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第35話 艶夢虚ろう 其の八

「代わりでもいいって、自分に言い聞かせて、何度も抱かれて……それで、幸せだったはずなのに。あの茶屋で彼が好きな人に笑う姿を見た瞬間……壊れてしまった。あの人の笑顔を見て、ああ自分は本当に好きだったんだって、本当に『代わり』だったんだって思い知らされた」    療は再び自身を嗤いたかった。だがどうしても喉も顔も動いてくれない。視界が滲んでいくというのに、乾いてしまった心もまた何も生み出してくれなかった。  だが柔く触れる程度だった陰の手が、療の手を力強く握る。気付けば背中を支えるように陰の身体があって、肩を抱かれていた。  その体温の熱さに心が揺さぶられる。   「ここへ来たのはたった一夜でもいいから、あの人を想う自分を忘れたかったんだ。でもあの人に似た特徴を持った貴方を指名した時点で、答えなんて出てるのに」    肩を抱いていた陰の手が、療の緑の髪を撫でた。  何度も何度も、慈しみ慰めるかのように。   「代わりだったオイラが、今度は代わりを探してここに来て……。熱を分け合える人がいれば、茶屋の暖簾の向こうに微笑みながら入っていく、さっきの光景を忘れられるかと思った。誰でもいいんだって思ってたのに……本当は、誰でもよくなんてなかった。オイラが欲しかったのは、あの人の手で、あの人の声で、あの人の匂いで──……あの人の存在だったんだ」    こんなにも胸が痛いのに、それでもあの人を想ってしまう。  泣いても、叫んでも、変わらない。  ──紫雨が好きだ。  たとえ幻でも、代わりでも良かった。  だがもう手遅れで彼は、手の届かない存在になってしまった。どうすることも出来ない想いだけが、雁字搦めに残ってしまって前に進むことも出来ない。  髪を手櫛で梳る陰の手が、療の頭をまるで大切な宝物のようにそっと胸に抱いた。  今だけは泣いていいんですよ、と陰の優しい声が頭の上から降ってきて、療はびくりと身体を震わせる。   「辛いことも全て見せて構わないのです。ここは一夜の夢を見る場所なのですから」 「あ……」    その言葉が、静かに療の心の奥を突き崩した。 ずっと泣けなかった。  幻影として抱かれ、代わりであることを選んだ夜も。  あの紅の暖簾の向こうへと消えていく二人を見たときも。  何度も涙が滲んでは、胸の奥で凍りついていた。  けれど、今──。  優しく包み込まれる腕の温かさに、まるで何かが壊れたように視界が滲んだ。   

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