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第1話 再会した親戚は、キス魔になっていた

 有馬 奏汰(19)はダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、ぼんやりとテレビの画面を見つめていた。  グラスには炭酸飲料と氷がたっぷり注がれ、外の猛暑はまるで別世界の出来事のように感じられる。  頭上からはエアコンの冷たい風が吹き付け、まさに夏休みの唯一の救いだった。  だが、この家は正直、居心地が良いとは言えなかった。  夏の帰省シーズン、両親は仲良くハワイ旅行へと出かけてしまい、東京での合宿を終えたばかりの彼は、家族の事情で遠縁の親戚の家に「預けられる」ことになっていた。  実際には、家での生活費や学費のことで両親と激しく言い争い、もう頼るあてもなくなった有馬は、仕方なく義理の叔母に助けを求めたのだった。  叔母は快く受け入れてくれたものの、自分の息子のところに預けるほかなかった。  廊下から足音が響き、間もなくドアが開いた。玄関から男の声が聞こえてくる。 「奏汰、冷蔵庫のプリン食べていいよ。今日は甘いものの気分じゃないし」  その男――一ノ瀬 航は、件の「遠縁の親戚」である。二十六歳、職業は営業マン。 幼い頃に何度か会ったらしいが、有馬にはまったく記憶がなかった。  スーツの上着を脱いでキッチンに入ってきた一ノ瀬のネクタイは緩く首にかけられ、手にはコンビニの弁当が二つ。  少し疲れた表情を浮かべながらも、どこか柔らかな雰囲気を纏っていた。  彼は弁当をキッチンカウンターに置くと、ネクタイを外して深く息をつき、冷蔵庫からプリンとホイップクリームを取り出した。  慣れた手つきでプリンの蓋を剥がし、その上にたっぷりとクリームを絞る。そして引き出しからスプーンを取り出し、リビングへ運んで有馬の前に置いた。 「これは航のって約束したやつ?」 「あんたの食べ残しなんて、いらないし」  愛想よくするタイプではないが、有馬は約束は守る性質だった。 「じゃあ、俺が食べさせてあげよっか?」  一ノ瀬はそう言って笑いながら、スプーンですくったプリンを有馬の口元へと差し出す。  もう一方の手はテーブルに突かれ、長くしなやかな指が目に入った。 「ちょ、近いって!汗臭いよ!!」  真っ赤になった有馬は思わずのけぞり、頬がスプーンの縁にかすった。身体の勢いで椅子がギィと軋み、バランスを崩しそうになる。  汗臭さがどうこうというより、部活の練習中は自分だって汗まみれになる。 だからこそ、汗の酸っぱい匂いには人一倍敏感だった。  一ノ瀬は素早く彼の背後の椅子を支え、そのまま身をかがめて視線を合わせる。疲れたような笑みを浮かべながら、優しく囁いた。 「動かないで、奏汰。クリーム、顔についてるよ」 それはまるで子供をあやすような声音だった。 「つ、ついてないし……触んなってば――!」  有馬の抗議も虚しく、次の瞬間、一ノ瀬は親指でそっと唇の端を拭い――そのまま、わざとらしく、指先に触れたその場所に唇を寄せて、そっと触れた。  それは、キスとは呼べない。ただただ、妙にくすぐったくて、曖昧な空気を含んだ動作だった。 「なっ――!」  有馬の耳がぱっと赤く染まり、狼の子のような目で警戒と混乱を滲ませながら跳ね起きる。 「親戚同士でキスくらい、犯罪じゃないだろ?」  一ノ瀬はウィンクしながら言った。 「それに、昔はよくキスして遊んだじゃん?」  飄々とキッチンに戻り、何事もなかったかのように弁当を運んできてテーブルに着く。  一ノ瀬は弁当の蓋を開けながら、有馬を軽くからかう。  「ほら、早くプリン食べないと、またキスしちゃうよ?」 「お前、絶対親戚じゃないよな!こんな変態のとこに預けるとか、うちの親どうかしてるって!それに……」  有馬の声がふと小さくなった。 「……ほんとに、そんなキスした記憶なんか、ないし……」 「それは君が忘れてるだけ。当時、君はまだ四歳だったからね。俺も十一だったし」  一ノ瀬は割り箸を割りながらぽつりと呟く。 「――あ、ビール忘れた」  そう言ってまた立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出す。  戻ってくる途中でもぶつぶつと喋り続けていた。 「仕方ないじゃん。君のお父さんが、『最近の奏汰は反抗期で困ってるから、落ち着いた大人に見てほしい』って言ったんだから」  再び席に戻ると、「プシュッ」という音とともに缶を開け、へらっと笑う。 「俺、けっこう適任じゃない?」 「どこがだよ!」  有馬は奥歯を噛み締めて睨みつける。 「全然落ち着いてなんかないっつーの!」  その抗議に、一ノ瀬はくすっと小さく笑って、言葉を返さなかった。  夕食後も空はまだ明るく、蝉の声がマンションの下の木々から響いていた。  有馬はベランダの柵に肘をつき、アイスを咥えたまま黙っていた。夕焼けに照らされた丸い頭は、まるで拗ねた子犬のように見える。  引き戸の音がして、一ノ瀬が隣に並ぶ。肩が触れそうな距離だ。 「ホームシック?」  横目でそう尋ねられ、有馬はそっぽを向いて鼻を鳴らす。 「なってないし」  耳の先がうっすら赤く染まっているのを、一ノ瀬は見逃さなかった。 「素直に甘えたいのに、意地張ってる顔だね」 「な、何言ってんだよ……!」 「じゃあ、さっきのキスはノーカウントってことでいい?」  そう言って一ノ瀬の指先が、有馬の頬にそっと触れる。  頭が真っ白になり、アイスが落ちかける。 「ま、またキスしたら……通報だからな!」  一ノ瀬はぴたりと動きを止め、口元に微笑を浮かべた。目元は、夕風のように穏やかで、有馬はその視線を直視できずにうつむく。  そして――  彼はゆっくりと、急かすでもなく近づき、鼻先が頬に触れるほどの距離で囁いた。 「じゃあ、やめとく」  しかしその一秒後、有馬が気を抜いた隙をついて――一ノ瀬の唇が、そっと額に触れた。  それはあまりにも軽く、あまりにも短く、ちょうど通りすがりの風のように、前髪を揺らすだけで痕跡を残さなかった。 「ば、バカ……!」  有馬は低くうめくように罵りながらも、目の奥が熱くなるのを堪えていた。  一ノ瀬は彼を見つめ、ふっと優しく笑って、ぽんとその後頭部に手を乗せる。 「――じゃあ、次は奏汰のほうからキスしてくれる?」 「……う、うるさいっ!」  食べ終わったアイスの棒で一ノ瀬の腕をつつきながら、有馬は顔が真っ赤に染まっているのを必死に隠そうとしていた。 ✨️次回更新はまもなく.....

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