3 / 4

第3話 異変

◇ 「あれ……? 瑞穂、それ、噛んだ痕、まだ残ってるの?」  当直が開けて帰宅した瑞穂は、入浴後の体にバスローブを羽織ったただけの状態でリビングへと戻ってきた。今にも倒れ込んで眠りそうなほどにふらついていて、ローブは引っ掛けただけの状態だ。ほぼ丸見えに近い状態のすらりとした足に、幾つか俺の歯形が見えている。 「ん? 本当? どこ?」 「ほら、こことか……。これ、多分結構前に噛んだところだぞ」  太ももの付け根部分にある一際はっきりとした痕を指でなぞり、瑞穂へその存在を知らせる。鏡の前に立ち、そこをするりと撫でると、ぴくりと体が震えた。 「あっ、あ、ちょっと……。今はダメだからね」 「分かってるって。今しても寝落ちするだろ? まずはしっかり寝ておけ」  疲労が溜まった体は、ぬるめの湯を張った浴槽に浸かったことで眠る寸前に追い込まれている。俺は彼を乱れたローブごと掬い上げるように抱き上げると、寝室へと連れていくことにした。 「うん、ありがとう。さすがにここまで疲れると、勝手に眠っちゃうんだね。もう、いつでも眠れ……る……」  抱き抱えて数秒もしないうちに、瑞穂は寝息を立て始めた。そうなると、動かさない方がいいのかもしれない。でも、ベッドでしっかり体を休めたほうが回復は早いだろうし……。どうしたものかと悩んでいると、肩にも噛み跡があることに気がつく。しかも、その傷はうっすらと化膿していた。 「あれ? これいつのだ? 何日か前のものみたいだな」  よほど疲れているのだろうか。あまりにも傷の治りが遅いように思えた。明日は休みのはずだから、ゆっくり眠ってもらうことにしようと思い、俺は寝室を後にした。  六年前、恋人としてやり直すことと、瑞穂専属のSになって欲しいと契約をせがまれた。 恋人になる相手にお金をもらうのは忍びなかったが、どう考えてもあのままでは体がもたなかっただろう。俺は瑞穂の提案を受け、彼と終生の専属契約を結んだ。その決断を後押ししたのが、瑞穂からのもう一つの提案だった。 『卒業までは居酒屋で働いてもらっていいから、就職はうちの病院にしてくれない?』  専属契約で払ってもらう金額は、三年分の学費と家賃だった。あとは居酒屋のバイトで賄っていた。そして、他のバイトを辞めた時間を全て瑞穂にあて、毎日彼を抱きながら、望まれる場所へと歯を立てた。  契約者としての性行為はある程度スパンを設けてあり、噛み跡が治るまでは噛んでもらってはいけないという彼のルールに従った。それがあったおかげか、俺は噛む時は仕事をしている感覚を持つようになった。  そう思って終えば、あとは俺の勤勉さが功を奏した。Sとしての勤めをしっかりと果たそうと思い、瑞穂の体を徹底的に暴いた。純粋に快楽だけを追えるようするために、どこをどれくらいの力でいじめればいいのかを探り、鎖骨は歯の先端だけで甘噛みされるのが好きだとか、腰骨の上を強く噛まれるのが好きだけど、そうなると挿入とは同時には無理だからと玩具を買わせたりした。  俺はいつしかそれを純粋に楽しむようになり、だんだんと噛むだけでは飽き足らなくなっていった。しかし、瑞穂は噛まれたいだけなのだ。他のSM行為は好まない。俺はなんとか自分のサド性が暴走しないように気をつけながら、俺のMを大切にしてきた。  そうして、プロ意識すら芽生えそうなほどの工夫を凝らすことで、対価を得ることに対する罪悪感を無くし、俺は無事に大学を卒業した。その後、瑞穂の親が院長を務める病院に就職し、今はそこの事務員をしている。それと同時に瑞穂と同棲を始め、今は二年目になる。ようやく仕事と家事の両立に慣れてきたところだ。  瑞穂は俺と復縁してからも全てが順調で、問題なく医学部を卒業すると、国試も難なくクリアした。そして、今は大学病院で研修医をしている。彼がちょうど救命に行ったタイミングで大きな事故があり、しばらくバタバタしていた。その時は本当に大変で、しばらく寝込んでしまった時期があった。  ようやく最近体調が戻りつつあるのだけれど、仕事に影響が出てはいけないからと、しばらく噛むことは控えている。瑞穂もそう思っているのだろう、俺に噛んでくれとも言わなくなっていた。 「それにしても、化膿するなんて……」  疲れているからだろうとは思った。ただ、どうしてもあの傷が気になってしまった。目を覚ましたら、瑞穂ときちんと話してみよう。そう思い、食事の準備を始めた。 ◇ 「破傷風?」  瑞穂は、それから数日経っても口数が少なく、気怠げにしていた。俺は化膿していた傷が気になり、それを瑞穂に問いただした。すると、彼は悲しそうな目でそう答えたのだ。  事故現場への医師派遣要請があった際に、人手が足りないからと研修医が雑務に駆り出された。その時、どこかで感染したのだろうと言われたという。 「破傷風ってワクチン打てば大丈夫だろう? 俺たちの世代は、子供の時に大体打ってるんじゃないのか?」 「うん、そうだね。子供の頃に受けていれば、その効果は二十代前半まではあると言われてる。それに、僕は追加接種も受けてた。でも感染してしまって……。あの時、仕事で帰れなかったんじゃなくて、本当は入院してたんだ。絶対回復するって思ってたから、直輝には言わないでもらったんだ……ごめんね」 「入院? ……研修じゃなくて?」  こくりと頷く瑞穂を見て、さあっと血の気が引いていくのを感じた。破傷風ワクチンを打っているのに入院するほど状態が悪化するなんて、現代日本で起こりうることなのかと驚いてしまった。そして、そんな状態だったのにそれを俺に隠そうとしたことがショックだった。 「なんで黙ってようと思ったんだよ。詳しくは知らないけれど、酷くなると命に関わるんだろう? 死んでたかもしれないんだろう?」  思わず言い方がキツくなった。頑張って仕事をしているのだからと思って、寂しい中でも我慢して待っていた。俺も仕事に慣れてきたとは言え、二年目くらいであればまだわからないことも多い。いずれは経営まで関わって欲しいと言われているから、勉強だってしてる。瑞穂との未来のためにと頑張っていた俺には、その話は裏切りとしか思えなかった。  会いたくて仕方がなかったし、彼のことも心配で仕方がなかった。でも、そのうち笑顔で帰ってくると信じていたから、我慢していたのに。 ——もしかしたら、帰ってこなかったかもしれないのか? 「……俺のこと、騙してたのか?」  そんなことは考えるだけで恐ろしい。辛くて悲しくて、さらに語気が強まっていった。寂しさが溢れて頬を濡らす。俺は自分で思っている以上に、限界が迫っていたみたいだ。 「直輝……」  瑞穂は泣いている俺を見たことがない。理由はとても単純だ。俺が瑞穂といる時に、悲しくなった事が無かったからだ。  高校の時は、孤独に喘いでいたところに彼と出会い、毎日が一変して楽しくなっていった。それからはずっと嬉しい、楽しいしか無かった気がする。別れを選んだ時でさえ、お互いに幸せになるためだと思い込んで笑っていた。  再会してから今日までもそうだった。辛いことが無かったわけじゃない。生きれいれば、それなりに色々起きるだろう。それでも、隣に瑞穂がいればそれを受け入れることができた。  俺は瑞穂に生かされている。もし、この笑顔を失うことがあったら、俺はもう生きてはいけないだろう。今の俺は、それくらい瑞穂に依存し切っていた。 「俺はお前がいなくなるなんて絶対に嫌だ。その可能性があるなら、そこから逃れる方法を一緒に探したい。でも、お前はそうじゃ無かったんだろう? 一緒に悩んで欲しいと思わなかったんだろう? それって、お前の運命の中に俺はいないみたいじゃないか。そんなの、辛い……」  俺を求めて気が狂いそうだからと、部屋を抜け出してまで会いに来てくれた瑞穂。あの情熱はもうなくなってしまったんだろうか。その間に俺はどんどん熱に浮かされて、もう引き返せなくなってしまったのに……。いつも愛しさで詰まる胸に、今はぎゅっと差し込むような悲しみが居座っている。 「直輝、ごめん。ごめんね。きっと疲れてるから回復しきれてないだけだろうって思ってたから、入院っていうカードを切ればすぐに治ると思ったんだ。だから、余計な心配かけたくなくて……」 「でも、思ったより回復してないんだろう? じゃあそれを俺に言ってよ。俺から訊かなかったら、この話だって無かったんだろう? 俺が訊かなかったらいつ言うつもりだったんだろ? じゃあ、俺はお前が死んでから知らされるのか? その時の俺の気持ちがどんなもんかくらい、考えたらわかるだろ! そんなの、酷いじゃないか……」 「直輝……。そうだね、ごめんね」  瑞穂はそう言うと、俯いて黙り込んでしまった。その頬には、涙が溢れている。体調が悪いのに恋人に怒鳴られるなんて、辛いに決まってる。でも、入院するほど具合が悪かったことを隠されていたことは、俺にとってもダメージが大きかった。  嘘をつかれたのが嫌だったという話じゃない。瑞穂を失うかもしれない恐怖が、俺に襲いかかっていたのだ。今更一人で生きていけと言われても、どうしたらいいかわからない。  いや、そんな事を考えることすらしたく無かった。 「……今は大丈夫なんだよな?」  瑞穂は黙って頷く。その答えに安心した俺は、ほっと息を吐きながら彼を抱きしめた。その頬を涙がすっと流れ落ちていく。必死すぎて追い詰めてしまったことに、それを見てようやく気がついた。  俺だって別に瑞穂を傷つけたかったわけじゃない。ただ、どうしようもない恐ろしさを振り払って欲しかっただけだ。  でも今確実に彼を傷つけた。だから、それを詫びる気持ちを込めて、出来るだけ優しくその身を包み込む。腕の中の温もりと彼の肌から立ち上る香りに包まれて、俺の中の欠けていた部分が満たされていくように感じた。 「もしかして、最近噛んでって言わなかったのってそのせいだったのか?」  俺がそう問うと、瑞穂は蒼白の顔で俺を見つめた。その唇は震えている。そして、小さく頷くと、 「そう。だからこのことを直輝に言えなかったんだ」  と呟いた。 「……どういう意味だ?」  破傷風にかかり、入院して治療を受けていたことは分かった。そして、改善したから退院した。新しい傷を作らないように気をつけておかないといけないから、噛んでくれとは言えない。そこまでは分かる。でも、だからこの話を俺に言えなかったとはどういうことなんだろうか。全く意味がわからず、俺はまた眉間に皺を寄せることになった。 「だって……、僕は噛んでもらわないとイけないでしょ? それをしないってことは、万が一昂ったとしてもイけないまま我慢するってことになるんだよ。短期間ならなんとかなるかもしれない。でも、性欲が強い僕が、寸止め状態で正気を保って生きていけるわけがないんだ。きっと、命と引き換えにしてでも噛んで欲しいって言うと思うんだよ。そして、直輝はそれを聞き入れて噛んでしまうと思う。でも、もしそれで僕が死んじゃったら……。一生後悔するでしょ?」  そう言って、瑞穂は俺を見つめた。 「……噛まない」 「いや、噛むよ」 「噛まないって言ってるだろ!」 「……それは、僕がイけなくて苦しんでる姿を見てないから言えるんだよ!」  そう叫んだ瑞穂の顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。それは、甘っちょろい依存心に喘ぐ俺には衝撃的な、深い絶望の涙だった。

ともだちにシェアしよう!