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17 愛の匂い

  「リネア、イアンデ。心から謝罪するわ」 「どうか顔を上げてください。イルヴァ様のせいではないのですから」 「いいえ。家臣が犯した不祥事は主君である私たち王族の責任ですもの。それにそもそも、私が付け入る隙を与えてしまったのがいけなかったのよ」  頭を垂れてひざを折るイルヴァを前に、リネアは酷く戸惑った。  真相を聞くところによれば、イルヴァは明らかに被害者だった。外交官たちの手により、ルーンバールからの全ての情報を遮断されていたのだから。  証拠は山のように出てきた。けれど悲しいことに、ルーンバールから届いたエリクの手紙はすべて炎にくべられ処分されたのだという。  その事実を知ったリネアは、エリクとイルヴァの気持ちを思い、胸が押し潰されるようだった。  被疑者の捕縛が済むと、リネアとイアンデはグリムヴォーデンの近衛騎士団長に深く感謝された。 「我々は証拠を掴むことができなかったのです。今回お二方が派手に事件を起こしてくださったおかげで、ようやくきっかけを得ることができました」  ゾーデルと騎士たちは牢に収監され、これから厳しい尋問が開始されるという。  王が推し進める他国との同盟は、一部の戦争推進派の諸侯により密かに妨害が行われていた。ルーンバールとの戦争の火種は人為的に増やされていたという。もしも彼らの狙い通りに開戦していたら――そう想像して、リネアはゾッとした。  しかし外交官たちだけで、このような大掛かりな叛逆を起こせるわけがない。後ろ盾となる首謀者がいるはずだった――それも、かなり高貴な身分の。  その人物については、騎士団長は表情を曇らせ言葉を濁した。しかしすでに身柄は拘束しており、もう二度と同じことは起きないと約束できるという。  これからその人物の息がかかった反乱分子を炙り出し、王宮内で大規模な粛清が開始されるとのことだった。  けれどそれらは、すべて王宮の仕事だ。  ようやくリネアが長い聴取から解放される頃には、白亜の王宮は夕陽色に染まり始めていた。  イアンデとリネアはイルヴァの私室に招き入れられ、3人はようやく、ソファに座り向かい合う。  悲しげにうつむくイルヴァに、リネアは優しく語りかけた。 「私はずっと、この日が来るのを待っていたのです。ようやく、イルヴァ様にお渡しすることができます」  リネアは上衣を脱ぐと、裏地の糸をスルスルとほどき内部から封筒を取り出した。離れた場所から監視していた女官長がぎょっとして眉を吊り上げ、リネアを睨みつける。リネアは肩をすくめ「ごめんなさい」と謝罪の視線を送った。 「肌に近い場所に身に着けてしまい申し訳ありません。防水布に挟んではいましたが、匂いなど移っていないとよいのですが」 「たとえ移っていても、リネアなら全く問題ないわ」  茶目っ気たっぷりにそう言ったイルヴァに、リネアは思わず笑ってしまう。  そしてついに、差し出した封筒がイルヴァの指に触れた。自分の手からイルヴァの手へと、スルリと渡っていくエリクの手紙。指先の重みがなくなると同時に、リネアの心もスッと軽くなるのを感じた。 (エリク様、ようやく約束を果たすことができましたよ。最愛の姫君に、貴方様の想いを無事にお届けできました)  イルヴァは注意深く封筒を開くと、震える指で便箋を取り出した。  目を伏せて紙面に目を走らせながら、長い睫毛を震わせる。そして、一筋の煌めく涙が白い頬に伝った。 「エリク様が……こんなに私を想っていてくださっているなんて、知らなかったわ……もしも私が戻らなくとも、生涯、他に妻を娶る気はないとまで書いてくださっているの」  イルヴァは手紙を胸に抱き、瞳を閉じて深く息を吸い込んだ。まるで触れた手紙から、直接エリクの想いを感じ取るかのように。 「リネア、この手紙を守ってくれてありがとう……。私、謝らなければ。エリク様は何ひとつ悪くないんだもの」 「ぜひイルヴァ様のお気持ちを、エリク様に伝えて差しあげてください。エリク様は、イルヴァさまのことをずっと待っておられます」 「ええ。ぜひ、そうしたいわ。リネアとイアンデのおかげで希望が持てたの。だって二人は、狼とうさぎなのに、こんなにも仲が良いんだもの」  笑顔を向けるイルヴァを前に、リネアはちくりと胸が痛む。  兎獣人である自分は、狼獣人のように痕をつけることができない。  自分たちの関係は、イアンデの犠牲の上に成り立っている。匂いをつけ合うことが狼獣人の夢であるならば、それができない兎獣人のリネアは不完全な結婚相手だ。  イアンデの欲求は、一生満たされることがない。  彼がリネアを受け入れるために諦めたものは、想像以上に大きなものだった。  そしてそれは、これからエリクの妃になろうというイルヴァもまた、抱いていかなければならない犠牲だった。  ――狼獣人と兎獣人の結婚に、このような障壁があったなんて。  イアンデが手放した以上のものを、自分は差し出すことができるだろうか。たとえ痕はつけられなくとも、心からの愛情と献身のすべてを捧げたら、その穴を埋めることはできるのだろうか?  リネアは申し訳ない気持ちが込み上げる。けれど足りない伴侶である自分でも、愛する人の幸せのためならば、どんなことだってしたいと思っている。  きっとそれは、イルヴァを愛するエリクも同じだ。  その気持ちを、どうしても伝えなければならないと思った。 「私たち兎獣人は、狼獣人のように痕はつけられません。私の能力不足でイアンデ様にご満足いただくことができず大変心苦しく思っているのですが、それ以上に、心より愛情を注ぎ……」  リネアの言葉を聞きながら、イルヴァは戸惑ったように、ぱちぱち、と目を瞬いた。眉をしかめて、イアンデに怪訝な視線を送る。  リネアはイルヴァの表情を不思議に思い、言葉を途切れさせた。隣に座るイアンデを見上げる。  真顔でリネアを見下ろしたイアンデが、平然と言い放った。 「リネアはできるぞ」  当たり前のように言い放たれたイアンデの言葉を聞いて、思わず「え?」と聞き返した。思いもよらない言葉過ぎて、意味が理解できなかったからだ。 「できるって……何をですか?」 「匂いづけを、だが」 「……匂いづけ? 私が?」 「ああ」  リネアは驚いて、大きく目を見開いた。  いきなり言われても、にわかには信じられなかった。自分は匂いづけなんてした覚えがない。そもそもその痕を、感じることすらできないのだ。  戸惑うリネアを見て、穏やかに表情を綻ばせたイルヴァが、優しい眼差しを向けた。 「リネア、知らなかったの? 私もイアンデの体に、リネアの痕をちゃんと感じるわ。右の首元……あたりかしら? ちょん、て感じのかわいい痕。狼獣人のものとは、少し違うものだけれど。でも、あれは確かに、リネアの匂いだもの」  イルヴァは微笑んで、その瞳を輝かせた。 「教えてくれてありがとうリネア。私、兎獣人も匂いづけできるなんて全然知らなかったの! もう番痕なんてどうでもいいと思っていたけれど、イアンデのその痕をみたら、もう、羨ましくてたまらなくて! だってそれって、エリク様もできるかもしれないってことじゃない? リネアにぜひ、やり方を教えてほしいのよ。どうやってやるの? コツはあるの? 兎獣人なら誰でもできるものなのかしら?」 「あのっ、ちょ、ちょっと、待ってください!」  イルヴァ姫がソファから身を乗り出して、ぐいぐいとリネアに詰め寄る。その圧の凄まじさに、リネアはおろおろと視線をさまよわせた。  どう答えたらいいのか全くわからない。だって自分は、痕をつける方法どころか、手応えのようなものすら何も感じたことがないのだから。 「……わからないんです。自分でもやり方を、知りたくらいで……」 「まあ! では無自覚にやっているということ?」 「そう……なのでしょうか? ご要望にお応えできず、申し訳ないです……あの、そもそも狼獣人の言う『痕』が何であるかも全くわからなくて」 「そうよね……ええと、なんだったかしら……厳密には匂いとは少し違うものらしいのだけれど……。私たちにとっては、ただ感じる、としかいいようがなくて。説明が難しいわ」  イルヴァは睫毛を伏せて考え込んだものの、すぐにぱっと顔を上げた。  その黄金の瞳がリネアを見つめ、ギラギラと恐ろしいほどの光を放ち始める。 「ではリネア、こうするのはどうかしら? もしよかったら、今この場で実践してみてほしいの! イアンデに向かって、ぜひ、リネアが痕をつける瞬間を見てみたいわ!」 「……実、践…………?」  リネアはその言葉が意味する行為を想像して、体がぶわわっと燃え上がるように熱くなった。それはつまり、今この場で、イアンデを抱きしめたり、口付けたり、そういった親密な行為をしてみせろということで……。  真っ赤な顔のまま、助けを求めてイアンデを見上げる。すると上から、はあ、と深いため息が降ってきた。 「イルヴァ。リネアをあまり困らせるな」 「ええっ……? だって、それが1番……」 「やればできるとわかっただけで十分だろう? あとはお前たち二人で方法を探れ。エリク殿が好きなのだろう? それならなんだってできるはずだ」  イアンデに諭されて、イルヴァの耳がしゅんと下がる。けれどすぐに、その顔に希望に溢れた笑みが広がった。 「ええ。そうね。そうするわ。……私、エリク様にお会いして、心から謝罪するわ。それで、もしもエリク様が望んでくださるなら、私、彼と番になりたい。イアンデとリネア、貴方たちみたいに」  イルヴァは瞳を潤ませて、イアンデとリネアを見つめる。  そしてすぐに、金の瞳に強い決意の光を灯して、力強く立ち上がった。 「こうしてはいられないわ。今すぐエリク様に会いに行かなくては」  イルヴァに目配せされた女官長が、瞬き一つの間に部屋から消える。そしてすぐさま、廊下から侍女たちに指示を飛ばす慌ただしい声が聞こえてきた。  その僅か30分後、イルヴァは乗馬服に身を包み城の外に立っていた。  見送りに出たリネアとイアンデに、再び笑顔で礼を言う。馬丁が連れてきた純白の駿馬に華麗にまたがると、優美な所作で手を振った。そして護衛騎士たちと共に疾風のように駆け出して、グリムヴォーデンの王宮から旅立って行ったのだった。  その遠ざかる後姿を、リネアとイアンデは呆気にとられ見つめる。 「すごいですね、イルヴァ様は。ご容姿は可憐な花の女神のようでいらっしゃるのに、そのお心はまるで炎の神のように情熱的で」 「あいつは昔からお転婆だったからな。まるで変わらない」  呆れるイアンデの横で、リネアはただ感心する。  グリムヴォーデンの王宮は、急遽ルーンバールにイルヴァの来訪を告げる鳥を送ったはずだ。  けれど先ほどの勢いだと、鳥より先にイルヴァ自身の方が早くエリクの元に到着しそうだ、とリネアは顔が緩んだ。  リネアは隣に立つイアンデを見上げる。 「それにしても、イアンデ様。さすがでした」 「何がだ?」 「私の方からイアンデ様に触れるよう指示してくださったのは、これを狙ってのことだったのですね? イアンデ様がなぜあんな事を言うのか正直よくわからなかったのですが、まさかこんな効果があったなんて」 「いや……あれは別に、このためというわけでは……」 「お陰でイルヴァ様に喜んでいただけました。イアンデ様がさまざまな案を提案し、毎日頑張ってくださったおかげです」  にこりと笑顔を向ければ、イアンデが何やら複雑な表情を浮かべる。 「俺は別に何も、頑張ってなどいない」 「またまたそんな。ご謙遜などされて」  リネアは思いのほか謙虚な態度のイアンデに、思わず笑みをこぼす。  そして心の中でひっそり安堵した。気づかぬうちに心を覆いかけた悲しみが、ゆっくりとほどけて消えていくのを感じたからだ。 (それにびっくりしたけど……私も、匂いをつけることができていると、言ってもらえてよかった)  たとえ狼獣人とは、違うものだったとしても。  もしもこの先、万が一にでも、何か奇跡のような素敵な出来事が偶然起きたとして。  ――ほんの一瞬だけでも、私がつけたささやかな痕を、いつかイアンデ様が嬉しいと感じてくれることがあったらいいなぁ。  今はまだ、そんな気配は欠片ほどもない。けれど、そんな希望をこれからも抱いていけることが、リネアは堪らなく嬉しく感じたのだった。  チラリとイアンデの表情を覗き見れば、なぜか少し眉間に皺を寄せたまま、イルヴァ姫が去って行った道の先を見つめていた。リネアも視線の先で遠ざかる、馬の蹄の音に耳をすませる。 「エリク様、イルヴァ様が突然目の前に現れたらとても驚かれるでしょうね。それに、どんなに喜ばれるでしょう」 「そうだな」  その時のエリクとイルヴァの姿を、ぜひ見てみたい。  離れ離れだった愛し合う二人が、ようやく想いを通じ合わせる、その瞬間を。  それはきっと、この世で最も幸せに満ちた光景のひとつに違いない、とリネアは思った。  ◆  イルヴァ姫とエリク王子の婚約が復活したという知らせが届いたのは、そのすぐ後の事だった。  狼とうさぎ――異種族の若い王族二人の結婚内定の知らせに、リネアだけではなく、両国の民もまた、喜びに沸き立ったのだった。

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