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第2話 どこにも行かないで

◇  遠くの方で、アラームが鳴り響いている。もう起きないといけないのは分かっているのに、体が重だるくで全く動かない。目を開けようとしてもそれも叶わず、まるでベッドに縛り付けられているかのようだ。 「……直輝」  動かない体を必死に動かそうとしていると、不意に耳元に瑞穂の声が聞こえてきた。音と共に入り込んだ吐息に思わず身震いする。瑞穂はそれを見て笑っているようだ。 「直輝、大丈夫? ごめんね、僕が昨日散々煽ったから……。昨日じゃないか、さっきまでしてたんだよね。僕さあ、信じられないくらい元気なんだけど。今人生で一番体が軽いんだ。全く寝てないのにね」 「ん……、そうか。それはよかった……」  微睡みながらも声は出せたのでそう答えていると、瑞穂の唇が触れて来てそれも出来なくなった。軽く触れ合うだけのキスを何度もして、満足そうに小さく笑う。目を瞑っているのに本当に見ているかのような、鮮明な笑顔のイメージが見えた。 「今日三限だけなんでしょう?」 「うん、それ終わったらバイトがあるけどね」  眉間を押さえながら呻きつつ、力を振り絞って体を起こした。寝不足過ぎてくらりと眩暈がする。 「ねえ、なんでそんなにバイトしてんの? 奨学金貰ってたよね」 「あー、うん、まあね。貰ってたんだけど、打ち切られちゃったんだよ」 「えっ、なんで? そんなに成績悪かったの? 直輝勉強好きでしょ。素行が悪いとも思えないし……」  瑞穂は、大きな瞳が溢れそうなほど目を見開いて驚いている。その姿は、すごく懐かしい。瑞穂が戸苗家の常識を話す度に、それが俺たち貧乏人とは全く違うのだということを教えると、いつもこうして驚いていた。俺はそれを見るのが好きで、貧乏で良かったとさえ思えた。 「必須科目の試験の日に風邪ひいて熱出してさ。それがそのまま治らなくて、追試の期間も過ぎちゃったんだよね。だから俺、留年するんだ。そうなると奨学金は打ち切られる。その通知も受け取った。今年度の分までは保証されてるから、来年の分を貯めておかないといけないんだよ」 「病気だったのに、考慮されないの?」 「……最初はね、そうしてもらえそうだったんだ。でも、誰かが俺が体調を崩した理由を捏造して抗議したらしいんだよ。『遊ぶためにバイトに明け暮れて試験を受けないような奴に、奨学金なんて与える必要はない』って。俺が風邪を引いたのは、過労が原因だったからな。最終的には、『バイトをすれば通えるほど働いてる。奨学金は必要ない』って判断されて、打ち切られた」 「そんな……」  こういうことは、俺にはよくあることだ。  俺がシェアハウスを飛び出したのは、俺がハウスメイトの財布を盗んだという濡れ衣を着せられたことが原因だ。彼の財布は冷蔵庫の中から見つかった。そこまでは笑い話だったのだ。それなのに、その彼がリビングで飲み会を開いた日に全てが一変した。そこに、俺と瑞穂の高校の同級生が参加していたのだ。  彼は俺を毛嫌いしていた。貧乏で辛気臭いから近寄るなと、顔を合わせればいつもしつこいくらいに言われた。そのやり取りの中に、財布を無くして俺のせいにするというタチの悪い遊びがあった。彼は、冷蔵庫の中にあった財布も、本当は俺が盗ったんじゃないかとハウスメイトに吹聴した。  言われた彼は、無口で辛気臭い俺なんかよりも、陽気でよく話す彼を信用した。そして、盗人とは一緒に暮らせないと言われ、俺は出て行かざるを得なくなった。 『出て行かないなら、警察に突き出すよ』  そこまで言われたら、そうするしかない。急いで物件を探し、バイトを詰め込んで引っ越した。そして、ここで暮らし始めて三日目に熱を出し、ろくに食べるものが無いままでかかった風邪を、盛大に拗らせた。  しかも、俺は運も無い。本来なら再履修で済むはずなのだが、来年度のシラバスを確認してもらうと、なんと再履修が不可能だった。これまで通りの予定であれば出来ていた事が、来年度に限って出来ない。そんな不運はあまり聞かないだろう。ただ、俺にはよくあることだ。 「そっか、だから働かないと行けないんだね。でもさあ、直輝めちゃくちゃ具合悪そうだよ? いや、あの、今日のことは僕が原因だろうけど……。ねえ、バイトは今日だけでも休んだらどう? そんなに働いてたら、お店の人だって心配してるでしょ?」 「まあ、うん、それは確かにそうだけど。大将は少しは休めって言ってくれてるな」 「ほら、そう言ってくれるってことは、お店側は一日くらいならなんとかなるってことなんだよ。でも、直輝は一度ちゃんと休まないと、また倒れちゃうよ。で、授業はどう? 起きれるなら俺が連れて行くよ。車出すから」 「……俺に運転手付きの高級車で大学に行けって言ってんの?」 「う、それは……。そうだね、そういうの嫌いだよね……。でも、今日はいいでしょ? 今日の直輝の体調が悪いのは僕のせいだから、僕がお詫びをするだけだよ。ね、そうしよう! ほら、着替えてよ。土本呼ぶから」  瑞穂はそういうと、スマホで運転手の土本さんへと連絡を入れてくれた。土本さんには高校の時にかなりお世話になった。彼だけは俺たちが恋人同士だったことを知っていて、二人で会うために色々と力を貸してくれていた。俺も土本さんに会いたい。あの穏やかな老紳士と話すと、とても心が和むんだ。  ワクワクしながら重だるい体をなんとか動かして、枚数の多い冬の着替えを済ませた。そして、真っ黒なウールコートとマフラーを手に取り、バッグを肩にかけて瑞穂の隣へと戻る。 「土本が朝ごはんを買ってきてくれるって。すぐ着くだろうけれど、車の中で一緒に食べよう」 「え、そんな事まで頼んでいいのか?」 「うん。『瑞穂様がまた直輝さんにご迷惑をおかけしたんでしょうから、それくらいはさせてください』って言われた」  瑞穂は土本さんの口調を真似してそう言うと、あははと大きく口を開けて楽しそうに笑った。俺も思わずそれにつられて笑ってしまう。  年末に差し掛かり、キンと冷えた空気の中で、穏やかで温かい時間が流れていた。 「ねえ、直輝」 「うん?」  瑞穂の目が、俺を見上げている。甘えを隠さないその姿が、とても愛おしい。思わずその髪を指で掬い、耳へそっとかけた。 「居酒屋のバイトは好きでやってるよね?」 「うん。あの店が大好きだからね。仕事自体がすごく楽しい」 「じゃあ、他の単発のバイトは? それは辞めても大丈夫?」 「……いや、辞めると来年が大変になるから辞められないよ」 「そうか……」  瑞穂は俺の体を心配してくれている。小さな頃から母と二人で暮らしていて、家にはいつも金が無かった。給料日が来るまで、どうやって食い繋ぐかと言うことばかりを考えていた。瑞穂との付き合いを悩み始めたのは進路を考え始めた時だけれど、それよりずっと前から、俺は彼の隣に立つには相応しくないと思っていた。 「あのさ……。昨日、僕は噛まれないとイけないって言ったよね?」 「え? あー、うん。そうだね」  そう言いながら、瑞穂は大きくあいた襟ぐりから、するりと白い肌を零した。そこには、昨日俺がつけた歯型が鮮明に残っている。それも、昨日よりも青みが強くなっていて、まるで小さな花が咲いているようだった。 「毎日してくれるんだよね? それがたとえ気乗りしない日でも、僕のためにそうしてくれるんでしょ? だから……」  そう言うと、今度は露わになった肩とは反対の裾を持ち上げる。するすると持ち上がるそれは、白い腹筋の上を滑っていく。 「僕の専属サドになってくれない?」  その布が僅かに隆起した胸を通り過ぎると、露わになった部分を指で擦りながら瑞穂はそう言った。 「はあ? 専属のサド? どう言う意味だ」  そして、その布を口に咥えた。指はまだその先端を滑っている。布を咥えたままでは声が出せず、その先を話してはくれない。代わりに苦しそうな音が少しずつ漏れていた。じわりと肌が薄桃に色づいていく。もう片方の手はいつの間にか下へと伸び、濡れた音を響かせていた。 「僕、性欲強くてね、ちょっと困るくらいなんだ。三年間も我慢してたからか、色々と曲がっちゃったみたいなんだよ。それに、大好きな直輝と一緒にいられるって考えたら、今すぐにシたいくらい疼いてる。でも……が、我慢する……から」  瑞穂は朝の明るい室内で、俺に正面から向き合ったまま自分を慰め始めた。今朝起きてからの様子を見る限り、昨日の事は夢だったのだろうかと思っていた。  でも、どうやらそうでは無かったらしい。ひたすら快感を追うその姿は激しさを増す一方で、水音はだんだんと大きくなり、彼の顔は瞬く間に紅潮していく。追い込まれるまではあっという間だった。でも、これではダメだと言っていた……。 「ねえ、このまま、じゃ、だめ……。噛んで欲しい、ここ。ね、お願い」  口から裾を離すと、そう言って胸を突き出した。  それは、昨日よりも衝撃的に卑猥な姿だった。視点がおかしくなりそうなほどに突き出されたものは、目の前で痛みを期待して僅かに揺れている。俺には、それが涎を垂らしそうなくらいに美味そうなものに見えた。 「ここ、噛むの?」  ふっと息を吹きかけながら尋ねる。びくりと体が大きく跳ねた。 「ンッ! そっ、そう! 噛んで、ほしっ……」  目の前で揺れる実に齧り付いて、瑞穂を喜ばせようかと思った。ただ、ふとさっきの言葉の意味が気になった。 「瑞穂さあ、サドになって欲しいんだよね? サドって、ただ加虐するだけじゃダメでしょ? 確か自分のマゾに愛を持っていて、相手が喜ぶ加虐をしないといけないはず……」  瑞穂はいくら扱いてもイけない状態で待たされていて、切羽詰まった表情をしている。少しでも早く噛んで欲しくて、俺の口の中へ先端を突っ込みそうな勢いになっていた。 「そう、だ、から……。噛んで欲しいっ」  必死になって擦り付けてくる先端をぺろりと舐める。それだけで、彼の体がびくりと跳ねた。 「あっ……!」  それでもイけるわけがない。涙を流して必死に首を振り回している。 「その先は? 本当は何が言いたいの?」  それを言わない限りはこれしかしてあげないと伝えて、先端を舌で撫で続ける。パンパンに張った丸いところを、指でずっと撫でた。そこは、先端から漏れる透明な欲でぐちゃぐちゃだ。 「言え」  そう言って、滑る場所へ指をくっと突いた。瑞穂は悲鳴をあげながら、体をのけ反らせる。 「ひぃっ……あ、バ、バイ、ト……。他の、は、辞めてほしっ……」 「だから、生活出来ないつってんじゃん」  だんだんと自分の声が変わっていくのが分かった。気持ちも同時に変化していく。もっといじめてやろう、酷くしてやろう。でも、それは彼が喜ぶやり方に限る。そう考えながら、痛みと快楽を与え続けた。 「だ、から、あ……。僕と、契約、してっ! お、お金……、僕が払うっ、からっ!」 「……はあ?」 「恋人と、契約者としてのセックス、どっちも、直、輝、と……、したいぃぃぃ」 「……俺に瑞穂の恋人と専属のSの二つの肩書きをくれるってこと?」  硬くなった先端を舌で撫でながら、指でもそれを追いかけるように触れる。みっともない悲鳴をあげながら、瑞穂は何度も「そう、そう!」と言った。 「……そんなに俺が好き?」 「す、好きっ! 好き、に、決まって……! 全部っ、直輝が……いい!」  叫んだ瑞穂の声に、体の奥の方から骨を震わせるほどの震えが走った。愛する男が、俺に支配されたがっている。その事実に、俺は震えた。嬉しくて、震えた。嬉しくて仕方がない。  あの、肌にめり込んだ歯が細胞を潰す感触を、また味わいたくなった。それを許してくれる人がいる。そう思うと、興奮して仕方がなかった。思い切り口を開き、待ちくたびれた彼の肉を口の中へと招いて行く。 「っ、ん、っああああ!」  そして、また瑞穂がイキすぎて気を失うまで、何度もその肌に歯を突き立てた。

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