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第35話

「お買い上げありがとうございます!」  屋台の前に立ち並んだ女性から銅貨を受け取りながら、俺は明るい笑顔を向けた。 「いつもありがとね、佐倉さん。あんたの売る絹はいつも質がいいわ」 「そりゃあもちろん! 仕入れにはうるさいんですよ、俺」  表面上はこんな風に笑顔を振りまいているが、内心はまったく別のことを考えていた。 (いつまでこんな場所にいるんだろう、俺……)  商売の基本は笑顔と誠実さ。元・ブラック企業営業マンの俺が楽安街で身を立てられているのは、前世のスキルが役立っているおかげだ。でも正直言って、俺の心はすでにこの街を離れていた。  あの戦いから早くも三ヶ月が経過した。  南辰国軍との戦いで、俺は戦死した。いや、正確には「梁易安」が戦死した。だけど俺がコンティニューを選択したその瞬間、どういうわけか元の身体──佐倉遼の身体に戻ってしまった。 「まるで周回プレイだよな。……ただし、装備引き継ぎなし仕様の」  俺は懐から古びたスマートフォンを取り出した。このスマホは、佐倉遼としてこの世界に転生した直後から持っていたもので、唯一の便利アイテムだ。スマホの画面には、以前のステータスウインドウと同じような表示がされていた。 「ステータスは相変わらず微妙だよなぁ……」  佐倉遼  レベル:18  年齢:26歳  職業:流れの商人  特技:交渉術、商品鑑定、物資調達  戦闘力:18/100(低い)  知力:65/100(平均的)  カリスマ:72/100(やや高い)  幸運:56/100(普通)  所持金:銀貨142枚 「戦闘力は下がってるし……相変わらず、何の役にも立たないゲームスペックだわ」  自嘲気味に笑いながら、俺はスマホを仕舞い、再び商品の整理に戻った。  それにしても、一文無しからここまで復活させたなんて、自分でも驚きだ。  佐倉遼の身体に戻った時、俺の手元にはほとんど何もなかった。ろくな服もなく、近くの兵士の死体からいくつか銅貨を拝借させてもらうことで飢え死にはしなかったけど、それでも最初はかなりヤバかった。  最初の二週間は、まともな住処もなく、市場の片隅で寝泊まりしていた。日中は荷物運びの日雇い仕事を探し回り、夜は商人たちの残り物をもらって食いつないだ。雨の夜は特に辛かった。屋根のある場所を探して、ずぶ濡れのまま震えながら夜を明かしたこともある。  でも、絶望的な状況でもある種の強みはあった。それは「楽安街での商業特区計画」を自分自身が設計したという事実だ。この街を活性化させた制度の穴や特徴を知り尽くしているからこそ、効率よく金を稼ぐことができた。  俺は最初に集めた銅貨で、西崑国から輸入された安い絹を少量だけ仕入れた。それを市場の一等地ではない、人通りの少ない路地で少し高めの値段で売り始めた。品質の良さを強調し、ターゲットを比較的裕福な層に絞ったのだ。 「佐倉さん、今日はどんな絹を持ってきてくれたの?」  常連の奥方が俺の屋台に近づいてきた。俺はにっこりと微笑みながら、仕入れたばかりの絹を広げた。 「今日は特別な品をご用意しました。西崑国の|金蓮街《きんれんがい》で作られた最高級の絹です。通常の物より一割ほど値は張りますが、その分耐久性も美しさも段違いですよ」  実際には「最高級」とまでは言えない品質だったが、俺の口上と見せ方でずいぶん価値が上がる。前世の営業スキルがここでも活きていた。  そうやって一ヶ月ほどが経ち、俺は少しずつ楽安街での地位を築いていった。商人登録も済ませ、「佐倉」という名の商人として公式に認められた。安い部屋を借り、少しずつ商品の種類も増やしていった。  当然ながら梁易安時代に作った人脈をそのまま使うわけにはいかなかったので、一から信頼関係を築き直す必要があった。だから意識的に「親切で誠実な外国人風の商人」として振る舞い、少しずつ固定客を増やしていった。 「佐倉さんの商品は信頼できるね。ほかの商人と違って誠実だからね」 「あんたみたいな正直な商人は珍しいよ」  そんな言葉を聞くたびに、ちょっと罪悪感を覚えた。実際には「佐倉」という名前以外は全部作り話だったからだ。俺が「東の海の向こうから来た商人」なんて設定は完全な虚構だし、「家族は海難事故で失った」というのも同情を買うための作り話だ。  しかし、こうした努力の甲斐あって、今では小店ながらも、楽安街の流通業者として一定の信頼を得るまでになれた。自分の屋台も持ち、商品の仕入れルートも確保し、毎日安定した収入を得られるようになった。  それでも、心の奥底では常に焦りを感じていた。 (早く行かなきゃ、龍承業の元へ……)  市場を行き交う人々の会話が耳に入ってくる。 「黒炎軍の総大将、また抵抗する村を焼き払ったって噂だよ」 「あぁ、またかい……あいつらがここを出て行ったのは祝福すべきことだったな」 「国作りだなんて言ってたけど、結局はただのならず者の集団のままだったってことだ」  心臓がズキンと痛んだ。 (龍承業……彼は今、どうしているんだろう)  黒炎軍は南辰国軍との戦いの後、本拠地を楽安街から移してしまった。今は西崑国との国境近くの城塞都市・玄武城(げんぶじょう)を拠点にしているらしい。進軍し続け、さらに勢力を拡大している。  それ自体は悪くない展開なのだが、問題は龍承業の様子だった。あちこちから聞こえてくる噂によれば、彼はまるで鬼神のように暴れまわっているらしい。かつてないほどの殺戮を繰り返し、誰も止められないという。 「龍承業……」  思わず胸に手を当てた。あの夜、龍承業と交わした約束、あの優しい眼差し、あの温かい腕の中で感じた安らぎ。すべて梁易安として過ごした日々なのに、今でも鮮明に覚えている。  身体は変わっても、心は変わらない。俺は静かに拳を握りしめた。彼のことを思うと、胸が締め付けられるような痛みを感じる。龍承業のことが好きだ。それは間違いない。 「梁易安の死が彼をあんな風に変えてしまったんだな……」  小声で呟きながら、俺は仕入れた商品を整理しながら、思考を巡らせた。 「三ヶ月の準備期間でようやくここまで来たんだ。……もう十分だろう」  俺は黙々と銀貨を数えた。いくら節約しても、最低でも百枚の銀貨は必要だった。馬の購入費、道中の宿代、食料費、そして万が一に備えた護身用の武器まで。すべて計算済みだ。 「早くしないと、このままじゃマズいからな……」  俺はゲーム内の流れを知っている。このまま進めば、龍承業は近い将来「|蒼空原《そうくうげん》の戦い」で三国同盟軍に敗れ、命を落とすことになる。それはゲーム内の「黒炎軍ルート」の標準エンディングだった。  彼を助けたい。彼を守りたい。そのために俺は三ヶ月間、ひたすら金を貯めてきた。幸いにも商売で得たお金は、玄武城までの旅の準備をするには十分だった。 「明日こそ出発だ」  俺は決意を強めた。ただ、一つだけ懸念があった。 「佐倉遼」という見知らぬ男が黒炎軍の総大将に接触しようとすれば、即刻処刑されるかもしれない。これは現実だ。龍承業にとって「梁易安」は死んだ。俺はもう彼のお気に入りの軍師ではない。ただの見知らぬ男だ。  嘘をついて近づくべきか? それとも素直に真実を話すべきか? もしかすると、「転生した」なんて言ったら狂人扱いされるかもしれない。 (それでも、俺はあいつに会いたい……)  頬が熱くなるのを感じた。彼と過ごした日々、あの強くも優しい腕に抱かれた感触、唇の柔らかさ、すべてが体に刻み込まれている。 (彼を救いたい。あいつを一人にはさせたくない)  市場の中で、俺は静かに決意を新たにした。  元の関係に戻れるとは思っていない。もう二度と彼に「梁易安」だったころのような態度は期待できないだろう。下手をすれば殺されるかもしれない。それでも、彼の下で働きたい。彼の力になりたい。彼の側で、彼を守りたい。  どんな立場でもいい。以前のような軍師の地位など望まない。単なる兵卒としてでも、商人としてでも、彼の近くにいられるなら。 「きっと……きっと会えるよな、龍承業」  最後の商品を片付けながら、俺は旅立ちの準備を心に誓った。

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