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初夜-1
深夜2時のコンビニ。『みすず』と書かれた名札を付けた黒縁メガネの店員が淡々とレジ打ちを終えた。
「ありあとっしたー」
店員はギリギリありがとうございましたと聞こえる程度の崩し具合で挨拶をする。客が足早に店をあとにするのを見て、彼はふうと息を吐いた。
美須々 蘭 はごく普通の大学生だ。
偏差値がよくも悪くもない私立の大学。友人の付き合いで入ったサッカーサークルは幽霊部員。時々日雇いのバイトをして小遣いを稼いでいる。そんな、どこにでもいるような特筆すべきことのない20歳の青年。
それが蘭だ。今夜のバイト先は、繁華街のコンビニだった。
時給が高い上に仕事も多くなさそうだからいいじゃん、と呑気に思っていたものの、繁華街の店舗のせいか、客足はそれなりにあった。
しかも、派手な格好をした人間が多い。一般的な大学生の中でも、蘭はおとなしい部類の人間なので、そういうタイプの人間と接するだけでもどっと気疲れしてしまう。
ピアスじゃらじゃら、露出の多い服…タトゥーが描かれた客なんかもいた。
誰もいないのをいいことに、蘭はまたため息を吐く。
──やっぱり、俺みたいな凡人には場違いだったかな。
もう深夜のコンビニバイトはやめよう、と心に誓った時。
ピロリロン、と入店音が響く。心中げんなりとしながら顔を上げた蘭は目を見開いた。
Tシャツにジーパンというラフな格好をした青年。歳は蘭より少し上くらいだろうか。
ストレートの短髪で綺麗な黒髪のアップバング。
右耳にひとつだけピアス。左腕には──赤いタトゥーのような線が彫られている。
赤く浮かび上がったアゲハ蝶。
決して堅気には見えないけど、彼にはどこか品があって、他のチャラチャラしたタイプとは違って見えた。
──蘭は、一瞬で彼に目を奪われた。
「──85番」
ハッとする。その青年が、いつの間にか蘭の目の前にいた。あたふたしていると、くすっと青年が笑った。
彼が指さす方向を見ると、85番と書かれた札。慌てて商品を取り出す。
Peaceと書かれたタバコを彼に差し出し、手元に視線を落としながら「600円です」と言った。
「ありがと」と青年が言って、1000円札を蘭に渡した。ドロアからお釣りを取り出し、彼に手渡すときに、蘭は無意識にちらりと彼の左腕に目をやった。どうしても赤いアゲハ蝶に目がいってしまう。
「気になる?」
くすくすと青年が笑ってくる。視線に気づかれたとわかって、顔が一気に熱くなった。
「す、すみません。じろじろ見ちゃって…」
居た堪れなくなって俯いていると、青年は蘭の顔を下から窺う。ふと目が合うと、日本人にしては少々明るい色味の瞳に捉えられた。
どういうわけか、蘭は彼から目を逸らすことができなかった。
「みすず…って、苗字?」
「…あ、はい」
「下の名前は?」
「らん、です。あの…お花の…」と、初対面の人間に対してなんの抵抗もなく答えていた。
「『蘭』、か。綺麗な名前だね」
そう言って彼は艶っぽく笑う。綺麗な人に綺麗と言われるなんて、なんだかむず痒い気分だった。
「見かけない顔だね。今日から?」
「はい。と、いうか…今日だけ、なんですけど」
青年は一瞬きょとんとしてから、「ああ」と呟いた。
「最近流行ってるよね、そういう働き方。フリーター?学生?」
「学生、です」
「それなら、なおさら働きたい時だけ働けるのいいかもね」
そう言う青年に、蘭は苦笑する。
「…て、いうか…すぐ、飽きちゃうんですよね。俺。長続きしなくて。だから、こういう方がいいかなって」
そこまで言って、喋りすぎたんじゃないかと後悔する。初対面の人と話すのは得意な方ではないけれど、こんなに緊張するのは初めてかもしれない。
彼が動くたび、話すたびに、漂う香水の匂い。低くてどこか甘い声に、くらくらとしてきた。
「…それならさ」
彼が、ずいっと顔を近づけてくる。
「いいバイト、あるんだけど。──興味ない?」
囁く声に、どくんと心臓が跳ねる。
気づくと蘭は「あるかも、です」と答えていた。
青年はくすっと笑うと、クラッチバッグから何かを取り出す。
「あ、ボールペンある?」
慌ててポケットを弄り、手繰り寄せたそれを彼に手渡した。
手が触れる。思わず離そうとする蘭の手を青年が掴んだ。
「…熱い」
そう囁かれて、ぶわっと体温が上がった。
青年が、蘭の顔を見て吹き出す。
「…可愛い反応するね」
どぎまぎする蘭をよそに、青年は、紙の切れ端にサラサラと何かを書いて蘭に手渡してきた。
ハイフンで区切られた11桁の数字が、やけに綺麗な字で書かれていた。
「これ、俺の番号。俺のことはアゲハって呼んで。さっそくなんだけど、明日…てか、もう今
日か。昼ごろって、暇?」
24時を回って、木曜日。講義もバイトもない。「暇です」と答えると「蘭ってどこに住んでるの?」と続けざまに訊かれる。
「武蔵小金井です」と伝えると、アゲハは少し考えてから「じゃ、16時頃に新宿来れる?E1出口出たところで待ってるから。見つからなかったら、そこに電話かけてきて」とだけ告げて、ひらひらと手を振りながら店を出て行ってしまった。
心臓がまだバクバクと煩い。
蘭は、アゲハが渡してきた紙を胸元でぎゅっと握った。
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