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第33話 艶夢虚ろう 其の六

「失礼いたします」    引き戸の向こうからどこかで聞いたような低い声が聞こえて、療は思わず身を竦ませた。腹の奥にずくりと来る官能を伴う声が、忘れようとしている人に似てる気がしたのだ。  静かに引き戸を引いて、この遊楼の陰が現れる。彼と視線が合った刹那、妙な違和感がした。瞳の奥にまるで獲物を値踏みする狩人のような、ぎらついた光を見た気がしたのだ。  だがそれも陰の姿によって霧散する。  紅灯によって光を受ける度に艶めく長い金糸の髪。深い翠色をした瞳は療を優しく見つめている。男盛りなのだと言わんばかりの厚い胸板と逞しい腕。  陰は紫雨にあまりにもよく似ていた。  思わず立ち尽くして、息を呑んでしまうくらいに。  だが彼が紫雨ではないことは、療自身よく分かっていた。自分の所有の証でもある御手付きの気配が、全く感じられなかったからだ。   「お待たせいたしました。今宵お相手を務めさせていただきます、陰でございます」    陰はゆるやかに膝を折ると、療の前で静かに一礼した。  彼の所作には無駄がなく、雄々しくもどこか優美さが感じられる。   「……っ」    療はその姿に息を詰まらせた。  同じだ、と思った。  紫雨もまた相手の前に跪き、眼差しを合わせて話をする人だったのだ。自分も紫雨のところへ仕事のことを始め、様々なことを相談に行った際に、彼は膝を折り視線を同じくにして話をしてくれた。この方が圧迫感がないだろうと笑って。  その記憶が疼きとなって胸に突き刺さる。   「……そんなに緊張なさらずに。どうぞお楽になさってください」    顔を上げた陰が穏やかに笑ってみせた。  心を柔く撫でるような優しい声に、療はほっとしつつも胸が痛んで仕方なかった。言葉遣いが違うというのに、やはり声質が似ているからか、紫雨に言われたような気分になる。  どうぞこちらへ、と陰が療を寝台近くの丸卓子に誘導した。長椅子に療が座るのを見計らって、爵酒器から酒杯へと注ぎ、療と陰自身の前に置く。   「こちら神澪酒です。宜しければ一口だけでも……緊張が解れます」

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