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第34話 艶夢虚ろう 其の七

「……」    ああ、しかも酒杯ですら胸の疼きとなるのか。  療は無言のまま頷くと、震える手で酒杯を持って口へと傾けた。  こくり、と一口。  喉を潤しながらも灼く神澪酒の熱さも辛さも、思い出とともに胸の中へと重く落ちていく。  室内に沈黙が降りた。  視線を感じて陰を見れば、優しげな双眸のまま、静かに自分の様子を窺っているようにも見える。  陰からすれば自分は面倒な客だろう。こんな華やかな場所で沈痛な顔をして、黙っているのだから。  だが陰は全てお見通しだと言わんばかりに、大きな手をそっと療の肩に置いた。そして未だに震えてしまう手を柔く握られる。伝わってくる体温の熱さですら、療は紫雨を思い出してしまうが、ひどく安心してしまうのも事実だった。   (酸いも甘いも噛み分けた壮年の陰ならば)  この気持ちを分かって貰えるだろうか。 (いや……分からなくてもいい。ただ……)    一夜の夢の一部として聞いて貰えるだろうか。  療は自分を嗤うかのように短く息をつくと、陰に向かって笑んだ。陰もまた無言で頷いたのを見て、療は酒杯に再び視線を落とす。   「……好きな人がいたんだ」    気づけば口が動いていた。誰に向けたわけでもなく、ただ心が零れていた。  再び神澪酒を、こくりと飲む。  上等な酒だというのに、こんなにも熱くて苦く感じてしまうなど思いも寄らなかった。だがいまの自分には、この真竜も酔うと謂われのある、この苦く辛い酒が必要だった。   「その人にはずっと想い続けてる人がいたんだけど、彼の想い人は別の人と結ばれた。オイラ、彼に少しでも元気になってくれればいい、慰めになってくれればいいって思って……想い人の代わりだと分かってて彼に抱かれた。彼は確かに元気になって、好きな人が出来た」    口にして初めて、言葉の重さが胸に沈んだ。  手が震えてしまって、酒杯の中でとろんと酒が揺れる。   「さっき……茶屋の奥へ、並んで入っていくのを見ちゃったんだ。あの眼差しが、あの微笑みが、全部……自分の知らない顔で、好きな人にはあんなに穏やかに甘やかに笑う人なんだって初めて知った」    つんと鼻の奥が痛んで、目の奥が熱くなる。胸の奥で何かが軋んで崩れていく音は聞こえるのに、自分の声がどこか他人のように聞こえるのが不思議だった。  

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