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第24話

 郭冥玄と別れた後、俺は廊下を歩きながら、彼とのやり取りを振り返っていた。 (もう少しで「東越山脈の戦い」が始まってしまう……)  郭冥玄は龍承業に「内部に裏切り者がいる」という情報を流し、軍内部の不和を煽る。龍承業の猜疑心の強さを利用した巧妙な罠だ。  しかし、今の龍承業は──郭冥玄が言うには、俺の言葉に耳を傾けるようになってきている、らしい。 (もし俺が「情報に惑わされるな」と事前に彼に伝えておけば、彼は冷静さを保てるかもしれない)  なんとも単純な考えだが、猜疑心の強い彼にはこれくらいストレートな作戦のほうが効くかもしれない。 「仕方ない、少し話に行くか……」  ◆◆◆  夜も更けてきた頃、俺は太守の館にある龍承業の寝室を訪ねた。呼ばれたわけでもないのに彼の元を訪れるのは初めてのことだった。胸の鼓動が耳に響くほど大きくなり、手には汗が滲んでいる。  扉の前の兵士二人は、俺の顔を見ると会釈し、扉をノックしてくれた。どうやら、兵士たちに軍師として認知されてきたようだ。部隊配置や物資管理で成果を上げた結果、彼らも敬意を払うようになったのかもしれない。 「誰だ?」  中から低い声が響いた。 「軍師の梁易安です」  少しの沈黙の後、「入れ」という声がした。  俺は緊張して震える手で扉を開け、部屋に入った。龍承業は机に向かって何か書類を読んでいた。上半身は裸で、たくましい胸板が目に入る。戦場で鍛えられた肉体は、まさに戦神のような威厳を放っていた。長い黒髪が肩から流れ、その姿は威圧的でありながら、どこか美しさすら感じる。 (綺麗な体だ……)  その思いが脳裏をよぎった瞬間、自分の考えに驚く。どうして俺はこの男の体に見惚れているんだ? 「何の用だ? 呼んだ覚えはないが」  彼は振り向かずに言った。その低い声に、なぜか胸がざわつく。 「はい……今日は、お願いがあって参りました」  龍承業は少し驚いたように振り向いた。その鋭い翡翠色の瞳が俺を捉え、思わず息を呑む。 「お願い? お前から俺に?」 「はい」  彼は椅子から立ち上がり、俺と向き合った。その腹筋もまた見事に浮き出ていて、思わず目が泳いでしまう。 (なんだよ、この完璧な肉体は……これじゃ敵わないわけだよなぁ……)  いや、そもそも比べるものですらない。あの戦場で彼が見せた圧倒的な武力を思い出せば、この肉体は当然の結果だ。 「話せ」  龍承業の声で我に返る。いつの間にか彼が醸し出す存在感に飲まれそうになっていた。 「近い未来に起こる戦場でのことです」 「冥玄から聞いたな?」 「はい。三国連合が結成されつつあり、最初の大きな戦いになるであろうと」  龍承業はため息をついた。その仕草は意外にも人間味があり、少し驚く。 「冥玄は心配しすぎだ。三国など、我が黒炎軍の前には無力だ」  彼の自信に満ちた声には説得力があった。確かに彼の武力があれば、通常の戦いなら勝利は約束されているようなものだ。しかし…… 「確かに総大将の力は絶大です。しかし、東越国は情報戦にたけています。彼らは裏切り者の情報を流して、我々の内部分裂を図るでしょう」  龍承業の目が鋭くなった。その視線の変化だけで、空気が重くなる。 「裏切り者? 誰のことだ?」  彼の声が低く沈む。これが郭冥玄の策だ。この猜疑心の強さを利用して、黒炎軍を内部崩壊させようとしている。 「おそらく、彼らは誰かを特定して情報を流すのではなく、『黒炎軍の中に内通者がいる』と広めるだけでしょう。それだけで仲間同士の不信感が生まれ、内部から組織が崩壊します」  龍承業はしばらく黙っていた。彼の表情からは何も読み取れない。でも、彼の目には何かが揺れていた。 「それで、お願いとは?」  ここが正念場だ。俺は深呼吸して、真っ直ぐ彼の目を見た。 「戦いの最中、どんな情報が入ってきても、どうか俺を信じてください」 「何?」 「もし『裏切り者』の情報が入ってきたとしても、総大将の位置は絶対に離れないでください。それは敵の罠です」  龍承業は眉をひそめた。 「お前は俺に命令しているのか?」  その声には怒りよりも、むしろ驚きが込められていた。普段は誰も彼に意見すら言わないのだろう。 「いいえ! そうではなく……」  俺は慌てて言い直した。 「お願いです。例えばもし俺が裏切り者だと言われても、最後まで俺を信じてください。そうすれば勝利できます」  龍承業は立ち上がり、俺に近づいてきた。彼の存在感が圧倒的で、思わず後ずさりそうになるのを必死でこらえる。彼の体から発する熱が伝わってくるようだ。 「なぜそんなことを頼む?」 「これからの戦いが最も重要だからです。ここで勝てば、黒炎軍は真の勢力として認められます」  彼が一歩近づくと、俺は思わず一歩下がる。そして、壁に背中が触れた。逃げ場がない。  龍承業は俺の前に立ち、顎を指で持ち上げた。その指の感触が熱い。 「お前の言うことを俺が信じたとして……」  彼の声が低くなり、威圧するような、それでいて甘いような響きを帯びていた。 「だが、願いを聞いてやるには代償が必要だな」 「何……でしょうか?」  質問の答えは予想できた。胸の奥が熱くなる。 「お前自身だ」  彼の目が危険な光を帯びた。その翡翠色の瞳に吸い込まれそうになる。 「俺の寝室に自ら訪れてきたということは、その覚悟もあるのだろう?」  龍承業の声は、低く、今までにない色気を含んでいた。それは単なる脅しや命令ではなく、情欲を伴うものだとはっきりとわかる。  俺は言葉を失った。彼の意図は明白だった。あの夜のようにキスを求められるのか、それともそれ以上のことを? 脳裏によぎる考えに、頬が熱くなるのを感じる。 「な、何言ってるんですか!?」  俺はようやく反応を取り戻して声を上げた。龍承業の意味深な言葉に、頭が真っ白になる。心臓が早鐘を打ち、体に力が入らない。これは恐怖なのか、それとも違う何かなのか…… 「お前、本気で理解していないのか?」  龍承業は冷たく眉を寄せ、鋭い視線を俺に向けた。その目にはわずかな落胆と、それ以上の欲望の色が浮かんでいる。 「あの時も、崑山の戦いの後も、俺はお前に明確な意思表示をしたはずだが」  あの時……そう、龍承業が俺にしたあの行為。崑山の戦いの後の夜にも彼は俺に同じことをした。それは単なる脅しや支配の象徴ではなく、もっと直接的な……つまり…… (え、まさか龍承業は俺に本気で気があるってこと!?)  その認識が遅れてきて、俺の顔が熱くなるのを感じた。心臓の鼓動がさらに激しくなる。 「ち、違います……俺はただ戦略の話がしたくて……」  龍承業は俺の首をつかみ、壁に押し付けた。まるで獲物を捕らえた猛獣のように。その腕の力は圧倒的で、喉が潰れそうになり抵抗する余地はない。 「いい加減、お前の態度に飽きた」  彼の声は氷のように冷たく、それでいて熱を帯びていた。 「知らないふりをするのもいい加減にしろ」  彼の息が頬にかかり、言葉が耳に響く。 「お前が何を考えているか、俺にはわかる。お前の目が俺を追っている。お前の身体が俺に反応している」  その言葉に、胸が締め付けられる感覚がした。本当に彼にはわかるのだろうか。俺自身でさえよくわからないこの感情を。 「それは……違います……」  弱々しい否定の言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのようだった。  龍承業は俺の首を掴んだ手を緩め、その代わりに頬に触れた。意外なほど優しい手つきだ。 「嘘をつくな。お前は俺に必要とされることを望んでいる」  その言葉に心臓が跳ねた。「必要とされる」——そんな感情があったのだろうか。ただの商人キャラでしかないはずの俺が、伝説の悪役将軍にとって必要な存在になるなんて。 「必要……ですか?」  その言葉が自然とこぼれ出た。 「ああ」  龍承業の目が熱を帯びる。 「お前は俺にとって必要だ」  彼の言葉には嘘がないように聞こえた。彼の目は真剣そのものだった。 「総大将……」  言葉が喉に詰まる。彼の唇が近づいてくる。拒絶すべきなのに、体が動かない。いや、むしろ体は彼の方へ傾いていく。無意識のうちに、彼の存在を求めているかのように。 「俺の名を呼べ」  彼が囁いた。 「龍……承業……様……」  その名を口にした瞬間、彼の唇が俺の唇を覆った。恐怖と期待が入り混じり、体の芯から熱くなるのを感じる。頭の中が空白になり、抵抗する気力すら失われていく。  龍承業の腕が俺の腰に回り、強く引き寄せられる。彼の胸板の熱さが伝わってくる。口内に彼の舌が侵入してきて、息が詰まりそうになる。 「ん……っ」  思わず漏れた声に、自分でも驚いた。その声は拒絶ではなく、快感の表れだった。  龍承業はそれを気に入ったように、さらに深くキスを続ける。彼の手が俺の体を探るように動き、衣服の下へと潜り込んでくる。 「や、やめて……」  弱々しい抵抗の声を上げるが、体は素直に彼の愛撫に反応している。恥ずかしさと快感が入り混じり、どうすればいいのかわからなくなる。  龍承業はようやく唇を離し、俺の耳元で囁いた。 「お前が俺を裏切らないという証を見せろ」  彼は俺が裏切らないという保証を求めている。そして、その保証は肉体関係という形で示せというのだ。  これは単なる欲望だけでなく、契約儀式的な意味合いでもあるのだろう。それでも、彼の目には確かに欲望の炎が燃えていた。  俺は深呼吸をして、決意を固めた。黒炎軍を救うため、そして……彼のために。 「わかりました」  俺は小さく、しかし確かな声で答えた。  龍承業の目が驚きに見開かれた。彼は俺が最後まで抵抗すると思っていたのかもしれない。 「本当にいいのか」 「はい……あなたが勝利するためなら」  彼の表情が複雑に変化する。欲望と、何か別の感情——それは戸惑い、あるいは感謝のようにも見えた。 「ならば……」  彼は俺を抱き上げ、横にある豪華な寝台へと運んだ。その力強さに、身を委ねるしかなかった。

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