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第4話 一緒に
泣き喚く瑞穂を見つめながら、俺は何も答えられずにいた。と言っても、言葉が出ないというわけではなく、腑に落ちないことがあったからだ。
噛まれると死ぬかもしれない病気になってしまったから、それをこっそり治してから俺の元へ戻りたかったと言っていたのは理解出来る。でも、今それは治りきっていない状態らしい。それなのに帰ってきた。俺が噛まずにいられなくなると分かっているのに、だ。
もし俺が噛んであげたとして、その後にそれが原因となるような亡くなり方をしてしまったら、俺が気にすることも予想していた。俺が知っている瑞穂なら、その事態になることを防ぐために、実家に篭っているんじゃないだろうか。もし実家に戻れない理由があったとしても、ここへは戻ってこないだろう。
それなのに、今その矛盾を抱えたままで瑞穂はここにいる。それはどうしてなんだろうか。俺にはそれが分からない。
「瑞穂、本当はどうして欲しいんだよ。噛まれたいけど、噛ませるわけにはいかないって思ってるんだろう? それなら、距離を置くしかないじゃないか。それとも、俺が口輪でもする? でも、気が狂いそうになるってことは、俺以外に噛ませたりする可能性だってあるってことじゃ……」
「……あるかもしれない」
瑞穂は涙に濡れた声でそう言うと、静かに俯いた。確かにその可能性はある。再開するまでは、お金を払ってそうしてくれる人を雇っていたくらいなんだ。俺に噛ませるのが怖いのだとしたら、また誰かを雇ってそうしてもらうかもしれない。
でも、あれから六年経っている。この六年間は、瑞穂を噛んでいたのは俺だけだ。そして、恋人としてそばにいたのも俺だ。その大切な人の肌に他の誰かの歯が当たる……そんなこと、考えるだけで気が狂いそうだ。
もちろん、瑞穂だって同じ気持ちなのだろう。引き絞られたように悲痛な声で、
「それだけは、嫌なんだ」
と呟いた。
ボロボロとこぼれ落ちる雫と共に顔を上げ、俺に向かって懇願するような目を向けている。噛ませたくはない、でも、他の人には噛まれたくない。かといって、噛んでもらうことを我慢することも出来ないと思っている自分に、呆れているのだろう。頭を抱える瑞穂を見ていると、胸に鋭い痛みを感じた。
「直輝、頼みがあるんだ」
瑞穂はそう言うと、俺の頬を両掌で包み込んだ。そのすらりと長い指を俺の唇に当てがい、くっと少しだけ押し付ける。その感触を楽しんでいるかのように、数回それを繰り返した。そうしながら、彼は眉根を寄せて苦しげな呼吸を繰り返している。
「もう既に気が狂いそうなんだ。これが進むと、僕は叫びながら暴れ始める。目につくものを破壊して、手が血まみれになっても止まらない。何度かそんなふうになったことはあったんだ。でも、今度そうなったらそれが原因で死んじゃうかもしれない。だから、そうなる前に……」
そう言って、片方の手で俺の唇を割り開き、もう片方の手で前歯をカツンと叩いた。歯に爪が当たって響く硬質な音が、俺の歯の健康さを物語る。それに肉を潰される喜びを知っている体が、瑞穂の頬を赤く染めていった。
「噛んで」
そう言って、ふわりと笑った。
「正直、どうなるかは分からない。でも、どうしても僕は噛まれたがると思うんだ。ただ、他の人には絶対に噛まれたくない。だから直輝、この歯で思い切り噛んで欲しいんだ。そして、賭けに負けた時は、僕を幸福なまま死なせてほしい」
「瑞穂……」
いつの間にか瑞穂は俺の手を握りしめていた。その手は震えている。それでも、表情はすっきりと明るく見えた。きっと帰ってくるまでに悩み尽くしていたのだろう。涙を流してはいるものの、言いたいことを言い切ったことに満足しているようだった。
でも、俺の気持ちはついていけていない。一人で納得しきっている瑞穂のように落ち着いていることは出来ない。彼の手首を掴んでその体を引き寄せると、力の限り抱きしめた。
「俺はお前を噛んで死なせてあげないといけないのか? 俺、お前がいないと生きていけないって言っただろう? それなのに、俺にお前を終わらせろって言うのか? ……そんなの酷いじゃないか。それに、お前が言ったんだぞ? そうなったら、俺が気にしてしまうって、それが嫌だって。それなのに、なんでそんなことを言うんだ。矛盾してるだろ?」
俺は必死だった。他の人に瑞穂を噛ませたくはない。でも、だからと言って、自分が噛んだことで瑞穂が死んでしまうのも嫌だった。何も選べず、どうすることも出来ない。それなのに、瑞穂だけが心を決めているような気がして、焦っていた。
「僕は直輝に噛んで貰うと、ただの快楽だけじゃなくて、心からの幸福を感じることが出来るんだ。だから、もし噛まれて死んでも悔いはない。その気持ちの中で終わりたい」
「そう言ってくれるのは嬉しいよ。でも、俺は一人で残されてどうすれば……」
そう問いかけた俺の目を、瑞穂の目が射抜いた。その不思議な魅力に思わず目を奪われてしまう。そこには、驚くほど凪いだ空間が広がっていた。
瑞穂にとって、俺はそれほどどうでもいい存在だったんだろうか。自分が幸せに死ねるなら、俺のことなど気にもならないということなんだろうか。そう思って落ち込みそうになっていると、ぐっと襟首を引っ張られた。完全に気を抜いていた俺は思わずバランスを崩してしまい、床へ倒れ込んでしまった。
「直輝」
瑞穂が俺の上に跨る。俺の襟首を掴んだまま、涙まじりのキスを落とした。
「僕と、ずっと一緒にいてくれない?」
唇を重ねたまま、そう問いかけられる。一瞬理解が及ばずにその目を見つめると、さっきまで凪いでいた瞳の中には、追い詰められた人間の狂気が宿っていた。
「僕と、ずっと」
それを見てようやく理解した。瑞穂は俺たちが離れずにすむ術を手に入れているんだろう。
「一緒に、いてくれる?」
俺はその申し出を受け入れることにした。ただ、言葉を返すのはどうしても恐ろしくて出来なかった。だから、何も答えずにただ彼を抱きしめた。
「んっ……」
そして、出来るだけ優しく、丁寧に深く唇を重ねた。
「あっ、んンっ……」
ゆっくりと肌を触れ合い、その形をお互いに確かめ合った。
「あっ、はあっ……、ん、なおっ……」
そこに在る姿を余すことなく記憶に焼き付けると、ゆっくりと瑞穂の中へ入っていった。
「ああ、直輝っ……!」
それから何度も夢中になって抱いた。これが最後だからと思いながら、でも、もしかしたらこれが始まりになるんじゃないかという気持ちで抱いた。
優しく抱いた後は、彼の望み通り酷くした。足を大きく割り開き手の自由を奪った。手を拘束された時に嬉しそうに微笑んだ顔は、俺の中のS性の全てを呼び覚ましていった。
俺のMを喜ばせてあげなくてはならない。そう思って激しく穿ちながら、思い通りに喜んでくれる顔を目に焼き付けていく。
「ああっ、はあっ……ンッツ!」
瑞穂の眉根が快楽に歪み、体が真っ赤に染まっていく。それを見届けた俺は、彼の首を思い切り噛んだ。
「あっ! ぐっ……あ、ああっ、あっ」
ぎりぎりとめり込んでいく歯を、理性の制止を振り切ってさらに奥まで進めた。二人の体の間には、何度も瑞穂の欲が吐き出されていく。
俺は勤めを果たそうと必死になって、口の中に僅かな滑りを感じるまで耐えた。その先に生温かさを感じるとさすがに嫌悪感が勝ってしまう。慌ててその柔らかな肉から歯を引き離した。
ポタリと口の端から血が垂れていく。纏わりつくような鉄の匂いにくらりと眩暈がした。ベッド脇の姿見には、まるで獲物をとらえたライオンのような姿の自分が写っている。それを見て、誇らしい想いがじわりと湧き上がっていた。
「すごい、気持ち良かった……。それに、幸せだよ。嬉しい」
瑞穂は恍惚とした笑みを浮かべ、首もとに空いた二つの穴を手で摩った。この口には牙があるわけではないから、それほど深い傷が出来たわけじゃない。それでも、自分の中のタブーを超えたことには変わりはなくて、俺は溢れる涙を止めることが出来なかった。
「あり、がと……なおき」
瑞穂の目には、深い喜びと安堵があった。俺はそれを見れただけで、幸せだと思った。これから彼を失う恐怖を味わわなければならないけれど、寂しい時間は少なくて済むだろう。
「瑞穂……」
でも、後悔の念が無いわけではない。それに苛まれる俺とは対照的に、幸せそうに微笑みながら瑞穂は眠りについた。
◇
小高い丘の上に建つ教会を指定された。そこへ行って、絶景を拝めるベンチに座ってほしいと言われた。体の自由が利かなくなり、寝たきりのような状態になってはいるものの、瑞穂は目で俺に意思を伝えてくれる。今朝珍しく何かを伝えたがっていると思ったら、キラキラと輝く目でそう強請られた。
「ここで合ってる?」
瑞穂は、嬉しそうに瞬きをしてそれに答えた。
海辺と背中合わせの小さな丘に、彼が指定したものはあった。俺は瑞穂を抱いたままベンチの前に立っている。このベンチの下は柵も無く、下はもう海になっていて危険なためあまり人が来ない。二人だけで晴れ渡った青空の下、広大な海を眺めていた。
「最後の散歩、楽しんだか?」
そう問いかけると、ゆっくりと瞬きをして頷く。もう長くは持たないと言われた日から、瑞穂は最後の過ごし方を決めていて、俺にそれを伝えるためにメモを残してくれていた。
「じゃあ、行こうか」
大切に抱き抱えた瑞穂に最後の口付けをする。瑞穂も、同じように返してくれた。そして、俺の体に首を預ける。体ではもう繋がることはできないけれど、首を傾げてくれると、そこで愛を感じる事が出来た。
「約束通り、最後まで一緒だ」
もう一度、ゆっくりと唇を合わせる。そして、そこで繋がったまま、俺は前へと飛び出した。瑞穂を死なせてしまっても後悔しない方法。これだけが、唯一俺たちに残された手段だった。
落ちていく間、後悔など一つも無かった。俺は、俺のMの望むことをやり尽くせた、幸せなSだったのだから。
(了)
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