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第43話 艶夢虚ろう 其の十六
やがて、その張り詰めた静寂を破るように、陰が静かに息をつく。
「貴方は……想い人のことが、本当に好きだったんですね」
陰の声は驚くほど優しく、そしてどこか哀切を帯びて療の耳元に届けられた。彼が一瞬だけ見せた冷徹な気配など、気のせいだったと思わせるほどの、温かな声音だった。
「無理強いはしません。安心してください。……貴方の心の内に住む想い人が羨ましい限りです」
責めるような響きは一切なく、ただ療の一途さを愛おしむように、ゆっくりと紡がれる言葉。
金子を払った陰とはいえ、挿入の寸前で突き飛ばしたのだ。てっきり怒られるか、もしくは今宵はこれまでと部屋を出ていくのだと思った。だが陰の口から出たのは責める言葉ではなく、消せない想いごと包み込んでくれるような温かな言葉だった。陰の度重なる慈悲深さに、申し訳ない気持ちになる。だが同時に療の心は、言いようのない安堵で満たされていた。
「少し……お待ちを」
陰は乱れた衣着を整えて寝台を離れると、近くの卓子に用意されていた盥の蓋を開けた。ふわりと漂う蒸気の気配がする。盥には一定の温度を保つための高価な札が貼り付けられてあった。備え付けられていた布巾をかたく絞った陰が再び寝台へと登り、療の傍へと歩み寄る。
「あなたを綺麗にさせていただいても、よろしいでしょうか?」
「——っ」
ふわりと笑みを浮かべながらそんなことを言う陰に、療は言葉を詰まらせた。陰は自分に気を使って、聞いてくれているのだ。あんなに冷たく突き飛ばしてしまったというのに。どこまでも優しく自分を気遣う彼に対して、療の胸の中に甘く苦いものがじわりと広がる。
こくりと、療は無言のまま頷いた。
「わかりました……失礼しますね」
陰は静かにそう呟くと、温かい布巾を療の肌にあてがった。
じわりと染み渡る熱に、療の肩が小さく跳ねる。
首筋から胸元、そして引き締まった腹へ。陰の手は滑らかで、手際よく、けれど慈しむような丁寧さで汗と残熱を拭い去っていく。
(あ……)
冷えかけていた身体が、温かな布巾と陰の体温でじわじわと温められて解されていくかのようだった。
酷い拒絶をした自分に対して差し出される手厚い世話に、申し訳なさと罪悪感で胸が押し潰されそうになる。だが肌から伝わる熱があまりにも心地よくて、逃げ出すこともできない。
苦しさと、それに相反する圧倒的な安心感。
療は溢れそうになる息を殺し、ただ静かに陰の与えてくれる温もりに身を委ねていた。
やがて療の身体を拭い終えた陰が、布巾を傍らに置いて寝台に横たわる。そして戸惑う療に向かって両腕を広げた。
「今日は……このまま、眠ってしまいましょう」
「え……」
思わぬ言葉に、療は目を丸くした。
再び抱くわけでもなく、責めるわけでもなく、ただ共に眠ろうと差し出された腕。どこまでも優しく自分を迎え入れようとするその姿に、療は一瞬躊躇しながらも、吸い寄せられるようにして陰の胸元へと身を寄せた。
そっと腕の中に納まると、額に柔らかく温かな接吻が落とされる。そのまま包み込むように強く、けれど慈しむように抱き締められた。
陰の指先が療の髪を優しく梳いたかと思うとするりと下がって、まるで赤子をあやすかのように背中をゆっくりと叩く。
(ごめんなさい……、でも、ありがとう……)
紫雨以外の男を受け入れることが出来なかったというのに。傷だらけの療の心と身体を、陰はただここにいていいのだと許し、慈しむように温めてくれている。
正面から伝わる陰の胸板の温もりと、背中を叩く優しい手の動きに、療は檻から解き放たれたような心地になり、ようやく張り詰めていた身体の強張りを解いた。
「さあ……安心して眠ってください。おやすみ」
陰の耳心地の良い低い声がより一層、療の眠気を誘う。
やがて呼吸が深くなり、療は完全に深い眠りへと落ちていった。
■■■
やがて、腕の中で小さく弾んでいた規則的な呼吸が、ゆっくりと深く、穏やかなものへと変わっていく。療が完全に深い眠りへ落ちたことを聞き届けると、背中を巡っていた陰の手が静かに動きを止めた。
暗がりの中、陰はただ無言のまま、己の胸元に無防備な額を預けて眠る療を見下ろしていた。そして、手持ち無沙汰のように、柔らかい頭髪を指先で幾度も、ゆっくりと梳き上げていく。
その身体を包み込む腕の力加減には、どこまでも優しく、微塵の狂いも乱れもない。
けれど、すっかり静まり返った室内で、眠る男の耳元に寄せられた陰の呼吸は、いつしか熱を失い、ひどく冷ややかで静謐なものへと変わっていた。
焦燥も、戸惑うような素振りも、もはやそこには一切存在しない。あるのはただ、一度その腕に収めたものを二度と逃がさぬような、底の知れない抱擁だけだった。
完璧に仕組まれた温もりの檻の中で、眠り続ける男を静かに抱き留めたまま。陰はただ淡々と、夢の底へと沈んでいくその温かな重みを噛み締めていた。
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