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第34話

 暗い。何も見えない。俺はどこにいるのだろう。 (ここは……どこだ?)  最後に覚えているのは、腹部に走った冷たい痛み。温修明を守るために体を挺したことで、南辰国の兵士の剣を受けたのだ。あの時の感覚が鮮明に蘇る。金属が肉を裂く音。体から急速に失われていく体温。そして、徐々に遠のいていく意識。 (俺は……死んだのか?)  その考えを受け入れるのは、思ったよりも簡単だった。この先には「梁易安」として生きるつらさから解放された、静かな安息があるのだろう。それはそれで、悪くない結末かもしれない。  しかしそう思った直後、暗闇の中に小さな光が現れた。それは徐々に大きくなり、形をなしていく。 「これは……」  見慣れた画面だった。『覇道演義』のコンティニュー画面。スマホゲームでいくつものステージをクリアしていた時に何度も見た画面。画面の中央には「CONTINUE?」という文字。その下には「YES」と「NO」の二つのボタンが浮かび上がっている。 「ゲームオーバーからのコンティニュー?」  まるで夢のようだったが、間違いなくそれはゲームの「続けますか?」の画面だった。そして、画面の下部には小さな注釈が書かれていた。 『コンティニューでNOを選択した場合、プレイヤーは元の世界に戻ります』  心臓が高鳴る。これは……もしかして俺が異世界に来る前の、佐倉遼としての世界に戻るチャンスなのか? ブラック企業は嫌だったが、少なくとも戦乱も飢餓も、死の恐怖もない世界。あの平和な日本に戻る機会が、今、目の前にある。 (帰れるのか……俺の世界に)  一瞬の躊躇もなく、NOを押すべきだった。そうすれば元の世界に戻れる。ブラック企業に勤めていた日々も、今思えば悪くはなかった。毎日同じ電車に乗って、同じオフィスに通い、残業して疲れて帰る。でも少なくとも命の危険はなかった。飢えることもなかった。ゲームの中の戦乱の世界よりはるかにマシだ。  しかし、俺の手は動かなかった。 (待てよ……本当に俺は帰りたいのか?)  脳裏に浮かぶのは『覇道演義』で過ごした日々の記憶。そこには温修明の笑顔があった。商業特区の賑わい。密かに協力してくれた玲蘭の姿。そして、何より―― (龍承業……)  あの漆黒の鎧に身を包み、冷酷無比と恐れられた男の姿が浮かぶ。最初は恐怖でしかなかった感情が、いつの間にか変わっていた。彼の強さの下に隠された悲しみ。表には出さない優しさ。そして最後に見せた、「新たな国」を作ると誓った姿。 「……俺はまだ、あいつの傍にいたい」  そのことに気づいた瞬間、答えは自然と決まっていた。俺は迷うことなく「YES」のボタンを押していた。 (現実に戻れるチャンスを捨てるなんて、頭がおかしいのかもしれない)  だが、その決断に後悔はなかった。 (……だってしょうがないじゃん。あいつのことが好きになっちゃったんだから)  そう自分に言い聞かせた瞬間、眩い光が俺の意識を包み込んだ。暗闇が割れるように広がり、光の波が押し寄せてくる。 「必ず、戻る――!」  俺の叫びが光に飲み込まれた。  ◆◆◆ 「……っ!」  目を開くと、見慣れた景色が広がっていた。青白い空。夕暮れの薄暗い光。そして焦げた木材と血の匂い。  俺はゆっくりと体を起こした。周囲を見回すと、さっきまでいた黒炎軍の本陣が遠くに見えた。だが、様子がおかしい。周囲には人影がなく、至る所に血痕が残っている。兵士たちの亡骸もそのままだ。 「ここは……俺が襲われた場所だ」  声を出すと、自分の声の調子が違うことに気づいた。何かがおかしい。特に手の感触が──  自分の手を見て、息を呑んだ。  これは……梁易安の手ではない。少し太く、しかし指は長い。爪の形も違う。でも、見慣れた手。間違いなく、これは…… 「俺の……佐倉遼の手……?」  震える手で自分の顔を触る。髪も違う。長く伸びた梁易安の髪ではなく、短い髪。頬はやや痩せて、顎の形も異なっている。これは間違いなく、転生前の「佐倉遼」の身体だった。 「どういうことだ……?」  コンティニューしたことで、元の身体に戻ってしまったのか? しかし、それなら『覇道演義』の世界にいるはずはない。まして、このような戦場の真っ只中に——  体を起こし、立ち上がるのに苦労した。腹部には痛みがない。致命傷を負ったはずだが、今の体には傷はない。代わりに、残業帰り特有の重い疲労感が全身に残っていた。 「修明……! 誰かいないのか?」  辺りに叫んでも、周りかにの返事はない。ここには俺以外、生きている者は誰もいないようだった。 (どれくらい時間が経ったんだ?)  遠くに目をやると、まだ黒炎軍の本陣らしき場所から煙が立ち上っていた。そして、そこにはまだ人の動きがあるように見える。黒炎軍はまだここにいるようだ。  俺は慎重に身を隠しながら、陣地の方へと歩き始めた。陣に近づくにつれ、生きた兵士たちの姿がちらほらと増え始める。  途中、木立の陰から黒炎軍の兵士たちの会話が聞こえてきた。 「あの夜襲は見事だったな。蘇清影の部隊を追い詰めたんだってよ」 「そう、龍将軍自ら先陣を切って突撃し、南辰軍の後方を切り崩したそうだ。蘇清影との一騎打ちまであったらしい」 「結局は勝ったんだよな? なら、なぜ将軍はあんなに怒っているんだ?」 「貴様は知らないのか? 将軍が前線に出ている隙に、南辰の別動隊が裏から回り込んで本陣を襲撃したんだぞ」  俺は耳を澄ませた。どうやら龍承業は予定通り夜襲隊を率いて出陣し、蘇清影との戦いに勝利したらしい。しかし、その隙に俺たちがいた本陣が敵の奇襲を受けたというのだ。 「奴らは森の裏手にある川を船で下り、森の裏側から回り込んできたらしい」 「おそらく森の中に伏兵を潜ませるためだろうな。しかし、それで偶然に敵の本陣を見つけてしまうなんて、南辰の奴らにしては珍しい幸運だったな」 「まぁな。でも俺たちは運がよかったよ。本陣は夜襲のためにほとんどの兵が出払っていて、被害は最小限で済んだんだから」  その言葉に、兵士たちが小さく笑い合う声が聞こえた。そして一人が続けた。 「でも、あの梁易安という奴は死んだというな」 「ああ……あの軍師だろ? 将軍のお気に入りだったらしいな」 「あいつ、最後は温修明って商人を庇って死んだらしいぞ。なんだか勿体ないな」 「その商人は生き残ったのか?」 「ああ。泣き叫びながら梁易安の体を抱えていたそうだ。……なんだか気の毒だよ」  俺の胸が締め付けられた。温修明は無事なのか。彼が生きていると知って安堵したが、一方で自分のせいで彼を傷つけてしまったことに後悔が押し寄せる。 「でもさっきから将軍が怒り狂ってるからな。もう誰も近づけないらしい」 「誰かを責める必要があるのだろう。……あいつは将軍の寵愛を受けていたからな」  兵士の言葉に、自分の顔が熱くなった。噂は既に下級兵の間にまで広まっていたようだ。だが今は、それどころではない。とにかく龍承業に会いたい。だが、この姿では――  そんな思いを抱えながら、慎重に陣地の方へと向かった。  ほどなく黒炎軍の陣地が見えてきた。多くの兵士や負傷者でごった返している。兵士たちの顔は疲れ切っており、勝利の高揚感もない。あちこちで呻く負傷者の声が聞こえる。  そんな緊張した雰囲気の中で、突然、怒号が響き渡った。 「貴様らの不手際で梁易安が死んだのだ! 言い訳など無用!!」  その声を聞いた瞬間、体が震えた。龍承業の声だった。彼は明らかに激怒しており、周囲の兵士たちを威嚇していた。  木の陰から覗くと、広場の中心に龍承業の姿があった。彼は漆黒の鎧に身を包んでいるが、所々に亀裂が入り、血が付着している。戦いの余波だろう。だが、その体には疲労の色は見えず、むしろ激しい怒りで全身が震えているようだった。 「守れなかったのなら死ね!!」  彼の槍が兵士に向かって振り下ろされようとしていた。その瞬間、別の影が間に割って入った。 「総大将! お気持ちはわかりますが!!」  郭冥玄だった。彼は龍承業の槍を受け止めようとしたが、その威力に耐えきれず、地面に膝をつく。それでも必死に龍承業を止めようとしていた。 「ほかの者に罪はありません! 敵の奇襲は予測不能でした!」 「黙れ!! 守れなかったならその命で償え!!」 「お願いします! 落ち着いてください!!」  龍承業の視線の先には、俺の――梁易安の遺体が横たわっているのが見えた。その周りには数人の兵が立っている。そして一人、その体を抱きかかえて泣いている若者がいた。 「修明……!」  心の中で叫んだ。あの姿は間違いなく温修明だった。彼は生きていた。だが、その表情には深い悲しみが刻まれている。  龍承業はやがて投げやりな動作で槍を下ろした。しかし、その目には未だに激しい怒りと、言いようのない悲しみが混ざっているように見える。 「あいつに……あいつに勝利を約束したのに……俺がいない隙に……!」  龍承業の言葉が、風に乗って届く。彼の声は怒りだけでなく、明らかな悲しみを含んでいた。一度も見たことのない、彼の弱さが露わになっている。 「遼……」  彼が俺の名前――本当の名前を小さく呟いたのが聞こえた気がした。その瞬間、駆け寄りたい衝動に駆られた。自分の正体を告げ、生きていると伝えたい。だが現実的に考えて、今の姿では誰も信じないだろう。  痛みを抱えながら、俺は立ち尽くした。遠目に見ても、龍承業は取り乱していた。黒炎軍を率いる最強最悪の将軍と恐れられていた男が、俺のために怒り、悲しんでいる。その姿を見て、胸が張り裂けそうになった。 「あいつのために、俺はこの世界に戻ってきたのに……」  しばらくの間、ただその場に立ち尽くす。龍承業が少し落ち着いてきたところで、郭冥玄が慎重に話しかけた。 「……総大将、これからどうされますか?」  龍承業は長い沈黙の後、低い声で答えた。 「進軍する。南辰国本土まで攻め込む」 「しかし、我々の兵力では」 「知っている。だが、そうでなければ……あいつに報いることができない」  龍承業の声には決意が滲んでいた。彼は梁易安の遺体に近づき、一瞬だけ手を伸ばしたが、すぐにその手を引っ込めた。そして背を向け、陣営の中心へと歩き始めた。  俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。何と言えばいいのか、どうすればいいのか分からなかった。現在の姿では近づくことすらできない。まずは状況を理解し、そして龍承業に会える方法を考えなければ。 「……必ず戻ってくるから」  そう呟きながら、俺は黒炎軍の陣地から離れていった。心の中には龍承業への思いと、これからどうするかという不安が入り混じっていた。

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