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第32話

 南辰国との戦争の前日、黒炎軍の陣営は異様な緊張感に包まれていた。明日、楽安街の東に広がる平原で南辰国軍と対峙することになる。蘇清影率いる強大な軍勢との戦いは、黒炎軍にとって最大の試練になるだろう。  陣営の周りには焚き火が幾つも灯され、その炎が夜風に揺れていた。兵士たちは戦いの前の静けさの中、思い思いに時を過ごしている。武器を磨く音、甲冑を整える音、それに低い声での会話が入り混じる。いつもなら酒を飲んで騒ぐような連中も、今宵ばかりは静かだった。明日の命運を占うかのように、星空を見上げる兵もいる。  俺は黒炎軍の旗がはためく本陣の近くを歩いていた。龍承業の天幕からは、人の気配を感じない。どうやら彼はいまここにはいないようだ。  そんなとき、背後から温修明が小走りで近づいてきた。彼は本来なら軍の調達屋だが、彼本人の希望で今回の戦には衛生兵として前線に加わっている。俺としてはあまり危険なことはしてほしくなかったのだが、本人の強い希望というならどうしようもない。 「梁兄! 黒煙軍は全員広場に全員集まれと総大将から集合がかかっていますよ」 「集合? 今から?」 「はい、総大将が自ら演説をなさるとか」  驚いた。龍承業が演説をするなんて聞いたことがない。彼は通常、命令を下すだけで、長々と話すタイプではないのだ。 「最近の総大将、なんとなく雰囲気が変わった気がしますね」  それは俺も感じていた。龍承業は東越山脈の戦い以降、明らかに変化していた。以前のような盲目的な怒りや破壊衝動が薄れ、より計画的に、そして思慮深く行動するようになっていた。  俺たちは広場へと向かった。そこはかつて楽安街の市場として使われていた広い空間で、今は黒炎軍の集会場となっていた。広場に着くと、既に多くの兵士が集まり始めていた。松明の灯りが円を描くように配置され、その中央に台が設けられている。  兵士たちの顔には不安と期待が入り混じっていた。明日の戦いが彼らの運命を左右することを、誰もが理解している。かつての傭兵、盗賊、国を追われた浪人、様々な背景を持つ者たちが、今は一つの軍として集まっている。それでも彼らの間には団結力が欠けていたのは否めない。  黒妖妃・玲蘭が俺たちに気づき、手招きした。彼女は指揮官たちのために設けられた場所に立っていた。 「遅いぞ」 「書類の確認をしていて……」 「まあいい。龍承業様が自ら兵を鼓舞なさるなど、前代未聞だからな」  そんな中、台上に龍承業が現れた。彼はいつもの黒い鎧を身につけ、威厳に満ちた姿で立っていた。しかし、その表情にはいつもの冷酷さだけでなく、何か別の感情も見て取れた。 「黒炎軍の兵士たちよ」  龍承業の声は広場全体に響き渡った。 「明日、我々は南辰国軍と対峙する。蘇清影率いる大軍だ。多くの者はそれを恐れているだろう」  兵士たちの間に緊張が走る。隣にいる温修明も身を固くしていた。 「だが、恐れるな」  龍承業の声が強くなった。 「我々はただの略奪者の集まりではない。国に捨てられ、見捨てられた者たちだ。しかし、それこそが我々の強さだ」  彼の言葉に、兵士たちの表情が変わり始めた。 「我々には失うものがない。しかし、得るものがある。この戦いに勝てば、我々は単なる『反逆者』ではなく、新たな『国』の礎を築く者となる」  兵士たちから驚きの声が上がった。「新たな国」などという言葉を、これまで龍承業の口から聞いたことがなかったからだ。 「南辰国は『皇道』を掲げ、西崑国は『自由と実力』を、東越国は『知と謀略』を理念としている。では、我々は何を掲げるのか」  龍承業は一瞬、俺の方を見た。俺と話した内容を思い出しているのかもしれない。 「我々は『再生』を掲げる。捨てられた者たちが、新たな国を作る。誰も見捨てられない国だ」  兵士たちの目が輝き始めた。 「明日の戦い、我々は単に楽安街を守るためだけに戦うのではない。我々の未来のために戦うのだ」  龍承業は拳を高く上げた。 「共に戦え! 共に勝て! 黒炎軍!」  兵士たちから歓声が上がった。「黒炎軍!黒炎軍!」という声が、広場を揺るがすほどに響き渡る。  俺は驚きと感動で言葉を失っていた。これはゲーム内では絶対に起きなかったシナリオだ。龍承業が「新たな国」を作ろうと宣言するなんて…… 「梁兄……総大将、本当に変わりましたね」  温修明の声が小さく震えていた。 「ああ……」  俺の目にも思わず熱いものがこみ上げてきた。  俺は感動で胸がいっぱいになりながら、龍承業の姿を見つめていた。彼はかつての冷酷な略奪者の頭ではなく、今や新たな国の礎を築こうとする指導者に変わっていた。「誰も見捨てられない国」——その言葉は、彼自身が南辰国に捨てられた過去を持つからこそ、重みがある。  演説が終わり、龍承業が台を降りると、兵士たちは自然と道を開けた。彼が通る道筋で、兵士たちは深々と頭を下げている。もはや恐怖からではなく、尊敬の念からだ。  途中、龍承業が俺の前で立ち止まる。 「どうだった」  彼は小声で尋ねた。 「素晴らしかったです。……本当に」  俺の声は感動で震えていた。彼は満足げに頷くと、そのまま夜の闇へと消えていった。

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