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22 消失

   「王命がなくなった」と知らされたのは、リネアとの結婚式の4日前のことだった。  王宮で会った外交官は、開口一番にイアンデに告げた。 「イアンデ様、よかったですね! 兎獣人との縁談がなくなって。命令が下された際、あまり快く思われていないご様子でしたので」  外交官は、どうやら完全な善意で言っているようだった。腹の探り合いを生業とする外交官にしては珍しく、その笑顔の裏に悪意のようなものは見当たらなかったからだ。  そのため、イアンデが新たな王命を拒否すると告げると、彼は眼球がこぼれんばかりに大きく目を見開いた。  顔面蒼白になり、可哀想なほどにおろおろと慌て「一度持ち帰らせていただきます」とそそくさと部屋を出て行った。  イアンデは、自分が〈王の忠犬〉と半ば皮肉を込めて呼ばれているのを知っている。これまでどんな過酷な王命も決して拒否しなかった。勝てる見込みのない戦場の死地に送られる勅令も、何人もの前任者が死んでいった暗殺の任務を言い渡されても、表情一つ変えずに受け入れて、その全てをやり遂げてきた。  だからそんな従順なイアンデが、出会ってからまだ1か月ほどしか経っていない、兎獣人との婚約解消を拒否するとは、夢にも思わなかったのだろう。  イアンデはもう、妻になるのはリネアしか考えられなかった。  王族になることも、見知らぬ令嬢との婚姻にも、何の興味もわかなかった。  だからこんなくだらない話はとっとと終わらせて、早く我が家に帰りたかった。  リネアは昨夜言ってくれたのだ。 「触れて欲しい」と。  一刻も早く、その願いを叶えてあげたかった。  イルヴァとの会談を終えた後、リネアに触れる理由がなくなった。愛し合うふりをする必要はもうない。しかも自分たちはまだ婚約中だ。本来結婚前に、あんなにべったりと番痕(つがいこん)はつけない。  その上、満月の夜に半ば無理矢理に触れた後、悲壮な表情でひたすら謝り続けるリネアに、どう接したらいいかわからなくなった。もしかして不本意だったのだろうか、後悔しているのだろうか…………そんな不安が、頭から離れなかった。  一番よくなかったのは、リネアのことばかり考えるせいで、無駄に意識してしまうようになったことだ。一目見るだけで全身が総毛立ち、かすかに匂いがしただけで尻尾が振れた。平静を装うだけで精一杯だった。  だからあの夜。  リネアから「触れてほしい」と言ってもらえて、心が震えた。堪えていたものが喜びとなって、一気に込み上げる。リネアも同じ気持ちであったのだと、胸がいっぱいになった。  王宮での話を終え、逸る気持ちで馬を走らせた。夜遅くに、ようやくノースエンド城に戻る。  いつものように、リネアが執務室に来てくれた。  一目その姿を見るだけで、尻尾が勝手に左右に揺れた。今すぐにでも手を伸ばして、抱きしめたくなる衝動を必死に(こら)える。  リネアは執務机の前の定位置にぴたりと立ち止まると、見たことのない珍しい表情を浮かべた。それは普段の整った笑みとは違う、くしゃりと歪んだ不思議な笑顔だった。 「イアンデ様。今日、王宮でお聞きになりましたか? 王命がなくなったそうですね。私も昼に、ルーンバールの外交官から聞きました。大変急な話なので、その件について、ご相談がありまして」  リネアの珍しい笑顔は、始めだけだった。  すぐにいつも柔和な表情に戻る。そしてリネアは毎夜する仕事の報告と全く同じように、淡々とした口調で話し始めた。 「早急に会計の知識を持つ者を雇う必要があります。街の会計事務所に人の紹介を頼んでいたのですが、当初より予定を早めてもらえないかと打診しました。幸い、明後日からこちらに勤務可能との事でしたので、その者をこの城の家令としてもよろしいでしょうか。その他の業務は、今いる使用人に割り振りまして、順次引き継ぎを行い……」  まるで流れるような、滑らかな口調だった。  しかし、イアンデはその内容に違和感を覚え「待て」と途中で遮る。 「なぜ今すぐ、家令を雇う?」 「城の会計業務をできる者が、必要ですので」 「今はどうしているんだ?」 「……あの、私が……実家でもやっていたことがあるので、同じ方法で」  イアンデは、その言葉を聞いてはじめて、リネアが出て行こうとしている事に気付いた。  目の前が、真っ暗になる。  リネアとの王命はなくなったが、新しい王命は断ったし、予定通りに結婚すればいい――そう、思っていた。勝手に、自分さえ新たな王命を断れば、このままリネアは傍にいてくれるものだと信じ込んでいたのだ。  しかしリネアの考えは違った。王命がなくなるに従い、この婚姻をやめようとしている。  (駄目だ、そんなことは)  イアンデはすぐに声を出そうとした。けれど思った以上に動揺していて、喉から出たのは、ぐ、と、肉を潰したような音だけだった。詰まった喉奥から、なんとか掠れた声を絞り出す。 「……出ていくのか?」  その直後、ほんの一瞬だけ、リネアの表情がすとんと抜け落ちた。けれどすぐに、例のあの、一点の抜かりもない整った笑みに変わる。 「はい。もう私の王命もなくなりましたので」 「リネアはそれで……いいのか?」 「国の方針に従います」 「…………これから、どうするんだ?」  リネアの深いラベンダー色の視線が、まっすぐ自分に注がれる。その瞳が、イアンデを安心させるように優しい色を浮かべた。 「イアンデ様。業務はすべて後任に引き継ぎを行います。資料も不足なく残します。当初お約束したように、イアンデ様にもノースエンドにも、決してご迷惑はおかけしないので、ご心配には及びません」  リネアの言葉を聞きながら、イアンデはさらに混乱した。自分はそんなことを聞きたかったのではない。けれど、そんなことしか気にしていないのだと、リネアに思わせていたことに愕然とする。  会ったその日に自分が伝えた心無い言葉を――余計な仕事を増やすな、と言ったことを、リネアはずっと、覚えている。  リネアはなおも笑みを浮かべながら、柔らかな声色で語った。 「それに、この城の使用人たちは、このわずかな期間で素晴らしい成長を遂げてくれました。もうこの城は、どんな高貴なお方でもお迎えできる立派な城です。ですのでどうか、ご安心なさってください」  リネアは小さな両手を体の前でぎゅっと握りしめると、深く頭を下げた。兎耳がパタリと前に倒れ、長い黒髪がサラリと落ちる。リネアの表情が隠れて見えなくなった。 「イアンデ様。この1ヶ月、私のような者を婚約者としてお傍に置いていただき、本当にありがとうございました。引き継ぎを終えるまでのわずかな期間となりましたが、それまでどうか、よろしくお願いいたします」  そう言って顔を上げたリネアには、いつもと同じ、完璧な笑みが浮かぶ。  そしてすっと長い睫毛を伏せると、ドアに向かって歩き出した。  リネアが行ってしまう。  何か、なんでもいい。今すぐ声をかけなければならなかった。リネアを立ち止まらせる理由がある言葉を。  イアンデは「待て」とどうにか喉から言葉を絞り出す。反射的に、頭に浮かんだ言葉が飛び出した。 「……昨日の約束は、どうなる?」  口をついて出たのは、自分でも呆れるような内容だった。もっと他に、伝えるべきことがあるはずなのに。  リネアはイアンデの方を振り返ると、意外そうな顔をした。そして眉根を下げて、申し訳なさそうに微笑む。 「あれは、単なる私の我儘でしたので、どうか気にしないでください。私は本当に、イアンデ様に、ご迷惑ばかりおかけして……無理を言って、本当に申し訳ありませんでした」  リネアは再び頭を下げると、静かに執務室を出て行った。  イアンデはただ、馬鹿みたいに突っ立っていることしかできなかった。足は床に張り付いたように固まって、頭の中は真っ白になり、何も考えることができなかった。 (リネア、俺は、新しい命令を、断ったんだ)  たとえ王命なんてなくても、結婚するのは――自分の番になるのは、リネアしか考えられなかったから。 (だが、リネアは、違ったのか)  両国の王族同士の結婚は成され、問題は解決した。  王命はなくなった。自分たちの結婚の必要性も失われた。  リネアがここに、いてくれる理由も。  触れて欲しいと言ってくれた、あの幸せな約束も。  情けない自分の想いだけが、この場所に残されていた。  それをリネアに伝えていいのかどうか、イアンデにはわからなかった。

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