7 / 7

第7話 不穏な開幕

ビルの屋上。夜景が遠く瞬き、ここは風の通り道だった。 夏生は肩にかかる機材を直しながら、スタッフの動きを見渡す。 ライトの角度、風の流れ、衣装の裾──どれ一つ欠けても絵は完成しない。 「ライト、こっちの角度で。風向きは今のままで、衣装、まだ調整必要かな」 控えめに頷いた衣装担当の女性が、薄布を真っ直ぐに持ち上げる。 緊張が手元から透けていた。 「冬夜くん、露出の件だけど──」 「腹、もう少し出したい」 先に言われて、夏生が言葉を飲む。 わずかに見える程度では、彼には足りないらしい。 「調整はします。ただ、今日は命綱が──」 「つけない」 空気が固まる。 固まらせた当人は風を頬に受けながら、遠くを見ていた。 自分が作った空気を気にしていないか、或いは気づいていないのか。 なんとなく、無視しているのかもしれないとも思った。 「不機嫌でも映えるって、ズルいな」 夏生が漏らすと、冬夜は少しだけ口元をゆるめる。 「知ってる」 「本番は明日なのに、わざわざ下見に来たのか」 答えはなかった。風だけが通り抜けていく。 やがて、冬夜が口を開く。 「必要なんだ。この高さ、この景色……絶対に画に入れたい」 「何度も言ってるけど、危険すぎる。せめて命綱を──」 「いらない」 一拍置いて、冬夜は続ける。 「死ぬって思わなきゃ、命の鼓動なんか伝わらない。映像にならないんだよ」 その言葉に、夏生は返せずにいた。 「……また始まったよ。大丈夫すか、あれ」 照明の田村が、苦笑交じりに呟く。 「田村、黙れ」 夏生が低く言って、田村の腕をつかむ。 「クライアントの前だぞ。軽口はやめろ」 「いや、事実っしょ? あの態度、打ち合わせからずっとじゃん。さすがにやべーって。 責任誰が取るんだってハナシ」 「……田村。これ以上は」 「降ろされてもいいっすよ。だってこの現場、うまくいく気しないし。 あーあ。グラビアの子ならまだテンション上がったのに」 夏生は言葉を返さず、ただ深く息を吐いた。 冬夜はやっぱり聞こえていないみたいな顔で街を見下ろしていた。 ──田村を片付けに追いやり、再び外に出る。 反射板がドア枠に引っかかり、静かに外す。風が一気に抜けてきた。 ──空気が、絵になる。 冬夜が、端に立っていた。 夜景を背に、髪が風に揺れる。輪郭が、まるでフレームに吸い込まれていく。 カメラはない。それでも、手が無意識にグリップを探していた。 ──いける。この光、この距離、この温度。 「……今、撮るべきだったな」 ぽつりとこぼすと、 「撮ればよかったのに」 冬夜が振り向かずに言った。風の中でも声が聞こえるのはさすがミュージシャンというべきなのだろうか。 「カメラも持ってないのに、言うだけ言うんだな」 「そういうなって。準備そっちのけで撮影開始したら困るのはお前もだろ」 冬夜は笑わない。けれど、その横顔がどこか緩んだ気がした。 「準備終わったら、ちゃんと撮ってよ」 「……撮るさ。でも命綱は──」 「いらないって言った」 夏生は眉をしかめ、でももう一度は言わなかった。 その声が、今日の風と同じくらいまっすぐだったから。 照明のスタッフが冬夜を避けるように通り過ぎていく。 周囲の空気が、彼を中心に少しずつ歪んでいる。 「……みんな、お前のこと怖がってるの、気づいてるか?」 「なにか問題がある? いい現場なら、いい作品ができるなら配慮するけど。 俺はそんな風には思えない。 満たされてないから俺は叫んでる。 それが音楽じゃないの」 言葉が、胸に刺さる。 何か言い返さないといけないのに、なんていうべきかがわからない。 当たり障りのない事を言葉に、こいつはきっと納得しないんだって、それくらいはわかっていた。 ──明日、ちゃんと撮れるだろうか。 風がまた、冷たく吹いた。

ともだちにシェアしよう!