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15 秘密の庭

  「リネアは今日、俺の従士ということにして、王宮に向かう」  王宮へ出発する朝、イアンデは随行する騎士たちにそう告げた。  リネアは隣に立つ本物の従士のレオと、目配せして笑みを交わす。今日、この12歳の少年とリネアはお揃いの革鎧を身につけていた。頭に被っているのは半球形兜(ハーフヘルム)。長い耳を隠せば、身長が同じくらいのレオとリネアは同じ年嵩の従士に見えた。  この変装は、王宮の衛兵や使用人のふりをした諜報員たちに気づかれないよう、リネアの来訪を隠すためのものだった。  今日の一番の目的は、エリクからの手紙をイルヴァ姫に渡すこと。  部外者は王宮内に武器はおろか、手荷物すら持ち込めないことがある。貴重な手紙を取り上げられるわけにはいかない。どうしたらよいか思い悩んだ末、リネアは身に付けた上衣の糸をほどき、表地と裏地の間に手紙を忍ばせることにした。  もう一つの目的は、自分とイアンデが仲睦まじく接する様子をイルヴァに見せることだ。  ここ数日、イアンデは本当に頑張ってくれた。今リネアの体には、目に見えないイアンデの痕が重ねづけられているはずだった。けれど着慣れぬ防具に包まれた体を見下ろして、リネアはふと不安になった。 「イアンデ様、今日はいろいろ着込んでしまいましたが、イルヴァ様にちゃんと伝わるでしょうか」 「革鎧くらいなら全く問題ない。だが」  イアンデは言葉を途切れさせると、リネアの肩で留められた長いウールのマントをめくり上げた。 「これは王城に入る時は必要だが、イルヴァの前では取った方がいい」  そう話すイアンデに至近距離から見つめられ、思わず頬が熱くなる。昨夜初めて自覚した想いが邪魔をして、イアンデと視線を合わせることができなかった。  イアンデから目を逸らし、おろおろと周りを見渡す。目を細めた狼獣人の騎士たちから、なにやら生暖かい眼差しを向けられていることに気づいた。  ――私たちは一体、どう見えているんだろう?  兎獣人の自分にはわからないその姿を、リネアはぼんやりと想像してみる。何かもやもやとしたイアンデの匂いのするものを纏った自分の姿を想像して、恥ずかしいようなくすぐったいような複雑な気持ちになり、何だか胸がそわそわした。  そんな落ち着かない気持ちを抱えたまま馬を走らせ――お昼過ぎに王宮に到着した。  馬丁に馬を預けると、屈強な護衛騎士2人と狼獣人の女性が一同を出迎える。  髪をきりりと結い上げた女性は、イルヴァ付きの女官長だと名乗った。武器をすべて渡すように言われ、イアンデはしぶしぶ剣帯ごと長剣とナイフを手渡した。他の騎士たちもイアンデに倣う。鎧を脱ぐように言われ、王宮の護衛騎士が服の上から手を這わせ、騎士たちが体に危険物を隠し持っていないかを調べている。  弱そうであまり脅威にならないと思われたのか、従士姿のリネアとレオは鞄を没収されただけだった。武装したノースエンドの騎士たちは長靴(ちょうか)の内側や口の中まで調べられ気の毒なほどだった。すべてを終えると、ようやく城に入る許可が下りた。  イアンデやノースエンドの騎士たちと共に女官長の後を付いて行くと、緑豊かな王宮の庭園に案内される。そこはイルヴァ姫の秘密の庭(プライベートガーデン)で、蔓薔薇(つるばら)が生い茂って高い壁となり、外からの視線を完全に遮っていた。その中心には敷石が敷き詰められ、大理石で作られたガゼボが聳えていた。  白い屋根の下から歩み出て来た女性は、イルヴァ姫その人だった。綿菓子のような尻尾をふわりと揺らし、純白の尖った耳をしゅん、と下げると、期待に溢れた笑顔が悲しげな色に染まる。 「イアンデ。リネアはいないの? こっそり来てくれるものと……」  振り向いたイアンデが頷いたのを合図に、ノースエンドの騎士たちが退出の礼をとり立ち去る。  1人残されたリネアはマントを外し、頭から兜を脱ぐと、つぶれた長耳が、ぴん、と跳ねるように立ち上がった。  その瞬間イルヴァの顔が、背後に咲き乱れる大輪の薔薇にも負けないほどの華やかな笑みに変わった。 「まあ! なんてこと! 貴方がリネアなのね……?」 「殿下。お初にお目にかかります。リネアと申します。このように紛らわしい格好で申し訳ありません。お会いできて光栄です」  イルヴァは跪いたリネアの手を取って立たせると、金の瞳を太陽のようにキラキラと輝かせた。 「……リネアは、男性なのよね……? ルーンバールで兎獣人の男性には何人か会ったけれど、貴方のような人は初めてだわ……!」  正面に立つと、イルヴァ姫はリネアより背が高いことがわかった。イルヴァは真剣な顔でぐいと距離を詰めると、リネアの頭や頬にペタペタと触れ始めた。 「あ……あの、殿下……? どうかご勘弁を……」  リネアは堪らず声を上げたものの、イルヴァの手の動きは止む気配がない。  イルヴァはじっとリネアの瞳を見つめると、両腕を回して守るようにリネアを抱き寄せた。勢いよく顔を上げ、きっ、と兄のイアンデを睨みつける。 「イアンデ。貴方ね、いくらなんでもこれはひどすぎるわ。まだ結婚前なのでしょう? なのに……こんなにいたいけな子に、べったりと……」  美人の怒った顔はなかなか迫力があるものだが、イアンデはそれをものともしない。イアンデがむっと表情を顰めたため、リネアは慌てて声を上げた。 「私は、殿下より4つも年上なのですよ? いたいけな子としていただくのは、さすがに無理があります」 「だって……だって、こんなにかわいいのよ?」  イルヴァはまるで小さい子供にするように、リネアの頭をよしよしと撫でた。  イアンデが怪訝な顔で眉根を寄せる。イルヴァがリネアを撫で回す様子を睨みつけていた顔から、不意にすべての感情が、ふっと消え失せた。  僅かに空気が揺れ、目の前のイアンデが消え去った。「あれ?」と思った次の瞬間、リネアはイアンデの腕の中で抱きしめられていた。 「あっ……え……?」 「イルヴァ、リネアに触るな」  イアンデはリネアを抱き込みながら、イルヴァをじろりと睨みつける。イルヴァはカラになった腕の中を見下ろし目をぱちくりさせ、自分の手のひらとイアンデとを交互に見つめた。そして、感極まって胸をおさえ、輝く笑顔を溢れさせた。 「まあ、まあ、まあ……! イアンデ、あなた随分、人間らしいことをするようになったものね!」 「俺はずっと人間だが」 「そうよ、そう! これこそ、愛の力なのだわ……」  うっとりと夢見るように微笑むイルヴァの視線を受けて、イアンデは眉を顰める。リネアとイアンデに羨望の眼差しを向けながらも、イルヴァはどこか寂しげに表情を綻ばせた。 「イアンデとリネアは、とても上手くいっているのね。羨ましいわ。そんな貴方たちにね、どうしても聞きたいことがあるの。どうぞ、ここに座って」  リネアはイルヴァから勧められるがままに隣の椅子に腰掛けた。イアンデは座らずに、リネアの少し後ろに立つ。ちょうど庭園の入り口からリネアが見えない位置となり、まるでイアンデ自身の大きな体で、リネアを隠そうとしているかのようだった。  ずっと会いたいと願っていたイルヴァ姫が、ついに目の前にいる。エリクからの手紙をすぐにでも渡したかったが、タイミングが難しい。女官長と護衛騎士2人が「一つの動作も見逃さないぞ」と殺気に満ちた眼差しで、こちらを睨んでいたからだ。  先ほど手荷物はないと伝えたのに、隠し持った手紙を出すのが躊躇われた。秘密の客人である自分たちは酷く警戒されているのだろう。どうすべきか悩んでいると、イルヴァは内緒話をするようにリネアに顔を寄せて小声で囁いた。 「リネア、よかったら教えて欲しいのだけれど、エリク様は私のことを、なんておっしゃられていた? やはり怒っておられるのよね……」  そう言って寂しそうに長い睫毛を伏せるイルヴァを見て、リネアは慌てて小声で囁き返した。 「エリク様は全く怒ってなどおりません。むしろご自分のせいでイルヴァ様にご不快な思いをさせてしまったと、酷く悔やんでおいでです」 「え? そうなの? そんなの、全く違うわ!」 「イルヴァ様は、エリク様との復縁を望んでくださるのですか?」 「ええ。そうなの。私、こんな酷いことを自分からしておいて、勝手なことを言っているのはわかっているわ。全部……全部、私のせいなのに」 「もし差し支えなければ、その理由をお聞かせ願えますでしょうか?」  イルヴァはふう、と深呼吸をすると、僅かに瞳を潤ませながら、そっと打ち明けた。 「私ね。政略結婚とはいえ、エリク様にお会いするたびどんどん好きになってね、あの婚約式のプロポーズは、本当に嬉しかったわ。でもね、初めて……口付け、をしていただいたとき、気づいてしまったの。ああ私は一生、誰からも匂いをつけていただけないのだわ、と」 「匂い? 番痕(つがいこん)のことですか?」 「ええ。狼獣人は、愛する番に匂いづけをするでしょう? エリク様は兎獣人だもの。狼と同じにできないことなんて頭では理解していたはずだったわ。でもあの時、エリク様から何の匂いも感じられなくて、頭が真っ白になってしまって。番痕(つがいこん)を……愛する方につけていただくことを、夢見ていない狼獣人はいないわ。それが一生叶わないと思ったら、どうしようもなく、悲しくなってしまって……」 (え…………?)  リネアは目を見開いた。  狼獣人は番痕を互いにつけ合う。そんな単純な事実に今さら気付いたからだ。  イアンデは自分に、愛する番と同じようにたくさんの痕をつけてくれた。しかし自分は、それを返すことなんて一度もできていない。そもそもつけられた匂いがどんなものであるのかさえわからないのだ。  そして自分は、これから先も一生つけることはできない。  狼獣人たちが夢見るという、互いにつけあう『痕』を。  目を見開き黙りこむリネアを見つめ、イルヴァは言葉を続けた。 「全部私が悪いの。私が子供だったせいなの。グリムヴォーデンとルーンバールの同盟も、私のせいで台無しになってしまったわ。そのことを真っ先に気にすべきなのに…………エリク様のことで、頭がいっぱいなの。彼を愛しているの。どうしたらまた会えるか、そんなことばかり考えてしまうのよ……王族失格だわ」  種族を超えたイルヴァの想いに、リネアは胸が締め付けられるようだった。  けれど同時に、胸の内にひたひたと絶望が押し寄せる。  この数日で、リネアは知った。  匂いがわからない自分ですら感じた、愛しい人に匂いをつけてもらう喜び。痕をつけてもらう心地よさ。その震えるほどの幸福な気持ちを。  ――イアンデ様も一生、匂いをつけてもらう喜びを得られないということだ。伴侶が、兎獣人の私であるならば。  脇道に逸れ始めた自らの思考に気づき、リネアはブンブンと頭を振る。今は自分たちのことを考えている場合ではない。イルヴァとエリクのことだけに目を向けなければならなかった。  バクバクと不穏な音を鳴らす左胸をぎゅっと抑え、リネアは何とか喉奥から声を絞り出した。 「エリク様は、イルヴァ様を心から愛しておられます。イルヴァ様を傷つけてしまったのではないかと、ご自分をひどく責めておいでです。手紙を受け取ってもらえないのも、来訪も拒絶されるのも仕方がないことだと気に病んでおられます。ですので、イルヴァ様のそのお気持ちをどうか、エリク様に伝えてはいただけないでしょうか? エリク様もまた、イルヴァ様との結婚を心から望んでおられます」  リネアの言葉を聞くと、イルヴァは怪訝そうに眉根を寄せた。その金色の瞳に、みるみる疑念の色が広がっていく。 「え? ……リネア。貴方今、何と言ったかしら?」 「お気持ちをお伝えしてほしいと」 「いえ、その少し前。私、エリク様から手紙をいただいていたなんて初耳だわ。送ってくださっていたの?」 「はい。何度も送ったとおっしゃっていましたが……」 「どうしてかしら? 私、何も聞いていないわ。こちらからは何度も手紙を送っているけれど、返事をいただいたことなんて一度もないし。だからてっきり、エリク様からはもう、嫌われたものだとばかり……」 「イルヴァ様からも、エリク様にお手紙を送ってくださっていたのですか? エリク様の元には何も届いておりませんでしたよ?」  一体どういうことだろう?  エリクから聞いていた話と違う。彼はイルヴァからの手紙など、一度も受け取っていないはずだ。  言葉を詰まらせるイルヴァ姫を見つめながら、リネアはこれまでに起きた出来事に思いを巡らせた。  届かなかった手紙。  得られなかったイルヴァの情報。  リネアが追い出されようとした、かつての出来事。  胸に引っかかったままの、小さなトゲ。  ばらばらだった点が、一本の線で結びつけられていくのを感じた時、リネアの耳が、ピクリと動いた。こちらに近づく、不穏な足音が聞こえてきたからだ。 「何者かが、この庭に近づいてきています」  リネアの言葉を聞き、イルヴァとイアンデが「え?」と同時に声を上げる。  リネアはその足音から、複数の人物がいることを聞き分けた。靴の音は2種類。一番大きい音は文官が履く革靴の音。そして複数の騎士が長靴(ちょうか)を踏み締める音だった。 「お待ちください! この先には立ち入ることはできません!」  庭園の入り口から、イルヴァの護衛騎士が慌てる声が上がる。けれどすぐに、侵入者たちの無遠慮な足音にかき消された。  リネアは振り向いて、声の方角に目を凝らす。  なだれこんできたのは、武装した4人の騎士だった。物々しい集団の中心にいたのは、かつてノースエンド城を訪れた、赤狼獣人の外交官ゾーデルだった。

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