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第30話

「南辰国の軍が動いたか」  龍承業の低い声が、軍議の間に響いた。彼は漆黒の長衣をまとい、玉石の象眴が施された机に両手をつき、広げられた地図を見つめていた。部屋には黒炎軍の主だった将軍たちが集まり、張り詰めた空気が漂っていた。 「はい、蘇清影が直々に率いる遠征軍です。規模は五万を超えるとの情報が」  郭冥玄が報告を続ける。彼の声には以前のような余裕がない。東越山脈の戦いでの失敗以来、彼の立場は大きく変わった。今や彼は二重スパイとなり、東越国から得た情報を黒炎軍にもたらす役目を果たしていた。  龍承業は無言で頷くと、地図上の南辰国の位置から、黒炎軍の本拠地である楽安街までの進軍ルートを指でなぞった。 「予想される進軍ルートはこれか?」 「はい、最短距離で攻めてくるでしょう。彼らは我々が逃げると思っているようです」  郭冥玄の言葉に、周囲からは不満の声が漏れた。逃げるなど、黒炎軍の誇りが許さないというわけだ。だが、冷静に考えれば、正規軍五万に対して黒炎軍の戦力は二万ほど。単純な数の上では不利は明らかだった。 「迎え撃つべきです」  ある将軍が立ち上がって言った。 「東越山脈でも勝ったではありませんか。総大将様の力があれば——」 「愚か者め」  龍承業が冷たく言い放った。 「蘇清影は東越の将軍とは格が違う。南辰の剣仙だ。軽く見積もって、お前のような将が百人いても敵わぬ」  その言葉に、部屋は静まり返った。龍承業ほどの男が、敵将を警戒するという事実が、事態の深刻さを物語っていた。 「では、どうすれば……」  将軍たちの間で不安げな声が交わされる中、龍承業の視線が俺──梁易安に向けられた。 「梁易安、お前の考えは?」  突然の問いかけに、俺は一瞬たじろいだ。部屋の全員の視線が一斉に俺に集まる。東越山脈の戦いで俺の助言が勝利につながったことから、龍承業はますます俺の意見を重視するようになった。しかし、それはすなわち他の将軍たちからの反感も買うということを意味している。 「蘇清影の弱点について情報があります」  俺は立ち上がり、できるだけ堂々とした態度で話し始めた。 「蘇清影が使う剣術は『仙術』と呼ばれるもので、通常の武術の域を超えています。しかし、この仙術には条件があります」  龍承業が興味を示したように身を乗り出した。 「条件?」 「はい。彼は太陽や月の光を浴びることで力を増します。逆に言えば、暗闇や濃霧の中では、その力は大幅に制限されるのです」  郭冥玄が眉をひそめた。 「そのような情報はどこから?」 「情報網からの報告です」  俺は曖昧に答えた。もちろん実際はゲームでの知識だが、それをそのまま言うわけにもいかない。 「その情報が本当なら、戦場と時間の選択が鍵となるな」  龍承業が言った。 「はい。加えて玲蘭様の霧の術を使えば、彼の力をより効率的に封じることができます」  俺の提案に、龍承業がゆっくりと頷いた。 「なるほど。白蓮谷の時と同じように……」 「ただし」  俺は続けた。 「蘇清影は霧を見通す力を持っています。だから単純な霧だけでは対応できません。暗闇と組み合わせる必要があります」  龍承業の視線が俺を貫いた。その目には疑問が浮かんでいた──お前はなぜそこまで詳しく知っているのか?  だが、彼はその疑問を今は口にしなかった。 「夜襲か。確かに有効だろう」  龍承業が考えを巡らせている間、郭冥玄が口を挟んだ。 「しかし、蘇清影は南辰国一の将軍です。簡単に罠には引っかからないでしょう」 「そこで提案があります」  俺は続けた。 「蘇清影は『正義の士』を自任しています。もし彼の正義感を刺激すれば、彼は単独で行動する可能性があります」 「どういうことだ?」 「彼の性格を利用するのです。例えば、黒炎軍が戦場に近い村を襲撃するという偽情報を流せば、彼は少数の精鋭だけを連れて先行して村を守りに来るでしょう。そこを夜陰に紛れて襲えば──」  郭冥玄の顔に驚きの色が浮かんだ。 「それは……確かに彼の性格からすれば、可能性はある」  龍承業は静かに笑った。その笑みには鋭い刃物のような冷酷さがあった。 「そうか、彼の正義感という弱点を突くわけだな」  龍承業は立ち上がり、部屋を一巡した。彼の黒い長衣が風を切る音が、静まり返った部屋に響く。 「計画をまとめよ」  彼は命じた。 「郭冥玄、偽情報を流す準備をせよ。玲蘭、霧の術の準備を。各隊長は兵の訓練を徹底しろ。特に夜戦の訓練だ」  将軍たちが一斉に立ち上がり、「はっ!」と返事をした。 「梁易安、お前はこの後、私の部屋へ来い。詳細を詰める」  その言葉に、部屋の空気が一瞬凍りついた。龍承業が俺を彼の部屋に呼ぶというのは、もはや公然の秘密だった。ある者は嫉妬の色を隠せず、またある者は軽蔑の眼差しを向ける。だが、誰一人としてそれを口にする者はなかった。 「かしこまりました」  俺は顔を熱くしながらも、しっかりと答えた。

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