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24 残された想い (前編)

   狼獣人のイアンデは、リネアが城の中にいれば匂いで居場所がわかる。けれど城のどこからも、リネアの匂いは感じられなかった。  一刻も早くリネアに会いたかった。けれど今、どこに?  侍従のオリバーに聞きに行くと「リネア様は今日、教会へ行くご予定がありますが、まだたたれていません」と言う。 「今、どこにいるかわかるか?」 「先程まで執務室にいらしたのですが、庭園に少し出てくるとおっしゃられて。申し訳ありません。その後のことは、存じあげず……」  オリバーは、力無くそう言って、すっと目を伏せた。  声にいつものような元気がない。茶色の兎耳をしゅん、と下げ「あの……」と、何か言いたげに言葉を詰まらせた。 「オリバー。何か言いたいことがあるなら、話してほしい」 「イアンデ様。発言を、お許しいただきありがとうございます。あの……私は、たとえリネア様がどんなご決断をされようとも、そのご意志を尊重し、精一杯お仕えするだけです。ですが、今回のことは、あまりにも…………」  オリバーは悲しげに目を潤ませると、茶色い兎耳をしゅんと下げた。  その様子を見て、部下の騎士たちだけでなく、使用人にまで心配をかけていることに気付いた。  自分自身の情けなさが、ひしひしと胸に迫る。 「すまない、オリバー。これからリネアのところに行ってくる」 「ありがとうございます……おそらく、イアンデ様だけなんです。リネア様のお心を、変えることができるのは。リネア様はああ見えて頑固なところがあります。ですが……どうか、どうか……よろしくお願いいたします」  オリバーは、長耳の先が床につくくらいに、深々と頭を下げた。  オリバーに礼を言うと、イアンデは城の外に出た。先ほどの霧雨は、いつの間にか本降りの激しい雨へと変わっていた。  リネアはまた、どこかの木の下で動けなくなっているのかもしれない。イアンデは傘を持ち、兵舎とは逆方向の庭園へと足を向けた。  リネアの姿がないかと目を凝らして歩いていると、雨の匂いに混じって、ふわりとかすかに嗅ぎ慣れた香りを感じた。  ほのかに甘い、清らかな花のような香り。  それは間違いなく、リネアのものだった。  匂いを辿り、濃くなる方へと歩みを進める。気持ちが逸り、気づけば走り出していた。  たどり着いたのは、硝子(ガラス)の温室だった。  以前目にしたときは、土埃にまみれ、蔦で覆われていた。とても使える状態ではなかったはずの温室は、今や見違えるほど美しく磨き上げられていた。けぶる雨の中、水滴を纏った透明な硝子が輝いている。  ドアを開くと、吹き込んだ風が花を揺らした。  花々をそよがせた風が、しゃがみ込んだ人影の黒髪をふわりと靡かせる。  手折ったラベンダーに顔を寄せていたリネアが、驚いて振り返った。  花と同じ紫色の瞳が、大きく見開かれる。 「イアンデ様? こんなところで、どうされたんですか……?」  リネアは戸惑った顔になる。まさかイアンデが現れるとは思っていなかったのだろう。  その手には、温室の花で作られた花束が抱えられていた。静かに地面に置くと、リネアは咲き誇るラベンダーを背に、すっと姿勢を正した。 「教会には昨日、結婚式を中止すると急ぎ手紙を送りました。これから神父様に謝罪に行くので、祭壇にお供えする花を準備しなければとこちらに来たのですが、雨が降ってきてしまい…… わざわざ、迎えにきてくださったんですよね。ご迷惑をおかけしてすみません」  リネアは申し訳なさそうに口にしつつ、イアンデの肩のあたりを見つめた。すると何かに気付いたように「あ」と小さく声を漏らした。ぱたぱたと音をたてて駆け寄って来る。  リネアの手には、白いハンカチが握られていた。  イアンデの濡れた肩に手を伸ばしかけたものの、はっと我に返り、慌ててその手を引っ込める。 「……服、雨で濡れてしまいましたよね。すみません。よかったらこれ、使ってください」  リネアは遠慮がちに微笑むと、おずおずとハンカチを差し出した。  おそらくリネアは、かつて雨の日にしてくれたように自分の濡れた肩を拭こうとしてくれたのだろう。  しかし一瞬浮かんだ親しげな表情は消え失せて、代わりにどこか距離を感じさせる笑みが浮かぶ。  目の前にすっと線を引かれた気がして、イアンデは胸を引き絞られるような思いに駆られた。  その距離をかき消すように、イアンデはリネアの手を強引に握りしめる。  リネアはビクリと震え、反射的に腕を引っ込めようとした。 「あっ……あの……?」 「リネア。聞いて欲しいことがある」  イアンデはもがくリネアの手を離すまいと力を込める。不安げに睫毛を伏せたリネアに、はっきりと告げた。 「俺と、結婚してほしい」  その言葉に、リネアは驚いて顔を上げた。 「え…………」 「王命はなくなったが、どうかこのまま俺の妻になってほしい。リネアの国には俺から言って、なんとしてでも説得するから……」 「あ、あの、ちょっと待ってください」  リネアは明らかに動揺していた。握りしめた手が、小刻みに震え出す。 「だって……イアンデ様には、新しい王命が下されたのでは? ついに、王族になられると――それに、狼獣人のご令嬢と結婚されると……」 「新しい王命は、断った」  リネアはただでさえ大きなラベンダー色の瞳を、これ以上ないほどに大きく見開いた。 「断った? 王命を? イアンデ様が? 嘘、でしょう……?」 「本当だ。その場ですべて断った」  握られていたハンカチが、パサリと落ちる。リネアの唇が、わなわなと震え始めた。 「なぜそんなことをしたんですか!? せっかく、国王陛下に正式に息子と認めてもらえるチャンスだったのに!」 「王族にはならない。他の者と結婚なんて絶対にしない。俺が結婚すると決めたのは、リネアだけだ」  リネアの瞳が、悲しげな色に染まる。  震える唇が、耐えるようにきゅっと引き結ばれた。 「私のせい……ですか? もう王命は、なくなりました。私との約束を、守る必要なんてないんです。わかっているのですか? 王の命令を断るということは、王に逆らうのと同じことです。そのせいで、何かイアンデ様が酷いことになったら……」 「リネアを失う以上に、酷いことなんてない!」  イアンデは思わず語気を荒げた。リネアを握る手に、さらに力を籠める。 「どんなことが起きても、絶対になんとかする。今までだって俺はずっとそうしてきた。そのために力をつけて、強くなった。だからどうかこのまま、俺と結婚してほしい」  リネアの潤んだ瞳を、強い眼差しで見つめ返す。  泣くのをこらえるかのように、リネアは苦しげに顔を歪ませた。 「……どうして、ですか? 私と結婚したって、何もいいことなんてないのに。私は、兎獣人ですし……」 「知っている」 「匂いも、少ししか……つけられなくて……」 「それで十分だ」 「……私に、発情できないのでは?」 「満月の夜のことか? あの時は、強い抑制剤を飲んでいたし……それに、死ぬほど我慢していただけだ! まだ結婚前だろう?」  リネアがひゅ、と、しゃくりあげるように息を吸うのがわかった。  大きく目を見開いたまま、言葉を失っている。 「俺たちの結婚は、もう誰からも求められていない。だがリネアは、俺に匂いをつけてくれただろう? その希望だけに縋って、俺は今、求婚しているんだ。リネアも俺を、好きでいてくれているのではないかと」  リネアは潤んだ瞳を瞬くと、イアンデの眼差しを避けて視線をすっと逸らした。 「私は……イアンデ様を好きなどでは……」 「嘘だ」 「私だってきっと、愛するふりをしていたからできたんです」 「そんなことは、不可能だ」 「なぜですか? イアンデ様はできていたではありませんか!?」 「それは俺が、リネアのことが好きで好きでたまらなかったからだ!」  リネアが驚いて、息が止める。 「っ…………?」 「愛するふりなんかじゃ、匂いづけはできない。本気で相手を好きじゃないと、痕なんて絶対につけられないんだ」 「なんですか、それ…………」  リネアは呆然とする。全く理解が追いつかない、というような表情を浮かべた。 「本気で、私を愛して、いたから…………?」 「そうだ」  確信が持てず、今までリネアに言えずにいた想い。獣人が番痕(つがいこん)をつける理由を、理屈では理解していた。けれどずっと、に生きてきた人たちだけに起こる、自分とは関係のないどこか遠い出来事のように感じていた。  その迷いが消え去った今、ようやくリネアに伝えることができたのだ。  獣人が、番につける痕の真実を。  そして自分の、本当の気持ちを。

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