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14 感情の名
夜、リネアが執務室で王宮に向かう準備をしていると、いつものようにイアンデがやってきた。すっかり慣れた様子でソファの定位置に座ったイアンデの元に、リネアは速足で歩み寄る。
「昼はありがとうございました。おかげさまでご相談した件、準備が完了しました。明日は予定通り出発できます」
「他に必要なものはないか?」
「はい。レオやエドミュアに協力してもらえたおかげで、必要な物は全て揃いました」
イアンデはいつもと変わらぬ無表情のまま、じっとリネアを見つめた。リネアは頭を下げると、やりかけだった作業に戻るために執務机に戻ろうとした。その瞬間、イアンデにパシリと腕を掴まれる。
「今日の作業は、いつ終わる?」
「あと、もう少しだけ」
「それは今どうしてもやらなければならない仕事か?」
「……ええと……いいえ。では、明日の朝にします」
そう聞くや否や、イアンデはリネアの脇に手を入れ軽々と持ち上げた。リネアが「わわっ」と驚くうち出窓の石枠にストンと座らせる。いつもより視点が高くなり、イアンデの顔が近くなった。
「あの、いつもの、重ねづけ、ですよね?」
「ああ。明日は本番だ。今夜は、念入りにやる」
イアンデはリネアの肩にかかる黒髪を手ですくい、サラリと後ろに流す。首を覆う詰襟のホックをプチプチと外し、露わになった白い首筋に顔を埋 めた。
念入りに、の言葉通り、今夜のイアンデの重ねづけはいつもより執拗だった。何度も首筋を熱い舌で舐められ、鼻を擦り付けられながら、リネアは漏れそうになる声を抑えるのだけで精一杯だった。項や耳など、敏感な場所ばかり責められて、身体が勝手にビクビクと震えてしまう。
イアンデの息もいつもより荒い気がした。首に柔らかく甘噛みを繰り返していた硬質な歯の先が、普段より少し深くリネアの皮膚に食い込み、ピリ、と鋭い痛みが走った。
「……っ……!」
リネアは反射的にイアンデの肩を強く押す。イアンデはぴたりと動きを止め、突然のリネアの拒絶ではっと我に返った。揺れる瞳に、後悔と気遣いの色がにじむ。
「すまない。痛かったか?」
「あ……いえ、大丈夫です。急に押して、申し訳ありません……」
痛いのが嫌だったのではない。むしろもっと強く噛んで欲しいとさえ感じた。けれど噛まれた瞬間、腹の奥が燃えるように熱くなったのだ。今までに感じたことのない、はじめての感覚だった。
(何……? これ)
一瞬感じた恐ろしいほどの熱は、今では熾火のようにじわじわと燻るほどになっている。けれど腹の中に残る熱の余韻が、リネアの胸に言いようのない不安を掻き立てた。
イアンデは戸惑うリネアに、気遣わしげな眼差しを向ける。
「もう少し続けても、大丈夫か?」
「はい。申し訳ありませんでした。大丈夫です」
「できれば、今度はリネアからして欲しいのだが、可能か?」
「私から……?」
「ああ」
それでいつものソファではなく、この少し高い場所にわざわざ座らせたのか、と気づいた。リネアのほうからも、イアンデに届きやすいように。
先ほど帰って来たイアンデをエントランスホールで出迎えた際にも、イアンデはリネアから口づけるように言ってきた。どうしてそんなことを言うのか不思議に思ったものの、努力はしてみたがあまり上手くはいかなかった。
イアンデは、再び自分にチャンスをくれたのかもしれない。
いつもイアンデに任せっぱなしで申し訳ない気持ちもあった。受け身なだけなのは確かによくない。自分からも少しは積極的に動かなければいけないと思った。
「わかりました。やってみます」
なにをしたらいいのかまるでわからなかったが、リネアは心を決める。
イアンデの肩にそっと手のひらをのせ、じっと上目遣いに見つめた。それを合図にイアンデが近づけてくれた首筋に、思い切って唇を押し付ける。半ば投げやりに触れただけだというのに、胸の中に幸せな気持ちが広がった。
自分から触れることは、無防備に触れてもらうのとはまた違う喜びがあることに気付いた。相手の好きな場所に、好きなやり方で触れることができる。唇を少し開き、心の赴くままにやわやわと肌を食んでみる。筋肉質な首は逞しく、自分の細い首とは別物のようだった。硬そうに見えたが、案外見た目より柔らかで、唇で触れると心地が良かった。
夢中で唇を這わせ、もっと、もっと……と近づくうち、ちろ、と一度、舌で舐めてみた。痺れるような甘い愉悦がぶわりと体中に広がる。強すぎる刺激でハッと我に返り、慌てて舌をひっこめた。
いつの間にか、イアンデの肩を強く握りしめていた。食い込んだ指先をパッと離しながら、痛くはなかっただろうかと申し訳ない気持ちになる。
初めて自分から触れてみて、上手くできている気がしなかった。イアンデを不快にさせていないだろうかと心配になり、顔を離しておずおずと表情を覗き見る。
「あの……こんな感じで、大丈夫でしたか?」
「ああ。とても上手だ」
ごつごつとした大きな手で、頭を撫でられる。リネアを見つめるイアンデの表情からは、嫌悪感は感じられなかった。リネアは目を閉じて、ほっと安堵の息を吐いた。
頭を撫でた大きな手が、スルスルと頬に移動する。親指でそっと唇を撫でられて、不思議に思い視線を上げた。見上げた金色の瞳が近づいて、なぞられた場所に唇が触れる。そのまま舌で舐められて、下唇が濡れるのを感じた。
首や耳はいつも舐められているが、唇にされるのは初めてだった。湿った舌が触れた場所から、甘い疼きが体中に広がっていく。腹の底が再びじわりと熱を持ったものの、リネアは不思議と、もうこの感覚を怖いとは思わなかった。
意外だったのは、今まで以上に親密なこの口付けを、自分が嬉しいと感じていることだった。胸の内側をふわふわとくすぐられるような、甘やかな感覚が広がった。
イアンデはゆっくりと顔を離す。リネアの体に回した腕に力を込めて、ぎゅうっと強く抱きしめた。
イアンデはいつも重ねづけの終わりに、このように力いっぱい抱きしめてくれる。大きな体に守るように包み込まれると、いつもリネアは、胸の奥まで締め付けられるような幸福感で満たされた。
それと同時に、寂しさが込み上げる。この力強い抱擁は、今夜の重ねづけはもう終わりだという合図だからだ。
(……このまま時間が、止まってしまえばいいのに)
けれどそんな祈りが通じるわけもなく、イアンデは腕の力を弱める動きのまま、ふわりとリネアを床に下ろした。
そして「おやすみ」と小さく呟くと、静かに執務室を出ていった。
遠ざかる足音を聞きながら、リネアは両手で顔を覆う。
――どうしよう。
イアンデに感じる、この気持ちは。
その感情の名を、リネアは今まで、ずっと考えないようにしてきた。考えずにいればそのうち消えてしまい、あれは愛し合う番のフリをする行為が見せただけの、ただの幻影にすぎないのだと思えるはずだった。
なのにイアンデの姿を目にするたび、優しく触れてもらうたび、心と体の両方が喜びに震えるのがわかった。
もう偽りようがなかった。いくら気持ちを抑え込むのが得意な自分でも、はっきりとわかるほどに。
――私は初めて、恋をしたのだ。
いつも優しく触れてくれる、狼獣人の婚約者に。
イアンデの存在を感じるだけで、心の奥底に押し込めた想いがこぼれてしまいそうになる。本当はこんなふうに触れてもらえるのが嬉しくて堪らないだなんて知ったら、イアンデはどう思うだろう?
――こんな下心を、私が持っているなんて知れたら……少なくとも、戸惑わせてはしまうはず。
イアンデは義務で触れてくれているだけだ。
それなのに、イアンデが何気ない仕草で示す偽りの愛情に、どうしようもなく心が揺れてしまう。
(馬鹿みたいだ。私だけ、本気になって)
そこに本物の愛は、存在していないのに。
リネアは湧き上がり続ける自分の気持ちを、ただ恥ずかしく思っていた。
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