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16 グリムヴォーデンの牙

   庭園は不気味な静けさに包まれていた。  武装した騎士たちを前に、イアンデの纏う空気が、瞬く間に張り詰めたものに変わる。  イルヴァ姫の表情が柔和な雰囲気から一変した。金の両眼に激しい怒りが燃え上がり、侵入者たちを睨みつけた。 「あなたが私の庭に入ることは許していないわ。ゾーデル、部下をつれて下がりなさい。今すぐに」 「恐れながら、姫様。この会談は中止してください。リネア様、王宮にいらっしゃるのであれば事前に外交部を通してくださらないと困ります。異種族が無許可で王宮に立ち入ることは禁止されています」 「そんな決まりはないわ。でたらめを言わないで。私の大事なお客様なのよ」  イルヴァ姫は女性とはいえ、その迫力は凄まじいものだった。一声で相手をねじ伏せる強い威圧。王族からの圧倒的な威嚇を受けてゾーデルは怯んだ。イルヴァ姫から逃れた視線が、リネアにまっすぐ注がれた。 「リネア様。王宮の禁を破り、私物を持ち込まれているでしょう? 今すぐこちらに渡してください」  女官長たちが目を見開きリネアを見つめた。  ゾーデルは歪んだ笑みを浮かべ、リネアに片手を差し出す。  平静を装ってはいたが、彼の鼓動が早鐘のように打ち鳴らされているのが聞こえた。よく見れば額にじんわりと汗が浮かび、緋色の耳毛は逆立っている。リネアがここにいることは、酷く都合が悪いことらしい。隠しきれない焦りを滲ませたゾーデルと目が合った瞬間、リネアの頭の中に、心にひっかかっていた言葉が次々に蘇ってきた。 「手紙を送っても返事がないし、来訪も拒否されている」とエリク王子は言った。 「『大変遺憾である』と繰り返すばかりで埒があかない」と外交官のラウルは言った。 「何度も手紙を送っているけれど、返事をいただいたことなんて一度もないし」とイルヴァが言った。  それは今、目の前にいる者たちのせいなのではないか――と気づいた。  イルヴァとエリクは愛し合っていた。なのに手紙は届かなかった。そして今、リネアの持つ手紙も奪われようとしている。若いエリクとイルヴァに生まれた綻びをついて、二人は常に引き裂かれようとしていた。  彼らの目的はわからなかった。けれどひとつだけ確かなのは、この者たちに、手紙を奪われてはいけないということだった。  4人の騎士たちが、剣の柄に手を掛けたまま徐々にこちらに近づいてくる。  リネアはイアンデを見上げた。イアンデは侵入者たちから目を逸らさぬまま、口の中で何かを囁く。兎獣人のリネアにしか聞こえない、吐息ほどの小さな声だった。  “何か気づいたのなら、リネアの思う通りにしろ。なにも心配するな” 「でも…………」  イアンデに武器はない。相手は長剣を持つ騎士4人だ。いくらイアンデが〈グリムヴォーデンの牙〉と呼ばれるほどの国有数の騎士だとしても、丸腰で立ち向かうことなど可能なのだろうか?  もしも怪我をしたら。あの鋼の長剣がイアンデの体を刺し貫いたら。そんな最悪の状況がリネアの脳裏を掠める。想像しただけでぞっとして涙がにじんだ。そんな危険な目に遭わせるわけにはいかなかった。  リネアの恐れを、イアンデは感じ取ったのかもしれない。イアンデは先程より大きな声で、はっきりと告げた。 「俺はリネアの正しさを、信じている。だからリネアも、俺を信じてくれ」  その揺るぎない声は澄んだ響きとなって、リネアの心の奥深くまでまっすぐ届いた。  イアンデが自分を、信じてくれている。  その信頼が、リネアの中で確かな力へと変わった。  あらゆる可能性を思考し尽くし、リネアは心を決めた。イアンデがいるからこそ選択できる、最善の方法があった。 (申し訳ありません、イアンデ様)  リネアはそう小さく囁いて、立ち上がる。不気味な笑顔を張り付けたゾーデルに向け、まっすぐ声を張り上げた。 「なぜ私が、私物を持ち込んでいると確信しているのですか? イルヴァ様に宛てたエリク様からの手紙に、そう書かれていた?」 「…………何を言い出したかと思えば……」 「だって、エリク様が送ったイルヴァ様への手紙を止めていたのは、貴方がた外交官でしょう? 誰かに命令されたのですね?」  ゾーデルの顔から、笑みが消える。  イルヴァの顔が朱を注いだように真っ赤に染まり、怒鳴るように叫んだ。 「どういうことなの?」 「姫様、この男は嘘つきです。低俗な異種族の言葉などに、どうか、惑わされぬよう……」 「リネアは嘘つきなんかじゃないわ! 貴方たち一体、何をしたの?」  イルヴァの怒声に眉をしかめたゾーデルは、冷たく視線を流した。両側で構える騎士たちに指示を出す。 「あのうさぎは危険人物だ。捕らえろ」  ゾーデルがそう言い放った瞬間、イアンデがリネアをかばうように前に立つ。リネアの視界は、広く頼もしい背中に覆われた。立ちはだかったイアンデを見た騎士たちが、一斉に長剣を引き抜く。金属のこすれ合う音と共にイルヴァが悲鳴を上げ、女官たちが王女をガセボの外へと無理矢理連れ出した。 「ご負担をかけて申し訳ありません、イアンデ様。このような方法しかなく……」 「問題ない。リネアはここでじっとしていろ。すぐに終わる」  争いのきっかけを作っておきながら、戦うこともできず、何の力にもなれないことが申し訳なかった。今の自分にできることは……と思いを巡らせる。 「私もイアンデ様を、信じています」  そう告げて、ほんの少しでもイアンデの力になれたらと願いを込めて、彼の背にそっと触れた。イアンデの筋肉が盛り上がり、内側から力が(みなぎ)っていくのを感じた。  辺りが一瞬、しんと静まり返る。  イアンデは、騎士たちの元にゆったりとした足取りで近づいていく。  静寂をかき消すように、一人の騎士が怒声を上げた。  イアンデに切りかかった騎士の一撃は、呆気なく空振りに終わった。大股で踏み込んだイアンデが拳で殴りつけ、騎士は地面に叩きつけられる。敷石に後頭部を打ち付けた騎士が苦悶の声をあげた。  次の騎士が振り上げた一太刀が、空気を切り裂く音が響く。イアンデは太刀筋をかわした動きのまま、騎士の横っ面を蹴りつけた。吹っ飛んだ騎士の巨躯が薔薇の棘にまみれたフェンスにぶつかり、グシャリと鈍い音が響く。衝撃で無数の花びらが宙に舞い散った。  イアンデが、落ちた長剣を拾う。  残った二人が同時に飛び掛かってくる。二本の剣尖がイアンデに突き刺さろうとした瞬間、鋭い金属音が上がると共に、2本の剣が宙を飛んだ。イアンデが繰り出した剣先が、騎士二人の足の脛当(すねあ)ての隙間にたて続けにめりこむ。悲鳴を上げてよろけた体めがけてイアンデが蹴りつけ、二人は地面に倒れ込んだ。  ゾーデルは目を見開いて固まった。一瞬で起きた惨状に顔面蒼白になる。  騎士たちが苦痛に喘ぐ様を食い入るように見つめていたものの、イアンデが近づいてきたことに気づき「ひっ……」と蛙のような声を上げた。  しかしその時、倒れた一人の騎士が、呻きながら起きあがろうとした。イアンデが振り返る。自分から注意が逸れたと知ったゾーデルは、憎しみの籠った視線をリネアに向けた。血走った目をむき、鬼のような形相でこちらに足を踏み出した。  リネアだけでも連れ去るつもりだったのかもしれない。けれど、立ち上がりかけた騎士は一瞬でイアンデに打ち倒された。リネアに近づこうとしたゾーデルもまた、イアンデに後ろから軽々と捕えられる。イアンデが彼の首に腕を回し、勢いよく締め上げた。腕に力がこもるにつれ、ミシミシと骨が軋む不気味な音が響く。 「リネアに二度と手を出すな。約束しろ」  赤黒く染まっていく顔が、こくこくと必死に頷くのを確認すると、イアンデは容赦なく腕にさらに力を込めた。ゾーデルの目は大きく見開かれ、突如黒目がぐるりと上を向く。どさりと地面に崩れ落ちて、気を失ったゾーデルはぐったりと静かになった。  イアンデは地面に倒れた男たちを警戒したまま、その場に佇む。  落ちた薔薇の花びらが、風に舞い飛んでいく。  庭園を吹き抜ぬける風に紛れて、慌ただしい足音が聞こえてきた。複数の武装した騎士たちが入って来る。その後からは悲壮な面持ちのイルヴァ姫が走り寄って来た。  新しく入ってきた騎士たちは、煌びやかな金鍍金の施された鎧と、鮮やかな青いマントを纏っていた。イルヴァが連れてきたということは、王族直属の近衛騎士だろうか。  近衛騎士たちは仰向けに伸びた外交官と、地に伏して呻く4人の騎士たち、そして傷ひとつ負わずに平然と佇むイアンデを見て、一瞬言葉を失う。 「ちょっと! 貴方たち、そんなところで突っ立ってないで、早く罪人を捕らえて!」  イルヴァが急き立てる声で、騎士たちはハッと我に返る。そして慌てて5人の男たちを縄で縛り上げ始めた。  イアンデはふうと息を吐くと、リネアの方へと振り返った。はた、と一度尻尾を揺らし、リネアの元に戻って来る。声も出せずに立ちすくむリネアの前で立ち止まり、気遣わしげにその瞳を覗き込んだ。 「大丈夫か?」 「……はい……もちろんです。イアンデ様が、守ってくださいましたので……」  イアンデは、ほっとしたように顔を緩める。  イアンデの宣言通り、それはまさに一瞬の出来事だった。圧倒的な強さと手際の良さ。武装した騎士たちを相手に、イアンデは見事にそれをやってのけた。リネアは胸に、熱いものが込み上げてくるのを感じた。気づけば息をするのも忘れるほどに、イアンデに見入っていた。 「リネアの狙い通りになったか?」 「はい。イアンデ様のおかげです。これでいくらかはきっと、イルヴァ様とエリク様の邪魔をする者たちがいなくなるはずで……」 「そうか。よかったな」  こんな事件を起こしてしまったからには、これから向き合わなければならない問題が山ほど出てくるのだろう。やるべきことに早く目を向けるべきだった。そう頭ではわかっているはずなのに、心はどうしても言うことを聞かなかった。  リネアの頭の中は、イアンデのことでいっぱいだ。  勇ましく戦う姿。自分を信じてくれた言葉。リネアの胸の中に、イアンデが起こした嵐が荒々しく吹き荒れていた。  イアンデを見上げる。口を開こうとしたものの、言うべき言葉を見つけられなかった。  この気持ちを、どう伝えたらいいのだろう? けれど言葉にしようとするたびに、せり上がる思いは形を失ってしまう。思わず口をついて出たのは、ひどくありきたりな言葉だった。 「イアンデ様、ありがとうございました。本当に」  イアンデの金色の瞳が、優しく細められる。  ハタハタと揺れる尻尾を視界の端に感じながら、リネアはただ、胸の高鳴りを抑えきれずにいたのだった。

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