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18 満月の夜 (前編)

   イルヴァ姫の旅立ちを見送った後、イアンデとリネアは詰所で待つノースエンドの騎士たちと合流した。ようやくノースエンドに帰ることができると、ホッとしたのもつかの間のこと。 「イアンデ様。我々にどうか、お力添えをいただきたく存じます」  突然現れた笑顔の近衛騎士団長は、王からの書状を携えていた。誇らしげに広げられた羊皮紙には「被疑者の尋問に手を貸すように」との勅令がしたためられている。  王命とあらば、イアンデが断るはずもない。そのままイアンデは、ノースエンドの騎士たちと共に近衛騎士団に合流することになった。  そうなってはもう、今夜はノースエンドに帰ることができない。  リネアは王宮の客室で過ごすことになった。けれど一夜明けた翌日も、イアンデとは共に帰ることはおろか、一度も顔を合わせる事すらできなかった。  夜になると、リネアは次第に焦りを覚え始めた。王宮にどうしても長居できない理由があったからだ。  客室の開け放たれた窓の外には、赤みがかった月が浮かんでいた。一枚だけ皮を薄くナイフで削り取ったオレンジのような、まん丸には少しだけ及ばない月だった。 (…………もうすぐ、満月なのに)  獣人が発情する満月の夜が、2日後に迫っている。  満月の夜の過ごし方は主に2種類ある。番のいる者は、自らの相手と共に過ごす。けれど相手のいない者は発情を避けるために抑制剤を服用し、夜明けまで深く眠り込むのが一般的だった。  そのため、さすがの王宮とはいえ使用人は老齢の者や若年者のみに限られ人手が手薄になるだろう。それにリネアはイアンデと違い、ここにやるべき仕事があるわけでもない。これ以上世話になっては迷惑をかけてしまう。  兎獣人用の抑制剤もノースエンド城に置いてきてしまった。仕事に励むイアンデには申し訳ないと思いながらも、リネアは先に帰る決意をした。  翌朝、リネアが出発する直前に、イアンデがリネアの客室にはじめて訪れた。  イアンデに会うのは2日ぶりだった。朝の明るい日差しの中、こちらを見つめるイアンデの目の下には濃い隈が刻まれている。その顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。  もしかしたら、ろくに眠れていないのかもしれない。多忙な中、わざわざ訪ねてもらったことに申し訳なさが募る。 「イアンデ様。お忙しいところすみません。時間を作ってくださったんですね」 「共に帰る事ができずすまない。リネアが帰るのは、明日が満月だからだな?」 「はい。私はここで暇にしているだけですし、さすがにこんな日まで、王宮にお邪魔するわけにはいかないので」  イアンデは口を結んで黙り込むと、顔をしかめたまま俯いて、はた、はた、と落ち着きなく尻尾を揺らし始めた。  何か言いたい事がありそうだ、と察したリネアは、優しく促すようにイアンデに微笑みかけた。 「イアンデ様。どうされましたか?」 「……リネアは……明日、どう過ごす?」 「明日は、これまでの満月の夜と同じように抑制剤を服用します。私は発情が軽い体質なので、そうすれば特に長めに眠ることもなく、普段通り過ごすことができますので」 「そうなのか?」  リネアは発情が始まった14の時から、自分の発情を完璧にコントロールしてきた。他の兎獣人と違い満月の夜しか発情しないため、予期せぬ発情もなく対策も取りやすかった。その体質こそリネアが狼獣人に嫁ぐことになった理由のひとつなのだが――イアンデはおそらく、そのことを知らないのだろう。  少し驚いた表情のイアンデに、リネアも同じ問いを返した。 「イアンデ様は、満月の夜はいつもどのように?」 「俺もいつもは、薬を飲んで眠るだけだ。普段より長めに。だが…………」  言葉を途切れさせたイアンデは、リネアをじっと見つめた。向けられた金の瞳の中に、何やら見慣れぬ色が滲んでいて、リネアは不思議に思う。  気まずい沈黙の中、何か声をかけるべきかとリネアは迷った。そして、イアンデが言おうとしていることに、ふと気づいた。 「もしかして、明日の満月の夜も休めないくらい、今近衛騎士団は忙しいんですか? 何か新たな問題でも起きたとか」  イアンデが大きく目を見開いた。リネアの言葉を聞き、戸惑ったような表情を浮かべる。 「いや、そんなことはない。大丈夫だ。ちゃんと休める」 「それでしたら、良かったです。大変お疲れのご様子なので。さすがに満月の夜ともなれば、近衛騎士団といえど皆さん休まれますよね。イアンデ様もきっと、久しぶりにゆっくり眠れますね。安心しました」  リネアはできる限り明るい笑顔を向けたつもりだった。けれど、イアンデの振れていた尻尾がスン、と大人しくなる。耳もしゅんと下がり、おでこを抑えて、はあ、と深くため息をついた。心なしか顔が赤く見える。  イアンデが珍しく肩を落としている様子を見て、リネアはさすがに心配になってきた。もしかして明日まで待てないほど、疲労がたまっているのだろうか? 「イアンデ様。もしかして、体調が悪いんですか?」  少し首をかしげて、上目遣いにイアンデを見上げる。イアンデは一瞬チラリとリネアを見つめたものの、ぐっと何かをのみこんで、気まずそうに視線を逸らした。 「いや、そうじゃない。まあ……そうか。そうだな……明日は、ゆっくり休む」 「何かお役に立てることがあったらよかったのですが……申し訳ありません」  どことなく話が上滑りしているような、かすかな違和感を覚える。けれどそれ以上踏み込むことなく会話は終わり、イアンデはそのまま仕事へと戻って行った。  こうしてリネアがノースエンドに来て初めて訪れる、満月の夜の過ごし方は決まった。  イアンデは王宮で。リネアはノースエンド城で。通常の満月の夜と、全く同じように。  そしてイアンデと別れ、リネアは帰路についたのだった。  

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