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18 満月の夜 (中編) ※

 そして迎えた、翌日の満月の日。  夕刻に差しかかり、リネアは丁寧に湯浴みを済ませると、久しぶりに侍従のオリバーに髪の手入れをしてもらった。  リネアの黒髪は、オリバーの手によって櫛を通されるたび美しく艶めいていく。けれどその見事な仕事ぶりに反して、鏡に映るオリバーはあまり元気がなかった。  茶色い兎耳はしゅんと垂れ、瞳が不安げに揺らめいている。 「リネア様、体調があまりよろしくないのでは? 顔が普段より少し、赤いです」 「え? そう?」  リネアは思わず、頬にぴたりと指先で触れる。  オリバーが言うように、確かに少し火照っているような気もした。けれど別に、体調はどこも悪くない。鏡の中で心配そうに眉を下げるオリバーを安心させるように、リネアは優しく微笑みかけた。 「大丈夫だよ。今日はゆっくりできたし、普段より元気なくらい」 「けれどリネア様。体調を崩される前兆かもしれません」  心配してくれたオリバーが、部屋まで夕食を運んできてくれた。料理長が気を遣ってくれたのか、並んでいたのはリネアの好物ばかりだった。色鮮やかな根菜のスープや、木の実がぎっしり詰まった焼きたてのパイ。けれどなぜかあまり食欲が湧かず、半分も食べる事ができなかった。普段の自分ならば軽く完食できる量であったというのに。  食事中もずっと心配そうな表情で給仕するオリバーを安心させようと、リネアはできる限り明るく振る舞った。  オリバーが食器を下げに部屋から出ると、気が抜けたのかどっと疲れが押し寄せる。  重い体を引きずるようにして、どうにか寝台の端に腰かけた。 (最近いろいろあったし……知らないうちに疲れがたまっていたのかなあ)  ぶるっと体が震えたことで肌寒く感じていることに気づき、肩にショールを羽織った。  婚約祝いにノースエンドの騎士の一人にもらった鮮やかな織地の毛織物だった。端には織りネームが縫い付けられている。その図案は目つきの鋭い白い狼で、なんだかイアンデに少し似ていた。リネアは一目見て気に入り、最近このショールばかりを身につけていた。 (イアンデ様、王宮でどうしているだろう。だいぶ疲れていたみたいだったし、休めているといいのだけど)  ショールの端からこちらを睨む白い狼を指先でいじっているうちに、昨日、別れ際にイアンデが浮かべた見慣れない表情を思い出した。一瞬見せたあの表情は、一体何だったのだろう?  イアンデの瞳に浮かんだ不思議な色を思い出した瞬間、リネアの腹の底が、じわり、と熱くなるのを感じた。 (……あ……また、これ……)  この感覚は、イアンデとの“重ねづけ”の際に初めて感じたものだった。  触れてもらった時。抱きしめられた時。  そんなイアンデのぬくもりを感じるたび、凪いだ湖面にさざ波が起こるように、体の中がぞくぞくと切なく疼いた。 「まさか…………」  発情じゃないよね? と普段と様子の違う自分の体に問いかけた。今日はいつもの満月の日と同じように、朝から3回抑制剤を服用している。そうしていれば、リネアはこれまでの21年の人生ずっと、満月の夜にも発情を感じたことがなかった。  しかし今夜は明らかに、何かが違う。  腹の奥に馴染みのない熱い塊があった。それは未知の何かを求め、じわじわと切なく疼いている。  下腹の上に、そっと手をのせてみる。あまり自覚したことはなかったけれど、もしかしたらここが、自分が子を孕む器官なのかもしれない、と気づいた。  リネアはルーンバールの御典医に持たされていた緊急用の抑制剤を容量いっぱい口に含み、水で流し込んだ。  しかし効果が現れるはずの時間が過ぎても、一向に体が落ち着く気配はない。  悪化し続ける疼きにどう対処すればいいのかわからず、頭が混乱しはじめた。  座っているのがつらくなり、寝台に体をぼふりと投げ出す。感覚すべてが普段より敏感になり、肌にあたるシャツの感触すら不快だった。  体が熱い。呼吸が苦しい。頭が重く思考がままならない。腹の奥でもぞもぞと知らない生き物が蠢いているようで気持ち悪い。 「どうしよう……」  自分はきっと、発情しはじめている。  なぜ突然こんなことになったのか? 理由がまるでわからなかった。  何をしたら治る? 抑制剤はどうして効かない? この苦しみから、どうしたら逃れられる?  疼く体に耐えきれず、寝転んだままショールをきつく体に巻きつけた。  何度か重ねづけの際にも身につけていたせいか、かすかにイアンデの匂いが残っている気がした。鼻を近づけて匂いを嗅いでみる。  やはりそうだ。イアンデの匂いがする。  イアンデのことを想うと、ほんの少しだけ体が楽になるような気がした。  リネアは瞼を閉じて、想像した。  もしもイアンデが、ここにいてくれたら?  自分に触れてくれるだろうか。あのたくましい腕で抱きしめてくれるだろうか。いつも耳や首にしてくれるように、体中を柔らかく噛んでくれるだろうか。 (そうだ、きっと、こうやって……)  腰を浮かすと、かすかに、くちゅ、と湿った音が聞こえた。尻穴が濡れ始めている。リネアには女性のように外陰部はない。この場所が濡れて柔らかくなり、相手を受け入れるのだ。  リネアはふわふわとした気持ちのまま、夢の中にいるような感覚にひたっていた。  けれど、はっと我に返り、冷静さを取り戻す。顔から血の気が引いていき、代わりに罪悪感が大波のように押し寄せてきた。よりによってイアンデでこんな妄想をするなんて。 (私はなんて、はしたないんだろう。最低だ)  リネアは尻の下の濡れた感触が気持ちが悪くなり、横たわったまま自分のもので濡れた下穿きを脱ぎ捨てた。  下肢を締め付けるものがなくなると、前の性器もふくらんで緩く勃ち上がっているのがありありとわかる。  丈が長めのシャツを着ていて良かったと思いながら、裾を引っ張って腿の辺りまで隠した。  替わりに履く下穿きを、部屋の奥にある衣装部屋から持ってこなければならない。けれど体が鉛になったかのようで、立ち上がる事すらひどく億劫だった。  気怠い体を投げ出したまま、寝台の上でぼんやりと天井を眺める。  部屋の中は夜の静寂が満ちて、窓の外から淡い光が降り注いでいた。  カーテンの隙間から夜空を見上げる。雲ひとつない澄んだ闇の中に、明るい月が浮かんでいた。リネアはこんなにはっきりと、夜の満月を見るのは初めてだった。 (きれい…………)  輝く月に目を奪われていたその時、リネアの耳が無意識にピクリ、と向きを変えた。  城の玄関の重たい扉が、ギイ、と開く音。  その音と共に現れた足音が、階段を登り始めた。微かな衣擦れの音も合わさりながら、コツ、コツ、コツ、とこちらに近づいてくる。  聞き慣れた足音だった。  けれどこの部屋からは、初めて聞く音だった。  ――イアンデ様?  リネアは顔から、一気に血の気が引く。 (王宮にいるはずでは? だって、仕事で……ずっと、ずっと、忙しそうで……)  イアンデが帰って来た。そして最悪なことに、この部屋に向かっている。これまで執務室で会うばかりで、この部屋に来たことなんて一度もなかったのに。  なのになぜ? よりにもよって、一番見られたくない、この瞬間に?  今の自分は、黒髪は敷布の上で乱れ、顔は火照って赤く染まり、シャツの裾からは裸の足がむき出しで。しかも内腿は、透明な液体で濡れていて。 (だめだ、だめだ……こんな姿を、見られたら)  あの扉一枚を隔てた先に、イアンデは間もなく辿り着いてしまう。  狼獣人のイアンデは鼻が効く。リネアは足元でくしゃくしゃになっていた上掛けを頭まですっぽり被り、隙間なく体に巻き付けた。発情すると、体から特別な匂いを発すると聞いたことがあったからだ。  コンコン、とドアがノックされる。 「リネア、俺だ。体調があまり良くないと聞いたが、具合はどうだ…………?」  それはやはり、聞き慣れたイアンデの声だった。返答を伺うような気配と共に、廊下に、しん、と沈黙が落ちる。  リネアは返事をすることができなかった。  胸の奥が引き絞られて、喉が詰まって息ができない。戸惑いと混乱で頭の中がぐちゃぐちゃだった。何をどうしたらよいのかわからず、ただ身を固くしていることしかできなかった。  躊躇うような間の後に、ついにガチャリ、とドアが開く。 「リネア……大丈夫なのか……?」  気遣わしげなイアンデの声。遠慮がちに近づく長靴(ちょうか)の足音。そして寝台のそばで立ち止まり、息を呑む気配。  リネアは上掛けの中で口を押さえ、必死で息を殺した。 「リネア……?」 「あ……あの……ごめんなさい。今、とてもお会いできる状況ではありません…………」 「どうしたんだ?」 「何でも、ありません……大丈夫です」 「大丈夫には、とても見えない」 「大丈夫なんです……! だから、あの……出て行って、ほしいんです…………」  口から出たのは、震える涙声だった。  どうして取り繕うのがこんなに下手なのだろうと、情けなくて涙がにじんだ。  僅かに逡巡するような間があった。  イアンデが何か考え込むときの張りつめた気配が、上掛け越しにピリピリと伝わってくる。  そして迷いのない静かな声が、リネアの耳に届いた。 「わかった」  感情を殺した声と共に、絨毯を踏み締める音が近づく。  そして次の瞬間、上掛けにくるまれたままのリネアの体が、ふわりと宙に浮いた。 「えっ? 何をするんですか!? やめてください! 降ろしてください……!」  リネアは半狂乱になり、イアンデの腕の中でジタバタと暴れた。けれどイアンデの腕の力は緩まない。上掛けごとリネアを抱きかかえると、そのまま大股で歩き部屋を出た。足早に廊下を駆け抜け、やがて扉が開き、バタンと閉じる音が響いた。  ガチャリと内鍵をかける金属音が鳴る。  リネアが下ろされたのは、弾力のある柔らかな場所だった。乾いた敷布が頬に触れる。寝具からかすかに嗅ぎ慣れた匂いが香った。 「……ここは……?」 「俺の部屋だ」  イアンデの声は暗い。静かな怒気が伝わってくるような張りつめた響きがあった。今までリネアに向けられたことのない、初めて聞く声色だった。  イアンデは一体、何を考えているのか?  なぜわざわざ自分の部屋にリネアを連れて来たのか? ただでさえいつもと違う体に取り乱しきっているというのに、リネアはさらに混乱した。  こんなみすぼらしい状態の自分を、見せたくなかった。  いつもリネアはできる限り見た目を整えている。服には皺ひとつなく、髪を整え、体中を清潔を保ち、肌を磨いて。イアンデには、最も良い自分だけを見せていたかったのだ。  それなのに、こんな姿を晒さなければいけないなんて最悪だった。恥ずかしかった。一人になりたかった。放っておいてほしかった。  しかも昨日、自分は発情しないとイアンデに伝えてしまった。  これでは、嘘をついたことになる。  リネアは震える腕で、重い体を起こそうと力を入れる。 「申し訳ありません。……私、今……すごく、ひどい格好を、しているんです……部屋に、戻ります……」  しかし力強い腕に掴まれて、元の場所にごろりと転がされる。イアンデに握られた腕は、抵抗しても虚しいほどにびくともしなかった。  顔に巻きつけた上掛けが、注意深く開かれる。晒された頰に、ひやりと冷たい外気が触れた。 「……リネアは……発情しているのだな?」  暗闇の中見上げた先には、イアンデの眼差しがあった。  リネアは意外に思った。  その金の瞳に浮かんでいたのは、闇夜を照らす月明かりによく似た、温かな光だった。

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