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第29話
東越山脈の戦いから数日経った。
俺はため息をつきながら、手元の報告書を眺めていた。ここ最近、こんなふうに机に向かって書類仕事をすることが多くなった。龍承業によって「軍師」に任命されてから役割が増え、様々な職務が俺に割り当てられるようになったからだ。
「まったく、転生してまで書類仕事かよ……」
思わず漏れた愚痴に、自分でも苦笑いしてしまう。でも、こんなことで愚痴れる状況になったというのは、皮肉なことに大きな進歩だった。
東越山脈の戦いは黒炎軍の圧倒的勝利に終わった。龍承業の力は健在どころかむしろ強くなっているように見えた。そして、何より重要なのは郭冥玄の裏切りを防げたことだ。
郭冥玄――彼は表向きはこれまで通り参謀として黒炎軍の中枢にいるが、実際には二重スパイとして東越国の内情を探るために奔走している。彼の立場は劇的に変わった。裏切ろうとして失敗した後、龍承業の猛威を目の当たりにして完全に屈服したのだ。
ゲームの展開では、彼は黒炎軍を裏切り、東越国に逃げ戻るはずだった。そして、その裏切りが引き金となって黒炎軍が内部分裂し、最終的には滅んでいく流れになる。
でも、今回はそれを阻止できた。俺の助言を龍承業が信じてくれたおかげで。
「いやぁでも、この調子で油断してると何か別の展開で詰みそうで怖いんだよな……」
確かに東越山脈の戦いに勝利したことは大きい。東越国と西崑国の連合軍を打ち破り、郭冥玄を二重スパイとして手に入れた。ここまでは順調だが、それでもまだ安心できない。
これから本格的に三国連合軍との戦いが激化していくからだ。特に白蓮谷の戦いで壊滅的なダメージを与えた南辰国が、首都から巨大な遠征軍を派遣し、大規模な軍勢で襲ってくる戦いもこれから待ち受けている。
「うーん、ゲームでいえばステージボスがどんどん強くなっていく中盤戦突入か……」
報告書の端に「|蘇清影《そ・せいえい》」の名前が目に入った。南辰国の「剣仙」と呼ばれる伝説級の戦士だ。白蓮谷の戦いにも参加していた武将である。彼が率いる南辰国の遠征軍が、ここ楽安街への侵攻を開始したとの偵察報告が届いていた。
(彼が来たら、本格的にやばい戦いになる)
蘇清影はURキャラクター、それも最強クラスの性能を持つゲーム内キャラだ。彼の剣術は神業級で、一度振るわれた剣を見た者は二度と目を離せなくなるほどの美しさだという。
そして何より厄介なのは、彼の強さは真っ向勝負の強さだということだ。龍承業のような圧倒的な力の持ち主でも、かなり苦戦するはずだ。
一騎打ちになれば当然、龍承業に分がある。だが、両者の違いは「仲間」の存在だった。
龍承業は黒炎軍という寄せ集めの軍を率いている。対して蘇清影は南辰国という大国の正規軍を率いている。戦力差は歴然としていた。
「やっぱり、このままじゃ厳しいよなぁ……」
黒炎軍は今、集団としての在り方が問われる段階に入っていた。これまでは「国に捨てられた者たちの集まり」として、略奪と破壊を繰り返してきた。それは龍承業の「怒りのはけ口」としての戦いでもあった。
でも、それだけでは三国には勝てない。
(俺は龍承業に、本格的に天下統一を目指してほしい)
天下統一エンドは『覇道演義』の中でもベストエンドと呼べる結末だ。メイン三国のルートでは見たことがあるが、最強難易度の黒炎軍ルートでは難しすぎて一度も達成したことがなかった。
というか、ファンの間で「黒炎軍に天下統一エンドはないのでは」と噂されていたくらいである。
「でも、今の俺の立場で『天下統一』なんてとても言えないし……」
ため息をついて首を振り、俺は立ち上がった。
もう夜も更けている。そろそろ龍承業の寝所へ向かう時間だ。
東越山脈の戦いの後、俺の立場はさらに特殊なものになっていた。表向きは黒炎軍の軍師だが、陰では龍承業の「寵愛を受ける者」という微妙な立場だ。
あの夜以来、毎晩俺は彼の寝所に呼ばれるようになり、その習慣は今でも続いている。思えば当初は想像もしていなかった展開だ。
(あいつとそういう関係になるなんて……)
思い出すだけで体が熱くなる。最初は恐怖と戸惑いだけだったのに、いつの間にか龍承業の体温を感じることが安らぎになっていた。あの強大な力を持つ男が、俺に対してだけ見せる弱さや優しさに、どこか胸が震える。
だが、その感情に正面から向き合うのは怖かった。今の関係は契約的なものだと自分に言い聞かせてきたけれど、もうそれだけでは説明がつかない何かが俺の中に芽生えていることは否定できない。
「龍承業さん、ほんとなんなんすかマジで……」
あの男は謎が多すぎる。最初こそ強引な態度だったが、今では俺を大切にするような仕草を見せる。特に前回の戦いで郭冥玄に連れ去られてから、彼の過保護な態度は目に見えて強くなった。龍承業は決して口には出さないが、俺を失うことを恐れているのだと何となく感じる。
「こんなの……ヘンじゃん……」
正直言って、混乱している。あれだけの男が、なぜ俺のような地味なキャラに執着するのか理解できない。でも、夜ごとに彼の腕の中で過ごす時間が、少しずつ俺の心を溶かしていくのを感じていた。
「俺はただ平凡に生きたかっただけなのに……勘弁してくれ……!」
◆◆◆
龍承業の部屋は相変わらず豪華だった。彼は窓際に立ち、外の夜景を眺めていた。彼の後姿は堂々としていて、まるで彫像のように美しい。
「来たか」
彼は振り向かなかったが、俺の気配を感じ取ったようだ。
「はい」
俺は扉を閉め、彼の近くに歩み寄った。
「明日から本格的に準備を始める。南辰国の遠征軍は予想よりも早く動いているようだ」
「蘇清影の件ですか?」
「ああ。奴は厄介な相手だからな」
龍承業は窓から身を離し、俺の方を向いた。彼の顔は相変わらず無表情だが、目に疲れの色が見えた気がする。
「部隊の配置は終わったか?」
「はい、あなたの指示通りに配備を完了しました」
「ふむ」
彼は机に置かれた酒瓶から酒を注ぎ、俺に杯を差し出した。
「飲め」
「ありがとうございます」
俺は杯を受け取った。龍承業が俺に酒を勧めるのは珍しい。いつもは必要な連絡事項を済ませるとすぐに……あちらの関係に移るのだが。
「何か思案があるようだな」
龍承業の鋭い観察眼が俺の内心を見抜いたようだ。
「いえ、ただ……」
言葉に詰まる。本当は「黒炎軍の未来」について話したかったが、それを切り出す勇気がなかった。
「黙っていても何も始まらんぞ」
彼はそう言って、自分も酒を飲んだ。
「南辰国との戦いについてですが……」
俺は慎重に言葉を選んだ。
「単なる戦闘だけでは勝てないかもしれません」
「何?」
「今の黒炎軍は単なる略奪者の集まりとして見られています。しかも南辰国など正規の国から見れば『反逆者』です。だからこそ、国全体が黒炎軍を敵視しています」
龍承業は黙って聞いていた。
「もし……もし黒炎軍が単なる『反逆者』ではなく、新たな国として立ち上がるなら、状況も変わるかもしれません。例えば、商人や農民など一般市民からの支持を得られれば……」
「何が言いたい?」
龍承業の声が少し冷たくなった。
「つまり……本格的な天下統一を目指してはどうでしょうか」
言ってしまった。心臓がドキドキする。
龍 承業は少し驚いたように俺を見た。
「天下統一?」
「はい。黒炎軍が単なる『復讐のため』の軍ではなく、『新たな国を作るため』の軍だと示せば、民衆の支持も得られるはずです」
龍承業はしばらく黙っていた。その表情からは何も読み取れない。
「お前は……本当に……」
彼はようやく口を開いた。
「復讐のためだけに戦ってきた俺に、国を作れと言うか」
「復讐は……満たされましたか?」
大胆な質問だった。龍承業の目が鋭くなる。
「満たされるわけがない」
彼は低い声で言った。
「家族を殺された恨みは、死ぬまで消えはしない」
「でも……新しい国を作れば、あなたの家族が望んだ世界が実現するのではないですか?」
彼の目が少し見開かれた。まるで何かに気づいたかのように。
「あなたのお母様と妹さんは、あなたの帰りを待っていたんですよね。一緒に山の麓に移り住もうと約束していたと……」
以前、龍承業が語ってくれた過去の話だ。
「あなたのような強い人が国を率いれば、きっと素晴らしい国ができるはずです。今の三国とは違う、真に民のための国が」
龍承業の表情が変わった。通常の冷たさが消え、何か懐かしむような、少し哀しげな表情になった。
「お前は……」
彼はゆっくりと近づいてきた。
「本当に底の知れない男だ」
その言葉に、心臓が高鳴った。彼は俺の顔を両手で包み込み、じっと見つめてきた。
「新しい国か……」
彼の声は思いのほか柔らかかった。
「……考えてみよう」
その言葉に、俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
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