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24 残された想い (後編)
リネアは初めて真実を知った。驚きの表情を浮かべ、ぱちぱちと目を瞬かせている。その聡明な頭脳で考えを巡らせ、必死に答えを導き出そうとしているかのようだった。
そしてぽつりと、独り言のように呟く。
「それだと、だいぶ前提が変わってきます……私だけが、イアンデ様を好きだと思っていたんです」
リネアが不安げに長耳を下げ、目線を上げた。そしておずおずと、イアンデに問いかける。
「私との結婚は、イアンデ様にも、利点がありますか……? 王族になることや、同族の奥様をお迎えするよりも? ……もしもそうなら、嬉しいのですけれど」
「ああ、もちろんだ!」
ラベンダー色の瞳に、かすかな光が差した。しゅんと垂れた長耳が、みるみるうちに力を取り戻していく。
リネアの全身からあふれだす喜びの気配に、イアンデの胸にも熱いものが込み上げる。
「利点どころか、俺はもう、リネアなしには生きていけない。これからもずっと、傍にいて欲しくて……だから、その……結婚の返事を、聞かせてくれないか?」
握った手に力を込めて、懇願するように問いかける。
リネアの手は震えていた。その顔が、今にも泣き出しそうになる。
――その時。
雨上がりの雲間から漏れた光が、温室に差し込んだ。涙をこらえるリネアに、硝子越しの陽光が柔らかく降り注ぐ。
雨粒に透けた優しい光に包まれて、リネアはそっと、口を開いた。
「…………はい。イアンデ様が、望んでくださるなら、喜んで」
そう言うとリネアは、恥ずかしそうに笑った。「私、そういえば前にも、全く同じことを言いましたね」と。
それはかつて雨の日の木の下で、リネアが言ってくれた言葉と同じだった。
あの日からずっと、リネアは変わらずにいてくれた。
こんなふうに自分が、早く気持ちを伝えられさえすればよかったのだ。
「伝えるのが遅くなって、すまなかった」
「いいえ。私もずっと自信が持てず、言えなかったので……」
リネアは伏目がちに俯いていたものの、ぱっと瞳を輝かせた。希望に満ちた眼差しを、イアンデに向ける。
その表情は、普段のリネアが見せる凛とした明るさに満ちていた。先程まで浮かんでいた不安や悲しみの影は、綺麗に消し去られている。
「私を結婚相手に選んでいただけたからには、必ずやイアンデ様を、この国で一番幸せな城主様にしてみせます! まずはこのノースエンドをさらに豊かにすることを目指し、既存の産業を――」
楽しげに語り出したリネアを見て、イアンデは思わず頬が緩む。リネアは自分の好きな仕事の話になると、一気に表情が華やぐのだ。
その姿はなんとも愛らしく、ずっと見ていたくなるほどだった。
けれどその想いに流されることなく、大切なことをリネアに伝えなければならない、と思った。
「別に何も、しなくていい」
「ええ、でも、それでは私の、存在意義が」
「俺はリネアが傍にいてくれさえすれば、幸せだ」
リネアがじわりと頬を染めた。恥ずかしげに俯いて、もぞもぞと居心地悪そうに口を尖らせる。
「なんなのですか、急に別人のように、甘い言葉ばかり……」
イアンデは少し笑って、リネアを抱き寄せた。ふわりと胸にもたれた柔らかな感触から、幸せな気持ちが広がっていく。
リネアもまた、イアンデの背中におずおずと腕を回し、ぎゅっと抱きしめ返した。
「このように、イアンデ様に触れていただくことは、もうできないと思っていました」
リネアは嬉しそうに呟いて、イアンデの胸にすりすりと頬を擦り付ける。その動きに合わせて、柔らかな長耳がイアンデの頬をふわふわと撫でた。
久しぶりに間近に感じるリネアの匂いに、愛しさが込み上げる。揺れる長耳に唇を寄せ、そっと口付けた。
不意に、腕の中のリネアが大人しくなる。イアンデのシャツを握りしめたまま、ピクリとも動かず固まった。しばらくすると、かすかに啜り泣く声が聞こえてきた。
「大丈夫か?」
「嬉しくて、つい……申し訳ありません。イアンデ様のシャツ、汚してしまうかも」
「別にいくらでも汚してもらって構わない。それにリネアの涙は、汚くない」
「ふふ」と漏れた笑い声が胸をくすぐった。リネアは顔を隠したまま、静かに泣いているようだった。リネアの震える背中をゆっくりと撫でる。何度も繰り返し、落ち着くまで、優しく。
ひとしきり泣いた後、リネアはふう、と深く息を吐きだし、イアンデを見上げた。
「神父様にまた、変更を伝えなければ。こんなにコロコロと予定を変えてと、きっと呆れられてしまいますね。結婚式、挙げさせてもらえるでしょうか」
「これから謝罪に行くのだろう? 俺も行く」
「では一緒に行きましょうか。あっ、でもその前に、城の者たちに報告をしなければ。なんだか随分と、心配をかけてしまいましたから」
こういったリネアの心遣いには、毎回のように感心させられる。
そう言えば使用人たちだけではなく、リネアの国や実家への報告はしなくていいのかと心配になった。
リネアは「そちらはどうにでもなりますので」と、逆に自分を安心させるような頼もしい笑みを向ける。
リネアは年下だというのに、自分なんかよりよほどしっかりしていて、人間としてもできていると感嘆せずにはいられなかった。
雨上がりの庭園を横切り、城に戻った。
使用人たちに結婚の報告をすると、全員がほっとしたように表情をゆるめる。
ロジェールは「おめでとうございます。一時はどうなることかと思いました」と安堵の表情を浮かべた。オリバーはリネアの前で笑い泣きしながら「よかった、よかったですぅ」と繰り返し、リネアに頭を撫でられていた。
兵舎に報告に向かうと、兵たちも同じように安堵した様子を見せた。
エドミュアは予想どおりとばかりにあまり驚いていなかったが、情にもろいラグナルは感極まって号泣していた。
皆にこんなに心配させていたのかと申し訳なさが募りつつも、かけられる祝福の言葉に対し、リネアと共に心からの感謝の気持ちを伝えた。
そのすぐ後に、二人で村の教会に向かった。
神父に謝罪を伝えると、その明るい茶色の髪の狼獣人の神父は「全く問題ありませんよ。実はよくある事なのです」といたずらっぽく笑った。
後日教会の予定が空いている日に結婚式を挙げたいと伝えると、彼は柔和な笑みを浮かべる。
「それでしたら、今これから結婚式を挙げられますか? ちょうどお二人揃っておいでですし、教会も空いておりますので」
突然の提案に、イアンデとリネアは顔を見合わせる。
けれどリネアは以前「二人だけで結婚式を挙げる」と告げた時、耳をしゅんと下げてがっかりしていたことを、イアンデは思い出す。
あの時は、王命のためになるべく早く婚姻を結ぶ必要があった。けれどもう急ぐ必要はない。
リネアの喜ぶ顔が見たい。できればリネアの希望どおりの最高の式を挙げてあげたかった。
イアンデは神父に向けて口を開く。
「いえ、兎獣人の結婚式のように、招待客を大勢呼んで盛大なものにしたいと思っています。日程については、改めてまたご相談を――」
言い終わらぬうちに、袖をきゅ、と掴まれる。何かと思い見下ろせば、リネアは静かに首を横に振った。
「今日、挙げましょう」
「え……、でも、いいのか? 別にもう、急ぐ必要はないんだぞ」
「今すぐ、イアンデ様と結婚したいんです」
真っ直ぐなリネアの言葉に、イアンデの心は射抜かれたようになる。鼓動を早めた胸を押さえ、ぐるっ、と小さく唸りを上げた喉奥から、何とか声を絞り出した。
「では、今日、するか」
「はい」
柔らかな笑みを浮かべたリネアと頷き合い、二人で声を合わせて「お願いします」と神父に告げた。
神父の提案により、リネアが持って来た花束の半分は祭壇へ、もう半分はリネアの持つブーケになった。リネアは数本のラベンダー抜き出すと「イアンデ様もよかったら」と胴衣の胸に飾ってくれた。
「リネアの瞳の色だな」
「ふふふ。わかりますか? 相手の色を身につけるとよいそうなので」
「まずいな、俺の色がない」
「大丈夫です。私にはこれがありますので」
リネアがカサ、と乾いた音をたてて、抱えていたものを得意げに差し出した。それは、イアンデの髪色や尻尾と同じ純白の花の、粉雪草で作られた小ぶりなブーケだった。
「この花は、思い出の花でもありますので。本当に持ってきてよかったです。こんなに何の準備もないまま、大きな決断をするなんてはじめてですよ」
困ったように眉尻を下げながらも、リネアはなんだか嬉しそうだ。いそいそと手を動かすその仕草に、喜びがにじむ姿はたいそう可愛らしく、イアンデは自然と唇が緩んでしまう。
準備を終えたところでちょうど神父に呼ばれて、二人で控室をあとにした。
聖堂に足を踏み入れると、「わあ」と漏らしたリネアの声が、高いアーチ型の天井にこだました。色鮮やかなステンドグラスを見上げて、子供のように無邪気に目を輝かせる。
「イアンデ様の言っていたとおりです! とても綺麗……」
イアンデの瞳に映るのは、鮮やかな光を纏ってはしゃぐリネアの姿だ。リネアは瞳に七色の色彩をきらめかせ、こちらを見つめ優しく微笑む。
最愛の人が、喜びに満ちた笑みを自分に向けてくれる。その姿はイアンデにとって、今まで目にしてきたどんな光景よりも美しい、と感じた。
「本当に、綺麗だな」
愛を知らなかった自分に、愛することを教えてくれた人。
誰よりも愛しい人。
かけがえのないこの人が、まもなく自分の妻になる――その喜びが、静かに胸を満たしていく。
リネアとイアンデは、手を取り合った。
瞳と瞳を合わせ、どちらからともなく微笑みを交わす。
そして光あふれる祭壇に向かって、二人は並んで歩き出したのだった。
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