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運命のダビデはどこに?

思えば僕の初恋は、5歳だった。
初夏の風が、汗ばむ空気を運んでくるようになったある昼下がり。
祖母が昼寝のBGM代わりに流していた古い教養番組。僕はソファの上で、凍らせたゼリーをしゃぶりながら、ぼうっとテレビを眺めていたあの日。 画面に現れたのは、白く輝く石の男。
圧倒的な肉体美。静かなる威厳。完璧なプロポーションに宿る神聖さ。 手に持っていたゼリーが手からすり抜け床にぼとり、と落ちた。 僕が恋に落ちたのは――
ダビデ像だった。 **** 「あ〜抱かれてぇ」 結城あおい、26歳。大手菓子メーカーのデザイン部所属。 ふわりと肩に触れる黒髪に、くりっとした丸い目元。中性的な顔立ちと柔らかい物腰で、どこにいても目を引く存在だ。 そんな彼だが。 昼休みのカフェテリア。頬杖をつきながらスマホをじっと見つめる視線の先には、白い大理石の裸体が堂々と立っていた。 画面いっぱいに鎮座するダビデ像。その神々しさに、あおいは熱っぽくため息を漏らす。 ああ、どうしてこんなにも恋焦がれているのに手が届かないのだろう……。 衝撃の初恋から約20年。あおいは理想のタイプが石像(ダビデ像に限る)という立派に性癖が歪んだ男に成長していた。 「まーた見てるよ」 向かいの席でサラダをつついていた同僚・千明が、冷ややかな目を向ける。 千明は同じデザイン部所属であおいの同僚。猫のような目元と赤いネイルがトレードマークの姉御肌で、あおいの性癖も性癖にまつわる悲哀もぜ〜んぶ把握済みの理解者だ。 「そんなに毎日熱っぽくスマホ見て。少しは自重しな」 「だって聞いてよ!昨日会った人もハズレで……っ」 あおいは前のめりになり、昨日の出来事を早口でまくし立てた。 昨日マッチングした相手は、顔はまあまあ好み。
終始優しかったし、身体も程よく鍛えていて、シャツ越しに見える筋肉のラインにちょっとドキッとした。
――なのに。 とにかくちんこがデカかったのだ。 ギラリと黒光りしていて、グロテスク。まさしく俗物。 あおいが長年恋焦がれている慎ましく神聖なペニスとは、正反対だった。 一応、セックスはした。けれど、ほとんど覚えていない。
鍛えられた胸板に押し倒されながらも、心は遠くへ行ってしまって気がついたら行為は終わっていた。 一気に語り終える頃には、あおいのテンションは地面を這うようにだだ下がり。
対照的に、千明は腹を抱えて笑っていた。 本人にとっては地獄でも、他人から見れば、ただの喜劇なのだから仕方ない。 「まっさかその人もちんこのデカさで振られるなんて思わないでしょうね」 「千明さん声大きすぎ!」 「アンタもな!」 真昼間のおしゃれなカフェテリアで会話に花を咲かせる美男美女。まさか話の内容が猥談だとは誰も想像できないだろう。 「ほら、世の中にはエッフェル塔と結婚した女の人もいるんでしょ?あおいもそうすれば?」 「いや、それは違うというか。僕ごときが結婚するなんて烏滸がましいです」 「あ、ソウデスカ」 千明が箸を置いて、心底どうでもよさそうにため息をつく。 あおいはそんな千明を軽く受け流して、スマホに視線を戻した。 画面の中、今日も変わらず鎮座しているダビデ像。 誰にも触れられない美しい存在。 そんな理想、現実にいるわけないんだろうな、多分。 ぼんやり思いかけたその時だった。 「あ、やば。昨日の資料堂島さんに共有しなきゃだったわ」 千明がぽろりと漏らした「堂島」という名前に、あおいの意識が急に引き戻される。 「千明いま堂島さんと一緒のチームなんだっけ。うらやま」 羨望を隠しきれずに、飲みかけの抹茶ラテを一気に啜る。 堂島光貴。商品企画部のエース。 艶やかな黒髪に、切れ長の目元。 スーツで隠しきれない鍛え上げられた身体。誰もが振り返る長身のプロポーション。 プロジェクトを成功に導く手腕と、後輩へのさりげないフォローは欠かさない。 まさに、カンペキな男。 「いいでしょ。堂島さんいると本当に面白い仕事ができるよね。デザイナーの立場からしても、デザインし甲斐があるというか。あおいも前チーム一緒だったよね」 千明がニヤリと笑う。 「――何、惚れてんの?」 その一言に、あおいはストローをくわえたまま、ビシッと固まった。 「いや、別にそんなんじゃないからっ!」 声は裏返り、顔はみるみる真っ赤になる。 焦りすぎて、言い訳にもなっていない。 千明は、猫が面白いおもちゃを見つけたときみたいに、目を爛々と光らせた。 「いっつもダビデに夢中なのに珍しいじゃん。人間に惚れるなんて」 「千明さん俺のことなんだと思ってんの!?」 「石像好きのど変態」 「好きなタイプが彼(ダビデ)なだけで、人間が好きです〜だ!」 あおいは頬をふくらませて、ストローをもごもご噛んだ。 拗ねたような仕草で強がるけれど―― 内心では、千明の冗談をきっぱり笑い飛ばせない自分が、確かにいる。 まぁ、千明が面白がるのも無理はない。堂島光貴。彼はあおいにとってちょっとだけ特別だ。 半年前―― 新商品の企画を進めるため、社内横断プロジェクトが発足。メンバーは営業部と商品企画部、そしてデザイン部から計5人。その中に、堂島とあおいもいた。 選ばれたことが嬉しくて張り切って臨んだものの、会議中に意見がうまく伝わらず、他のメンバーとの空気にもなじめず、あおいはちょっとした“浮いた存在”になっていた。 そんな時、さりげなくフォローしてくれたのが、堂島だった。 「結城さんって、前にあのキャンディのリニューアル担当してたよね?」 突然、堂島が話を振った。あおいはビクリと顔を上げる。 「あ、はい。サポートという形でしたが担当していました」 「十分だよ。今ちょうど“レトロ感を残しつつ新しさを”って話してたけど、結城さん的にはどう?この商品が“売り場で映えるデザイン”って観点から、何かアイデアある?」 あおいは緊張しながらも、自分の中にあったパッケージの色味と紙素材のアイデアを口にした。 今思えば、整理しきれていなくて、きっと伝わりきってはいなかった。 それでも堂島は優しくうなずいて―― 「それ、すごくいいと思う。つまりこういうことだよね?」 あおいの言葉を丁寧に拾い上げて、わかりやすく咀嚼して、みんなに伝えてくれた。 途端に場の空気が、ふわりと変わったのがわかった。 あおいのアイディアが、ちゃんとこの場に認められた瞬間だった。 「結城さんありがとう。その視点俺にはなかったから助かったよ」 堂島がニコッと笑いかけてくれた時。 (……あ、好きかも。) その瞬間、ダビデ像に抱いてきた憧れとは違う、もっと柔らかくてあたたかい感情が胸に灯った。 誰でもない、堂島光貴だから感じた気持ちだった。 ストローをくわえたまま、あおいはぼんやりとカフェテリアの天井を仰いだ。
プロジェクトから一年。あの時の、堂島さんの笑顔は、今も胸の奥に焼き付いている。 「ねえ、あおい」 千明が声を潜める。 「素直にアプローチしたら?堂島さんに」 「え、無理無理無理!」 あおいは慌てて手を振った。 「社内恋愛はしないって決めてるの!しかも堂島さんノンケでしょ絶対。アプローチされたら迷惑だよ」 必死なあおいに、千明は苦笑しながら肩をすくめる。 「そりゃ、そうだよね。軽率だったわ、ごめんごめん」 「大丈夫。ありがと」 あおいは小さく笑った。
……いいんだ、これで。
またマッチングアプリで、理想の相手を探せばいい。
堂島さんは――目の保養、ってことで。 そう思いかけた時、千明がまた口を開いた。 「じゃあ、せめてアプリにはちゃんと書いたら?」 「ちゃんと?」 「ちんこ小さい人がいいって」 「千明さん自重して!!!」 あおいが思わず赤面するも、千明はケラケラ笑って続ける。 「書いとかないと、向こうもわかんないでしょ。あおいも無駄に凹むだけだし」 「まぁ、そうだけど」 確かに、今までは自分の性癖を特に記載していなかった。
でもそれでミスマッチになっているのだから、お互いにとって不幸でしかない。 でも……。 「でもさ、それでマッチングするのかな?ちんこの大きい小さいってプライドにかかわるところだし」 「ちゃんと、誠意持って丁寧に書けばいいんだよ」 確かに千明のいうとおり。このままでは相手にとっても結果的に失礼なのは変わりない。 「分かった。書いてみる……」 「その調子!いま書いて、いま!」 千明に背中を押されるようにして、あおいはスマホを握り直した。 (はじめてで不安なので、性器が小さい人が理想です。できれば包茎がタイプです。) 入力を終えて、そっと画面を閉じる。 ちゃんと好きなタイプは書いた。……少しの嘘を織り交ぜて。 血眼になってペニスが小さい男を求めている自分が普通でないことくらい自覚しているのだ。 「なに最後、嘘ついて純情ぶってんの」 いつの間にかニヤニヤしながらあおいのスマホを覗き込んでいた千明に、慌ててスマホを隠した。 「やめて!見ないで!」 「初めてじゃないじゃん。あおい遊びまくってるじゃん」 「違うし!文章に説得力を出すために……ってか遊びまくってない!運命の相手を探してるだけだし!!」 くだらない言い合いをしながらふと時計を見れば、もう昼休みも終わりかけていた。 「そろそろ戻りますか」 トレイを持って立ち上がる千明の後を、あおいも追いかける。 その瞬間、ポケットのスマホが震えた。 ピロン、と控えめな通知音。 【こうさんからメッセージが届いています】 「どーしよ、千明……」 「え?」 「マッチング、しちゃったかも」

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