段を登る。  リネアはその後姿を、静かに使用人たちと見送る。  幾度となく繰り返された光景。今夜もきっといつもと同じ。  リネアはそう思っていた。  けれどなぜか、今夜のイアンデは違った。  鬼のような形相で、ズンズンこちらに近づいて来る。  リネアはその勢いに気押され、思わず後退った。  狼とうさぎ。獣の世界では捕食者と被食者。それは体に刻み込まれた本能ゆえなのだろうか。  廊下の隅まで追い詰められると、逃げ場を失った獲物のように、体が固まり動けなくなった。  聳え立つ暗い影となったイアンデを見上げると、その金の瞳がナイフのような鋭い光を放つ。 「イアンデ様、あの……何かご用ですか?」 「リネア、俺は、帰ってきたぞ」 「はい、ええと、そうですね? 見たらわかりますよ。おかえりなさい。あの……どうしましたか……?」 「まだ、“あれ”をしていない」 「“あれ”……とは……?」 「朝は俺からした。だから今度は、リネアからしてほしい」  朝の、“あれ” ?  それが何かを思い出した途端、リネアは自分の顔が燃え上がるように赤く染まるのを感じた。 「あっ! そういえば、朝の“あれ”は、何だったのですか!? いきなりで、もう……び、びっくりしましたよ!」 「だってリネアは、嫌ではないのだろう?」 「それはまあ……そう、申し上げましたが……」 「(つがい)は出かける時と帰って来た時に、皆、あのようなことをすると聞いた。嫌ではないのならば、俺たちもするべきだと思う」 「え――……」  リネアは困惑する。  イアンデの鋭い眼光は変わらぬままなのに、その言葉はどこかちぐはぐだ。強面(こわもて)な見た目とは、どうにも釣り合っていないように思う。  しかしイアンデははふざけているわけではない。  その口調は、真剣そのものだった。  獣人にとって“番”とは、生涯でただ一人の伴侶のことをいう。死が分つまで互いに添い遂げると決めた、唯一無二の存在のこと。  ある重要な目的のために、まだ出会って間も無い自分たちを“本物の番”のように見せたいと申し出たのはリネアだ。  イアンデはその目的を達成するために、こうしてあれこれ提案しながら毎日努力してくれていることは、リネアもちゃんと理解している。  ふざけた気持ちは一切なく、至って真面目な気持ちなことも。  けれど今ここには、使用人たちもいる。彼らの視線に晒されたこの場所で、気恥ずさに耐えながら「あんなこと」までする必要があるのだろうか? 「あの、それは……必要なこと、ですか?」 「絶対に必要だ」  食い気味に重ねられた台詞に圧倒され、リネアはぴっ、と長耳をこわばらせた。虚しい抵抗を諦めて、ふう、と大きく息を吐き出す。 「そうですよね……では、失礼します」  イアンデの肩に、そっと手をのせる。  彼は大柄で、リネアより頭一つ分以上に背が高い。ぎゅっと力を入れて背伸びをしてみたものの、イアンデの顔は遠いままだ。  つま先がプルプルと震え始める。もう限界かも……そう思った瞬間、イアンデにぐっと腰を持ち上げるように抱き寄せられた。  ようやく、互いの唇が触れる。  1回、2回、と味わうように柔らかく食まれてから、ゆっくりと離れていく。けれどイアンデの眼差しは、まっすぐリネアに注がれたままだ。  リネアは込み上げる恥ずかしさを隠すように、イアンデの視線を避けて俯いた。口づけをしたのは今朝が初めてで、今のはまだ2回目。こんなにも親密な触れ合いには、まだまるで慣れていないのだ。 「すみません、私からということだったのに、うまくできませんでした」 「結局俺からした」 「だって、届かないのですから、仕方ないではないですかっ……」  口づけは終わったというのに、イアンデに回された腕の力は少しも緩む気配がない。  イアンデは無表情のままだったが、背後の真っ白な尻尾がふんふんと落ち着きなく揺れているのが見えた。  ――まさか、こんなことになるなんて、思わなかった。  このような温かい触れ合いも、甘い雰囲気も、生涯縁のないものだと思っていた。  だって自分は、元いた国で婚約を破棄されて、その結果、政略結婚のために見知らぬこの狼獣人の国に送られて。  しかも男の、兎獣人で。  ただ黙々と仕事だけしていればよいだけの妻、になるはずだったのに――。  なぜ、こんなことに……?  イアンデに抱きしめられた腕の中で、ドキドキと跳ねる鼓動を胸に考える。  この数日間、自分の身に起こった信じられない出来事の数々。  裏切り、別れ、そしてたくさんの出会い。  そのひとつひとつを、丁寧に思い返しながら。

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