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第36話 艶夢虚ろう 其の九

「ああ……」    頬に一筋の涙が伝う。  やがて幾筋も幾筋も大粒の涙が零れて落ちて、陰の衣着を濡らしていく。  やがて口から溢れ出るのは、様々な想いを乗せた癒しの慟哭だった。   こんなにも泣けるのかと思った。  もう涙なんて出ないと思っていたのに、胸の奥が裂けるほど溢れて止まらない。  陰は何も言わなかった。  ただ、腕の力を少しだけ強くして胸の中へ閉じ込めてくれた。その抱擁は慰めでも哀れみでもなく、痛みを受け止める静けさそのものだ。  背を撫でる手の温もりが、壊れかけた心をどうにか繋ぎ止めてくれる。あの人の腕じゃないと分かっているのに、それでも身体が勝手に求めてしまう。  いまだけでいい、抱きしめてほしい──。  そんな言葉を飲み込みながら、療は陰の胸に顔を埋めた。涙と一緒に紫雨への想いも滲み出ていくようで苦しい。   「……貴方は……違うのに……っ……」    言葉の合間に息が詰まる。  そんな療の頬を撫でた陰の指が、涙をすくい取った。  その仕草が優しすぎて、また涙が溢れる。視界が滲んで頬を濡らす涙が唇に伝った。  陰が療の涙を追いかけて頬から唇へと指を滑らせると、そっと療の唇に触れた。涙を塗り付けるようにして、唇の柔らかさを堪能していた陰の指が離れる。  やがて頤へと辿り着いた指は、こちらを向いてと言わんばかりに優しく療の頤を掴むと、くいと上げた。   優しく、心の痛みを封じるように。  陰が顔を傾けて療に口付ける。  慰めでも情欲でもなく、ただ壊れそうな心を抱き留めるための口付けだった。   「ん……」    唇が重なった瞬間、療の喉から微かな嗚咽が洩れる。涙と息が交じり合い、陰の唇の熱さに身体が震えた。  紫雨の面影が脳裏をよぎる。  幻を見ているのか夢現なのか、もう分からない。  それほどまでにこの熱が仕草がよく似ていた。   「……ら……さ、めぇ……」    接吻の合間に、愛しい名が零れる。  与えられなかった熱の代わりにしていると、されているのだと陰は分かっているのだろう。彼は何も言わず、ただ静かに療を抱き寄せたかと思うと、接吻を交わしながら抱き上げた。  ああこんなところまで同じなのか。  陰に横抱きにされて運ばれながら、つきりと痛む心を曝け出すかのように、療は涙を流しながら更に深い接吻を求める。  求めて、泣いて、また求めて。  泣きながらの接吻は、悲しみと熱の境界を曖昧にしていく。  忘れたいのに、忘れられない。  それでも、この温もりの中にいれば、ほんのひとときだけ痛みを遠ざけられる気がした。   「……今夜だけでいい。忘れたい」    震える声が唇の間からこぼれる。  陰は答えず、ただ頷き、もう一度抱き寄せた。  寝台の紅の帳が開かれて静かに揺れる。    灯が滲んで、ふたりの影がゆっくりとひとつに溶けていった。   

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