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第28話
時間が過ぎていった。
隙間風の吹く古びた山荘の窓から見える陽の位置から判断すると、もう一日近く経過したようだ。山間部のこの廃れた建物は、かつて猟師か木こりが使っていたらしく、室内には使い古された道具が散乱している。天井からは雨漏りの跡が見え、木材の腐敗臭が鼻をついた。
俺は床に座らされ、手足を縛られたまま、じっと次の展開を待っていた。
見張りの交代の様子から時間の経過を知る。山荘の外には常に二人、内部にも一人と、合計三人の兵士が俺を監視していた。彼らの装備は東越国の兵士のそれと特徴が異なるため、おそらく郭冥玄の私兵たちだろう。
「交代だ、飯の時間だぞ」
外から声がして、扉が開いた。新しい見張りが入ってくる。彼らの会話から、戦況も少しずつ把握できた。
「黒炎軍はまだ持ちこたえているらしいぜ」
「あの黒龍将軍、人間じゃねえよ……一人で百人は倒してるって」
「冗談だろ? あいつは魔物なのか?」
「そうとしか思えねえよ。オレの仲間が見たって言ってたぜ。漆黒の鎧に身を包んで、まるで死神のように敵を薙ぎ倒していくんだと」
「でも参謀様の計画通りなら、そのうち冷静さを失って……」
彼らは会話を途切れさせ、俺に視線を向けた。
「まあ、そんなこと捕虜に聞かせることじゃねえな」
(まだ龍承業は戦っている……)
安堵の気持ちが湧き上がる。彼は俺の失踪で取り乱すどころか、戦場で猛威を振るっているようだ。
監視する兵士たちの数が少ないことに気づいた俺は、ここからの脱出を考え始めた。彼らの警戒心はそれほど高くなかった。おそらく俺を弱々しい商人上がりの軍師、もしくは「龍承業の男娼」としか見ていないのだろう。
「水を……くれないか」
俺は乾いた声で言った。長時間何も飲まず、喉はカラカラだった。
「おっと、そうだな」
見張りの一人が言い、水の入った皮袋を持ってきた。
「飲ませてやれ」
もう一人が近づき、俺の縄をわずかに緩めて皮袋を口元に押し当てた。俺はその機会に部屋の様子をさらに詳しく観察した。出入り口は一つ、窓は二つ。床には埃が積もり、足跡がくっきりと残っている。どうやら彼らはここを長期的な拠点として使っているわけではないようだ。
次の交代時には、さらに衝撃的な情報が入ってきた。
「ついに連合軍が撤退を始めたって!」
見張りの一人が大声で言った。
「マジか!? あんな有利な地形で負けるとは……」
「黒龍将軍が東越の将軍を斬ったらしい。それで士気が一気に下がったんだと」
「冗談だろ……あの鬼才と言われた|韓無塵《かん・むじん》の策を武力でねじ伏せるなんて……」
「それどころか、その後も真っ直ぐに敵陣に突っ込んでいって、何十人も切り倒したらしい」
東越国の敗北。ここまでの展開は、ゲームで見た歴史とは全く違うものだった。
(黒炎軍が……勝った?)
そのこと自体は喜ばしいことだが、それで自分が置かれた状況がただちに良くなるわけではない。俺は注意深く、引き続き兵士たちの会話に耳をそばだてた。
「だが、これで俺たちはどうなるんだ?」
一人の兵士が不安げに言った。
「心配するな。この山荘の場所は知られていない。それに参謀様は常に先を見越している。黒炎軍が勝ったとしても、次の一手は用意しているはずだ」
俺はその会話を聞きながら、俺は一つの結論に至った。郭冥玄の居場所がばれていないのなら、龍承業は俺を探しに来られない。自分の力で何とかしなければならない。
縄を緩める方法を考えながら、俺はわざと体調不良のふりをし始めた。見張りたちはそれほど注意を払っていないように見えた。
時間が経つにつれ、部屋の中の緊張感は高まっていった。外の見張りたちが何やら騒がしく話し合う声が聞こえる。そして突然、扉が勢いよく開かれた。
そこに立っていたのは郭冥玄だった。
彼の表情は普段の冷静さを失い、焦りと恐怖で歪んでいた。汗で濡れた髪が額に張り付き、いつもの優雅な佇まいは消え失せている。彼の衣服は旅の埃で汚れ、どうやら馬を駆って慌ててここまで来たようだった。
「冥玄様、状況は?」
見張りの一人が尋ねた。
「全て台無しだ」
郭冥玄は歯を食いしばって言った。
「予想外だ……あの男、梁易安が消えても全く動じなかった。むしろ、いつも以上に冷静で残忍だった」
彼の声には明らかな恐怖が滲んでいた。
「……お前の言うとおり、龍承業は単純な男ではないようだ」
郭冥玄が俺を見ながら続ける。
「私の正体が露見するのは時間の問題だ。すでに私の行動を疑っている者もいる。ここにいる者たちも危うい」
「どうすれば……」
「連合軍は撤退した。私はすぐにここを離れねばならん」
彼は部屋の隅に視線を向けた。
「──もはやこの男を人質にする価値もない。処分しろ」
見張りたちは互いに顔を見合わせ、不敵な笑みを浮かべた。
「この商人風情、ただ殺すなんてもったいねえな」
「龍承業の男娼だっていう噂は本当なのか? それなら試してみるか?」
兵士の一人がニヤリと笑い、俺に近づいてきた。
「やめろ!」
俺は必死に抵抗し、椅子ごと後ずさった。縛られた手首が痛み、縄が肌を切り裂く。
「抵抗するなよ。どうせ殺されるんだ、最後に楽しませてもらうさ」
見張りが俺の服を掴み、引き裂こうとした。生地が裂ける音とともに、冷たい空気が肌に触れた。彼の荒い呼吸が俺の首筋にかかる。
「そんな時間はない。さっさと終わらせろ」
郭冥玄が言った。
「ほんの少しだけですよ、冥玄様」
見張りは振り向きもせず言った。
「こいつの肌、意外と綺麗じゃないですか」
彼の手が俺の胸に伸びる。もう一人の見張りも近づいてきた。俺は必死に脚を動かし、何とか一人の膝を蹴った。
「この野郎!」
見張りは怒りに顔を歪め、俺の頬を強く打った。頭がぐらりと揺れ、口の中に鉄の味が広がる。
「もういい! 殺せ! 今すぐに!」
郭冥玄が叫んだ。
見張りは渋々と立ち上がり、腰から短剣を抜いた。
「分かりましたよ……あーあ、せっかくの楽しみが……」
彼は短剣を俺の喉元に突きつけた。冷たい金属が肌に触れる。
刃先が俺の肌を僅かに切り、血が滴り始めた。
その時だった。
外で何かが起きたようだ。木々を踏む音、何かが倒れる鈍い音、そして短い悲鳴。
「何だ?」
見張りが窓の方を見る。
ドアが粉々に砕け散り、木片が室内に飛び散った。
全員が振り向いた時、そこに立っていたのは――龍承業だった。
漆黒の鎧に全身を包み、仮面のように無表情の彼の姿は、まさに伝説の黒龍将軍そのものだった。鎧には敵の血が飛び散り、手にした槍からは滴るようにそれが落ちる。冷たい翡翠色の瞳からは殺意が波のように放たれていた。
「手を引け」
その低い声は死神の宣告のようだった。
見張りたちの顔から血の気が引いた。
「総、総大将……!」
彼らは恐怖で固まったまま、動けなくなっていた。一人が剣を抜こうとしたが、その動きは遅すぎた。
龍承業はゆっくりと部屋に入ってきた。
「この裏切り者どもが……!」
彼は一瞬のうちに見張りたちに襲いかかった。その動きはあまりに早く、まるで黒い影が部屋を横切ったかのようだった。見張りたちの悲鳴が轟き、痛ましい叫び声が室内に響いた。俺は思わず目を逸らした。
振り向いた時、床には二人の見張りの亡骸が横たわり、赤い血が広がっていた。
郭冥玄はすでに部屋の隅に追いやられ、壁に背を押し付けながら震えていた。槍の刃先が彼の喉元に突きつけられている。
「龍……承業……」
彼の声は震えていた。龍承業が一歩近づくと、郭冥玄は膝を折った。
「裏切り者に言うことはない」
龍承業の槍が上がった。郭冥玄の首を打ち落とすつもりだ。
「待ってください!」
俺は思わず叫んだ。龍承業の動きが止まった。彼の鋭い目が俺に向けられた。
「何だ?」
「彼を殺さないでください。まだ使えます」
俺は急いで言った。
「裏切り者をどう使う?」
龍承業の声は冷たく響いた。
「二重スパイとして」
俺は言葉を選びながら続けた。
「彼は東越の貴重な情報源になります。そして彼の知略は依然として貴重です。ただ監視を厳しくすれば、彼の能力を我らのために使えるはずです」
龍承業は俺をじっと見つめ、それから郭冥玄に視線を移した。沈黙が部屋を支配する。
「……お前の言うことを信じろという約束だったな」
彼はついに口を開き、そして槍を下げ、郭冥玄の首筋に突きつけた。
「聞いたな。お前の命はこの男に救われた。だが、二度と裏切りの真似をすれば、その時は必ず殺す」
郭冥玄は頭を下げた。恐怖と敗北感が彼の顔に刻まれていた。
「はい……」
彼の表情からは、龍承業の圧倒的な勝利を目の当たりにした衝撃が読み取れた。きっと彼は東越の敗北を受け入れ、もう逆らっても無駄だと悟ったのだろう。
龍承業は彼に背を向け、俺の元へと歩み寄った。彼の手が俺の縄を解き、立ち上がるのを手伝う。その手は血で汚れていたが、俺にとっては救いの手だった。
「なぜ俺を助けに来たんですか?」
俺は震える声で尋ねた。龍承業の顔には疲労の色が濃かったが、目は鋭く光っていた。
「お前が言ったはずだ。『自分を信じてください』とな」
彼の言葉に、胸が熱くなった。
「わかっていたんですか? 俺が攫われたことを……」
「当然だ。俺の目は誤魔化せん」
龍承業は言った。
「お前がいなくなった瞬間、郭冥玄の策と気づいた。だがあえてそのまま戦いに集中した。お前の言葉を信じてな」
彼は小さく笑った。その笑みには、これまで見たことのない柔らかさがあった。
「どうして俺がここにいることが分かったんですか?」
「初めからお前を一人にしていると思ったか?」
龍承業は俺を抱きかかえるように立ち上がらせながら、言葉を続ける。
「郭冥玄を信用していなかったからこそ、奴の動きには常に影をつけていた。お前が連れ去られた後も、俺の忠実な刺客が後を追っていたのだ」
彼は窓の外を見た。
「彼らは見つからないように距離を置いていたが、ずっとこの場所を監視していた。俺が戦場で勝利した直後、彼らから場所の報告を受けた」
俺は理解した。龍承業は最初から郭冥玄を警戒し、万が一の事態に備えていたのだ。そして「お前の言葉を信じる」という約束を守り、まず戦いに集中した。その上で、勝利後すぐに俺を救出に来たのだ。
龍承業は俺の肩を抱き、外へと導いた。その腕の中で、俺はようやく助かったことを実感する。
「さあ、帰るぞ」
廃れた山荘を後にする時、龍承業は腕に力を込めて俺をしっかりと抱きしめた。彼の体温と心臓の鼓動が伝わってくる。
「──もう二度と、俺の側から離れるな」
その言葉は命令でありながら、どこか切実な願いのようにも聞こえた。
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