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第7話 不穏な開幕
ビルの屋上。夜景が遠く瞬き、ここは風の通り道だった。
夏生は肩にかかる機材を直しながら、スタッフの動きを見渡す。
ライトの角度、風の流れ、衣装の裾──どれ一つ欠けても絵は完成しない。
「ライト、こっちの角度で。風向きは今のままで、衣装、まだ調整必要かな」
控えめに頷いた衣装担当の女性が、薄布を真っ直ぐに持ち上げる。
緊張が手元から透けていた。
「冬夜くん、露出の件だけど──」
「腹、もう少し出したい」
先に言われて、夏生が言葉を飲む。
わずかに見える程度では、彼には足りないらしい。
「調整はします。ただ、今日は命綱が──」
「つけない」
空気が固まる。
固まらせた当人は風を頬に受けながら、遠くを見ていた。
自分が作った空気を気にしていないか、或いは気づいていないのか。
なんとなく、無視しているのかもしれないとも思った。
「不機嫌でも映えるって、ズルいな」
夏生が漏らすと、冬夜は少しだけ口元をゆるめる。
「知ってる」
「本番は明日なのに、わざわざ下見に来たのか」
答えはなかった。風だけが通り抜けていく。
やがて、冬夜が口を開く。
「必要なんだ。この高さ、この景色……絶対に画に入れたい」
「何度も言ってるけど、危険すぎる。せめて命綱を──」
「いらない」
一拍置いて、冬夜は続ける。
「死ぬって思わなきゃ、命の鼓動なんか伝わらない。映像にならないんだよ」
その言葉に、夏生は返せずにいた。
「……また始まったよ。大丈夫すか、あれ」
照明の田村が、苦笑交じりに呟く。
「田村、黙れ」
夏生が低く言って、田村の腕をつかむ。
「クライアントの前だぞ。軽口はやめろ」
「いや、事実っしょ? あの態度、打ち合わせからずっとじゃん。さすがにやべーって。
責任誰が取るんだってハナシ」
「……田村。これ以上は」
「降ろされてもいいっすよ。だってこの現場、うまくいく気しないし。
あーあ。グラビアの子ならまだテンション上がったのに」
夏生は言葉を返さず、ただ深く息を吐いた。
冬夜はやっぱり聞こえていないみたいな顔で街を見下ろしていた。
──田村を片付けに追いやり、再び外に出る。
反射板がドア枠に引っかかり、静かに外す。風が一気に抜けてきた。
──空気が、絵になる。
冬夜が、端に立っていた。
夜景を背に、髪が風に揺れる。輪郭が、まるでフレームに吸い込まれていく。
カメラはない。それでも、手が無意識にグリップを探していた。
──いける。この光、この距離、この温度。
「……今、撮るべきだったな」
ぽつりとこぼすと、
「撮ればよかったのに」
冬夜が振り向かずに言った。風の中でも声が聞こえるのはさすがミュージシャンというべきなのだろうか。
「カメラも持ってないのに、言うだけ言うんだな」
「そういうなって。準備そっちのけで撮影開始したら困るのはお前もだろ」
冬夜は笑わない。けれど、その横顔がどこか緩んだ気がした。
「準備終わったら、ちゃんと撮ってよ」
「……撮るさ。でも命綱は──」
「いらないって言った」
夏生は眉をしかめ、でももう一度は言わなかった。
その声が、今日の風と同じくらいまっすぐだったから。
照明のスタッフが冬夜を避けるように通り過ぎていく。
周囲の空気が、彼を中心に少しずつ歪んでいる。
「……みんな、お前のこと怖がってるの、気づいてるか?」
「なにか問題がある?
いい現場なら、いい作品ができるなら配慮するけど。
俺はそんな風には思えない。
満たされてないから俺は叫んでる。
それが音楽じゃないの」
言葉が、胸に刺さる。
何か言い返さないといけないのに、なんていうべきかがわからない。
当たり障りのない事を言葉に、こいつはきっと納得しないんだって、それくらいはわかっていた。
──明日、ちゃんと撮れるだろうか。
風がまた、冷たく吹いた。
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