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第41話
蒼空原の戦いから数週間が経った。
玄武城の中央にある商人街は人で溢れかえっていた。勝利の余韻に浸る兵士たちが、久しぶりに自分のために何かを買おうという気持ちになったのだろう。もちろん、完全に戦争が終わったわけじゃない。だが、あの「負けるはずだった戦い」に勝利したことで、兵士たちの表情に生気が戻ってきていた。
「いらっしゃい、上等な薬材だよ! 疲れた体にはこれが一番!」
俺は店の前に立ち、通りを行き交う人々に声をかける。今の俺は佐倉遼、一介の商人だ。小さな露店を構えて、主に薬材や日用品を売っている。
「へえ、これが噂の『栄養ドリンク』ってやつか?」
「ああ、飲めば疲労回復、24時間戦えるぜ。一人に一つは持っておいて損はない」
兵士が興味を示したので、俺は商人らしく軽快に商品の説明をする。この手の会話は前世でのサラリーマン時代の経験が役立っていた。相変わらず、俺の営業トークは異世界でも通用するらしい。
兵士が薬を買っていき、俺は銅貨を鞄に入れる。
──あの日から、随分と状況が変わったものだ。
あの日、俺は龍承業と再会し、この世界の未来について知っていることをすべて彼に伝えた。もともとプレイしていたゲームでは、蒼空原の戦いで黒炎軍は壊滅的な敗北を喫することになっていた。だから俺は、龍承業に敵軍の動きや配置、使ってくる戦術までをできる限り詳しく伝えた。
俺の話を聞いて、龍承業は作戦を根本から見直すことにしたらしい。当初予定していた積極的な進軍作戦から、徹底的な防御作戦へと方針を転換したのだ。
「あの戦い、ほんと凄かったよなぁ」
思わず呟いてしまう。もちろん、俺自身は実際の戦場には出ていない。あくまで「情報提供者」として後方に留まっていただけだ。だが、俺が事前に教えておいた敵の伏兵の位置を黒炎軍が突き、逆に奇襲をかけたときの士気の高まりは遠く離れた城壁の上からでも感じられた。
最終的に、三国同盟軍は撤退していった。壊滅的な打撃を与えることはできなかったが、それでも「絶対に負けるはずだった戦い」に勝ったのだ。少なくとも、玄武城が陥落するという最悪の結末は避けられた。
(でも、今の俺はもう軍師じゃない)
そう、今の俺は佐倉遼だ。梁易安としての記憶は持っているが、もう彼の人生は歩めない。
そのため、今は城内で許可を得て、こうして商売をしているだけの男だ。ゲームの知識を活かして、薬や装飾品を仕入れて売っている。これが俺には合っている気がする。
もちろん、油断はできない。三国同盟は健在だし、これからも戦いは続くだろう。だが、行き交う兵士たちの顔を見ていると、あの絶望的な空気はすっかり消えていた。代わりに、「次は俺たちが攻めてやる」という自信すら感じられる。
正直、これだけでも十分だ。俺の知識が少しでも役に立ったなら、それで満足している。
「佐倉さん、今日も商売繁盛ですね」
ふいに声をかけられて顔を上げると、温修明が立っていた。彼は穏やかな表情で、俺の店の品物を眺めている。
「よう、修明! 久しぶりだな」
「ひどいなぁ、三日前にも来たじゃないですか」
「あ、そうだっけ? 忙しくて日にちの感覚がなくなってたよ」
温修明は私の店の商品を物色し始めた。彼の目が女性向けの装飾品に留まるのに気づいて、俺はニヤリと笑った。
「おや、また装飾品を見てる。玲蘭様へのプレゼント?」
温修明の顔が見る見る赤くなった。
「ち、違いますよ! 単なる……調査です。軍の女性将校への支給品を検討してて……」
「へぇ~? 支給品がこんな高級品? しかも前回買ってたの、玲蘭様の髪に超似合ってたよね~」
「もう、佐倉さんってば!」
彼は真っ赤な顔で抗議したが、その目はどこか幸せそうだった。温修明と玲蘭の関係は、軍内では有名な噂だ。あの恐ろしい「黒妖妃」が温修明の前だけは別人のようになるという。
「じゃあ、今日はこの紫色の髪飾りにします」
「やっぱりプレゼントじゃないか~」
温修明は商品を手に取りながら、俺をじっと見た。
「むぅ……そういう佐倉さんこそ、龍将軍とはどうなんですか?」
「ど、どうってどういう……」
「毎晩のように将軍の居室に呼ばれてるって噂、本当ですよね?」
「うっ……」
温修明はクスクスと笑った。
「お返しです、いつも僕を冷やかすからですよ」
俺は苦笑いしながら首を振った。
「やられたな……」
温修明は商品を受け取りながら、少し真剣な表情になった。
「佐倉さんって、本当に不思議な人ですよね」
「何が?」
「佐倉さんが来てから、龍将軍が変わりました。まるで……梁兄がいた頃のように」
彼の言葉に、俺の心臓がドキリとする。
「そ、そうかな?」
俺は返答に困った。温修明はなんとなく気づいているのかもしれない。俺が「梁易安」となにか関係があることを。でも彼はそれを口にしようとはしなかった。
彼が去った後、少し複雑な気持ちになる。温修明は察しがいい。だが、それをみだりに追及しない配慮も持ち合わせている。ありがたいことだ。
しばらくして、また別の顔見知りが店にやってきた。郭冥玄だ。彼は龍承業の側近であり、俺が梁易安だった頃は命を狙われたこともある相手。
そんな彼は今は頭を抱えるようにして、疲れた表情で俺の店の前に立っている。
「久しぶりだな、郭冥玄」
俺が笑顔で声をかけると、郭冥玄は自身の頭を押さえながら尋ねた。
「佐倉。頭痛の薬はあるか?」
「ああ、ちょうどいいのがあるよ。相当疲れてるみたいだな」
郭冥玄は深いため息をついた。
「軍の仕事は山積みだ。特に蒼空原の戦い以降、将軍様が冷静さを取り戻されてからというもの、私の仕事が倍増している」
彼は薬を受け取りながら、愚痴をこぼした。
「将軍様が冷静になったのなら、いいことじゃないか」
「確かにな。将軍様が以前のように冷静に判断し、私たちの進言にも耳を傾けてくださるようになったのはありがたい。だが、それによって検討すべき策が増え、準備すべき書類も増えた。何より、策を考える軍師が圧倒的に足りていない」
郭冥玄の顔には疲労の色が濃く出ていた。過労死ラインを超えているんじゃないかと心配になるほどだ。
「大変だな……」
「ああ。……そういえば、蒼空原の戦いで黒炎軍に的確な、まるで未来を予知するかのような軍策を授けた者がいるらしい。そいつが誰なのか、私は知りたくてたまらない。どんな手を使っても絶対に自軍にスカウトしたいものだ」
郭冥玄は俺をじっと見た。彼も気づいているのだろうか?
いや、たぶん彼は気づいていないだろう。そして、できればこのまま気づかないでいてほしい。下手に感づかれたら、まず間違いなく社畜軍師コースに引きずり込まれてしまうだろう。それは避けたい。
「もしそれらしい人物が見つかったら、教えてくれ」
郭冥玄の言葉に、俺はわざとらしく笑った。郭冥玄は頭痛薬を手に、よろよろとした足取りで立ち去っていく。あの調子じゃ、すぐに倒れるんじゃないだろうか。少し心配だ。
そうやって客の相手をしているうちに、あっという間に時間が過ぎていく。俺が店じまいの準備を始めた時、背後から何者かの気配が近づいてきた。
「──遼」
後ろから聞こえる低い声。振り返ると、龍承業が立っていた。彼の表情は厳しく、明らかに何かに怒っている様子だ。
「あれ、龍将軍。今日は何かお買い物ですか?」
明るく応じたが、彼の怒りはおさまる気配がない。
「城内でこのような商売をしていたとは聞いていない」
「え、許可は取ってるよ? 郭冥玄に相談して、ちゃんと手続きも……」
「それが問題ではない」
龍承業は俺の腕を掴み、露店から引っ張り出した。
「ちょ、お客さんが来るかもしれないのに!」
抗議する俺を無視して、龍承業は自分の居室の方向へと歩き始めた。周囲の兵士たちが、好奇の目で俺たちを見ている。
「あれって、佐倉遼って商人だよな?」
「ああ、出自も経歴も謎の外国人さ。でも妙に将軍に気に入られてるらしい」
「なんとなく、あの梁易安と雰囲気が似てるよな……」
「誰だろうと、とにかく将軍が穏やかで機嫌よくいてくれたらそれでいいよ」
兵士たちのひそひそ声が聞こえてくる。本人の目の前で噂話をするなんて、ちょっとあきれるな……。
龍承業の居室に着くと、彼は扉を閉め、俺をじっと見つめた。
「なぜ軍に戻ってこない?」
「はあ。また、その話?」
龍承業は何度も俺に軍師として軍に戻るよう言ってきた。だが、俺の気持ちは変わらない。
「俺はもう梁易安じゃない。佐倉遼だ。軍師じゃなくて、商人として生きていきたいんだ」
「だが、お前の才能は……」
「才能じゃなくて、単に未来を知ってるだけさ。そして、その知識はちゃんと全部伝えたじゃないか。これからは郭冥玄を始め、本職の人たちに任せるべきだよ」
龍承業は不満そうな表情を浮かべた。
「俺は軍師としてはダメだよ。商人の方が性に合ってる。それに、情報が必要なら、いつでも相談に乗るって言ってるだろ?」
龍承業は深いため息をついた。
「わかった。お前がそういうのなら、それ以上は強要しない」
思ったよりあっさりと引き下がった龍承業に、少し拍子抜けする。しかし、彼はすぐに続けた。
「だが、それはそれとして、もう少し俺と会う時間を増やせ」
「え?」
「最近、お前は忙しそうで、俺のところにはほとんど来ない」
龍承業の声には、明らかに嫉妬心が混じっていた。思わず吹き出しそうになる。
「なんだよ、寂しかった?」
冗談めかして言ったつもりだったが、龍承業は真剣な表情で頷いた。
「ああ、寂しい」
その素直な告白に、俺は言葉を失った。なんだか胸がキュッと締め付けられる感覚。この男は、こういうときだけ妙に正直なんだよな。
「そ、そう……。じゃあ、もう少し顔を出すようにするよ」
「よかろう。約束を違えるなよ」
龍承業は俺の肩に手を置いた。その温もりが、妙に心地よい。
龍承業は俺を引き寄せ、強く抱きしめた。彼の胸の中で、俺はようやく安らぎを感じた。蒼空原の戦いも、三国同盟の脅威も、今はどこか遠くの話のように思える。
今この瞬間、俺たちはただ二人だけの時間を過ごしている。明日への戦いはまだ続くだろうけど、少なくとも今日は、この腕の中で休むことができる。
「……もう少しだけ、ここにいろ」
「はいはい、わかったよ」
俺はそう答えて、彼の胸にさらに身を寄せた。
この世界での「佐倉遼」の新しい物語は、まだ、始まったばかりだ。
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