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第32話 艶夢虚ろう 其の五

 香りと場所もこんなに似た場所で、こんなにも心と身体が紫雨を思い出すというのに。   「どうぞ、ごゆるりとお過ごしください。後に陰が参ります」    楼主は淡々とそう告げると、引き戸を閉めた。  途端に訪れる静けさに療は、しばらくの間茫然と部屋の中で立ち尽くした。   (……代わりだったオイラが、さらに代わりを求めるなんて……)    紫雨にとって自分は幻影をなぞるだけの代わり。  その代わりに甘んじ、縋り続けてきたのは自分だ。  その自分が今度は紫雨の代わりを求めて、こんな場所に立っている。  なんて滑稽だろう。  なんて惨めだろう。  笑えるほどに哀れで、笑ったところで涙ひとつ零れない。  紫雨への想いは、やはり雪のようだったのだ。  気づけば舞い降り、いつの間にか積もり、やがて溶けて消えてゆく。  そこに在ったことさえ、誰にも知られぬまま。  それでも自分は雪を掬うように、何度も彼の腕を求めた。  指の隙間から零れ落ちると分かっていながら。  療は息を詰めて天蓋を仰ぐ。   「──好きだった。貴方が……!」    無意識の内に出ていた声に更に胸が苦しくなる。  忘れたいと願いながらも、心はいまも紫雨を探している。捨てたいと願いながらも、紫雨の温もりに縋ろうとしている。矛盾が胸の内で絡み合い、どうしようもなく掻き毟られた。   (……今頃、紫雨は……)    何も考えたくないのに、どうしても脳裏に浮かぶ。  あの青年の肩を抱き寄せ、傷を慰めているかもしれない。膝を突き合わせ、互いの声に耳を傾けているかもしれない。紅の寝台に身を横たえさせ、額に接吻を落としているかもしれない。    ──自分には一度も与えられなかった眼差しを。  ──自分には決してかけられなかった甘い声を。    想像した瞬間、臓腑の奥がひっくり返るように痛んだ。  笑おうとしても声が上手く出ず、唇の端が引き攣るばかりだ。   (……オイラは所詮、影にすぎない……)    彼の愛しい人を映す幻の器でしかなかった。  そのことを知っていながら、手の温もりに甘えて心まで差し出した。  惨めを通り越して、もはや滑稽だった。  笑い話にもならない、浅ましい欲だ。  それでも、想いはどうしようもなかった。  紫雨に触れられた記憶が身体の奥にまだ残っている。肌に宿る熱が疼き、呼吸するたび蘇ってしまう。  だからこそ誰かの手で、その痕跡を塗り潰して貰わないと駄目だった。  彼を忘れるために。彼の想いを捨て、あの青年と紫雨が共にいても何も思わなくなるように。    (……そして今から貰う熱が、必要だったのだと思えるように)    療は気配を感じて引き戸を見る。  そこには大柄な人の影が映し出されていた。

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