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13 兵舎
リネアが城の外に出た時、太陽はすでに真上近くまで登っていた。
リネアは庭園を歩いていた。向かう先はノースエンド城の敷地の一部にある、イアンデの軍が練兵を行なう兵舎だった。城と共に建てられたという武器庫を備えた訓練場は、西の庭園の先に位置する。
リネアは頬を撫でたひやりとした風の感触で、自分の顔がいつもより火照っていることに気付いた。体調はどこも悪くないのに、指先で触れた頬の表面は、やはり普段にくらべ熱を持っている。
思い当たる理由は、ひとつしかなかった。
今朝起きた信じられないような出来事を、不意に思い出してしまったせいだ。
(まさかイアンデ様が、あんなことまでするなんて……)
今朝リネアは、いつものようにイアンデを見送るために城のエントランスホールに立っていた。
今日イアンデは兵舎で練兵をする予定で、訓練に使う道具をロジェールから受け取っているところだった。
見慣れた朝の光景だった。
いつもならこの後、リネアが「お気をつけて」と言い、イアンデはそれに軽く頷き、無言で出て行く。
しかしその日は、いつもと違った。
イアンデは支度が済むと、つかつかとリネアの元にやってきた。
じっ、と無表情に見下ろすと、見上げたリネアの頰に手を添える。
そして突然、リネアの唇に口付けたのだ。
「では、行ってくる」
イアンデは顔を離すと、何事もなかったかのようにスタスタと城の外に出て行った。
リネアは固まった。声を発することすらできなかった。突然過ぎて、何が起きたか理解できなかった。
ロジェールが、ニコニコとこちらを見つめている。
「……何……今の?」
「イアンデ様とリネア様は婚約中でありながら、まるでもう、新婚の番同士のようでございますね。私も含め、使用人一同大変嬉しく思っています。お二人の仲が、順調でいらして」
「順、調…………?」
ロジェールの言葉を、信じられない気持ちで繰り返す。
日に日に、そして確実に、イアンデとの触れ合いがエスカレートしている。
そして今、ロジェールはなんと言った? 新婚の番? 毎日の重ねづけのおかげで、いつの間にか自分たちはこんな高みにまで到達していたのか。
「あの、ロジェール、聞いてもいい? 今見たその、“あれ”はさ、ひとまず横に、置いておいたとして」
「はい、置いておいたとして」
「私たちって……ロジェールから見て、愛し合っているように見えるの?」
「ええ! それはもう。リネア様を拝見すれば一目瞭然です」
朗らかな笑みで力強く頷いたロジェールは、嘘をついているようにも、ふざけているようにもとても見えなかった。
はたから見ている狼獣人からそのように見えていることを喜ぶべきだった。最初の思惑通り、着実に日々の努力が身を結んでいる。
(イアンデ様はすごい。ちゃんと騙せてるんだ。でも……でも……)
リネアは耐えきれず、思わず両手で口を覆った。顔から火が出そうで、長耳の先まで熱く火照っているのがわかる。なんとも言い表しがたい感情が、胸の中にふつふつと生まれ、膨らんでポンポンと弾けていた。そのたびにくすぐったいような熱が、全身を駆け巡っていく。
だって口づけをしたのは、生まれてはじめてだったのだ。今自分は、頭がおかしくなりそうなくらいに動揺している。
なのにイアンデはいつも通り平然としていた。あんなことをしておいて、まるで何もなかったかのように。
こんなにも取り乱しているのは自分だけで、ひどく恥ずかしく思った。
熱い顔を冷ますように、リネアは手のひらでぱたぱたと頬を仰ぐ。今日はこんなことで頭をいっぱいにしているわけにはいかないのだ。
明日はついに王宮に行く。この国に来た目的を果たすべき勝負の日だ。エリクからの手紙をイルヴァに渡せるかもしれない、またとないチャンス。失敗は決して許されなかった。
念には念をと思い、リネアは入念に準備を進めていた。今日兵舎に訪れたのは、武器庫にある“借り物”をするためだった。
兵舎の入り口にはイアンデの軍の副官の蒼狼獣人・エドミュアが待っていた。
エドミュアとは、軍と城との経理の情報共有をするためによく連絡をとり合っている。武器の在庫管理もしているというエドミュアに、リネアはとある防具を貸してもらえないかと頼んでいた。
兵舎の廊下を歩きながら、リネアはエドミュアに尋ねた。
「エドミュアは以前、王宮で働いていたんだよね? グリムヴォーデンの王宮はどんなところなの?」
「王宮にいたのは、もう10年以上前の話ですけどね。でももう二度と、あそこでは働きたくないです」
「え? そうなの……?」
「我儘な貴族たちのあれこれに延々と付き合わされましてね。もうそんな目にあうのはごめんですから。謀略に諜報に……自分たちの手を汚さずに、下の奴らに全部やらせて。しかもバレたら知らんぷり。もうそれが、嫌で嫌で」
エドミュアの言葉で、王宮という場所は案外どこも変わらないのかもしれないな、とリネアは思った。
リネアの祖国のルーンバールの王宮でも、笑顔の貴族たちが腹の中では、目の前の相手を引きずり下ろす機会を虎視眈々と伺っていた。使用人に化けた諜報員がそこかしこにうようよいる、油断できない場所だったからだ。
リネアの胸には小さなトゲのように、赤狼獣人の外交官ゾーデルの存在が引っかかり続けていた。
彼は王宮にいる。自分は疑われていて、もしかしたら彼の仲間もいるかもしれない。
今回の貴重な来訪を、誰にも邪魔をされるわけにはいかなかった。
目的の武器庫に入ると、壁沿いに組まれた木の棚の中に、鎧や鎖帷子などが所狭しと並べられているのが見えた。王宮の騎士が身につけるような金細工の施された装飾的なものは一つもなく、飾り気のない頑丈そうな鋼のみで造られた武器や防具ばかりだった。
リネアの目当ての防具は、部屋の奥の棚にあった。
小ぶりな半球形兜 。エドミュアが棚奥から引っ張り出してくれた一番小さなサイズのものを試しに被ってみると、リネアの頭にぴたりとはまった。
「リネア様、よかったですね。ちょうどいいのがあって」
「うん。他のものはレオが貸してくれるって言ってくれたんだけど、これだけなくて。お陰でなんとかなりそう」
「明日は、敵が潜んでる森の中に、目をつぶって飛び込んでいくようなものですからね」
「うん。できる限りの用心はして行きたくて。いいのが見つかってよかった。エドミュアが付き合ってくれて助かったよ」
兜を片手に武器庫を出ると、エドミュアは言った。
「イアンデ様が訓練場にいらっしゃいますので、よかったら見に行かれますか?」
「え、急に行っていいの? 邪魔にならない?」
「むしろリネア様が来ているなんて知ったら、イアンデ様は喜ぶと思いますよ。それにイアンデ様を見れば、リネア様の明日への不安が多少和らぐのではないかと思います」
「そうなの? ええと、それってどういう意味?」
「まあ、俺が説明するより観るのが一番早いです。そうすれば、すぐわかると思いますので」
エドミュアに促され、リネアはこっそり訓練場に足を踏み入れた。
屋根のない広場には、剣と剣とがぶつかり合う鋼の音が響いていた。その一角、数人の兵たちが囲む中心で、大柄な二人の騎士が剣を構えて向かい合っているのが見える。
二人は兜の面頬を下ろしており顔が見えない。全身は甲冑で覆われている。
けれどリネアには、その一人がイアンデであることが一目で分かった。聞き慣れた足音、そして見慣れたイアンデの筋肉質な体が、鎧の下に透けて見えるかのようだった。
「まあどうぞご覧になってください。リネア様の婚約者が〈グリムヴォーデンの牙〉と呼ばれている理由がわかりますよ」
イアンデの対戦相手は、背の高いイアンデよりさらに大柄な熊のような騎士だった。イアンデに向けて一歩足を踏みこむと同時に、雄叫びを上げながら両手持ちの大剣を振り下ろす。その強烈な一太刀を、イアンデは風のように軽やかにかわした。
空振りをしてほんの一瞬バランスを崩した相手の隙を、イアンデは見逃さなかった。ぐらりと揺れた兜をイアンデの長剣が素早く打つ。キイン、と上がった金属音と共に、よろめいた巨躯を勢いよく蹴り倒した。イアンデが相手の喉に剣の切先を当てると、「まいった」とかすれた声が聞こえた。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
「え……もう、終わり……?」
「はい。実戦であれば、あれで勝負がつきますので」
剣術の心得のないリネアには、技術的なことはよくわからない。なのに、そんな自分でもわかるくらいに、二人の力の差は歴然だった。
「イアンデ様は、すごく強いんだね」
「はい。ここにいる騎士で、イアンデ様の相手ができる者は数人に限られます。相手の騎士が弱いわけではありませんよ? 今負けたのは王都の模擬試合で最後の4人にまで残ったことがあるくらいの奴ですし、これから戦う奴は猛者揃いで有名なレイヤ族の族長の息子ですから」
次の対戦相手の騎士が、前に進み出る。二人が模擬試合を開始し、瞬き一つの間に再びイアンデが相手の騎士を地に叩き伏せるのを眺めながら、リネアは息を呑んだ。
(強いだけじゃなくて、それに……それに、すごく……)
イアンデが倒れた騎士を助け起こすのを眺めながら、リネアは思わず恥ずかしい言葉を口走りそうになった。慌てて両手で口を押さえ、ごくりと喉奥に吞み込む。
イアンデの戦う姿を見たのは初めてだった。あの均整の取れた筋肉質な体は、その強さが形となり現れたものであったとはじめて知る。
リネアはイアンデから目を離すことができなかった。
戦いを終えたイアンデが兜を脱ぐと、純白の髪がこぼれ出て、陽光を受けて光の糸のように煌めいた。
イアンデは美貌の王と謳われたグリムヴォーデン王の生き写しと言われている。凛とした白狼 を思わせるその出で立ちに鎧を纏った姿は、人々が憧れる騎士の姿そのものだった。本人には全く自覚が無さそうだが、これまで一体どれだけの人の心を虜にしてきたのだろう?
リネアはじわじわと頬が熱くなるのを感じる。
そんなリネアを横目でチラリと見たエドミュアは、満面の笑みを浮かべ得意げに言った。
「イアンデ様はとてもお強いです。その才能と弛まぬ努力の末、今やこの国で最高峰の剣技の持ち主と呼ばれています。リネア様がご心配される通り、王宮には良からぬことを考える輩がいるかもしれません。しかしそれらがリネア様を襲えば、イアンデ様の〈牙〉は必ず、その喉元に喰らいつくでしょう」
こちらに気付いたイアンデの瞳が大きく見開かれ「リネア?」と驚く声が聞こえる。並び立つリネアとエドミュアを交互に見つめると、眉尻がぎゅっと吊り上がり、眼光が射貫くような鋭いものへ変わった。
イアンデが大股でこちらに近づいてくる。
「おおっと、まずいな……ではリネア様。俺からは以上です。あとはよろしくお願いしますね」
「え? ああ、うん。今日は、ありがとうね」
リネアがそう言い終わるか終わらないかのうちに、エドミュアは風のように走り去っていった。
そのすぐ後に、イアンデはリネアの前にたどり着く。
「リネア、どうしたんだ? こんなところに来て。なぜエドミュアと二人でいた?」
「私がお願いして、武器庫を案内してもらっていたんです」
「武器庫に用があったのか? わざわざエドミュアに言わなくても、俺に言ってくれれば……」
「……あの、お気遣いありがとうございます。イアンデ様のお手を、これ以上煩わせるのもと思いまして。それにもう、解決したので大丈夫ですよ。それで、せっかくだからとこちらに連れてきてもらったのですが……突然来てすみません。覗き見るような真似をして」
「いや、それは全く、構わないが……」
イアンデに見つめられ、ドキドキと胸が高鳴る。先程のイアンデの戦う姿が、まだ目に焼き付いていた。無駄のない動き。研ぎ澄まされた一撃。いつも自分に触れてくれる手から繰り出される、鮮やかな剣技の数々を。
リネアはふるふると顔を横に振った。今はこんな感情にかまけていてはいけない。呑気に立ち話をしている場合でもなかった。明日王宮に行くために、まだやらなければいけないことがあるのだ。
気を取り直して、ふう、と息を吐き、リネアはまっすぐイアンデを見上げた。
「イアンデ様、ご相談があるのですが」
リネアは腕に抱いた兜を抱え直した。不思議そうに見下ろす金色の瞳を見上げ、明日確実にイルヴァに会うための計画を、イアンデに伝えたのだった。
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