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初夜-2
朝方、バイトを終えて帰宅し、寝る準備をして布団に入る。
普段ならすぐに眠りについてしまう蘭だったが、今日はどうにも胸が高鳴って落ち着かない。
香水の匂い、触れられた手。伝わる熱。
鮮やかな赤いアゲハ蝶を纏った彼の腕。
…あれ、タトゥーなのかな。でも、それにしては傷のような見た目をしていた。
赤く浮かび上がる線が、とにかく綺麗だった。
『──あの子、血を見て笑ってたのよ』
『何にでも興味のある年頃なんだろう』
『けど、痛いとか、怖いとかが普通でしょ?ちょっと、気味悪くなっちゃって…』
『子供のやることに本気になるなって。時期に治るさ』
ふと、幼い頃、自分のいないところで、自分の話をしていた両親の会話を思い出して、胸がきゅっと締まった。
少し冷めた心に調和されて、蘭はようやく眠りにつくことができた。
☆
8時間後に目を覚まし、冷蔵庫に残っていたものでチャーハンを作って食べる。身支度を整えてから家を出た。最寄り駅まで歩いて10分。新宿までは30分かからないくらい。
約束の時間の1時間前には着く計算だ。
東京に出てきて1年以上経つけれど、新宿駅はいまだに苦手だった。どうやってもいつも迷うのだ。早めに出ておくに越したことはない。
思いの外、難なく指定された出口を見つけ、ほっと胸を撫で下ろす。
地上に出ると、それらしき人物はいなかった。
スマホで時計を確認する。15時10分。約束の時間までまだだいぶある。
16時になってそれでも彼が来なかったら電話をかけよう。…とは思うけれど。
1時間弱か…と途方に暮れていたのも束の間。
15時半頃にアゲハが現れた。
ターコイズのTシャツにグレーのサマージャケット。レジのカウンター越しだとよく分からなかったけれど、蘭よりも身長は少し高い。軽く顔を傾げれば目が合う高さだ。
腕のアゲハ蝶が見えないのはちょっぴり残念だけど、爽やかで上品な着こなしに見惚れてしまう。
特に指定されていなかったからと、メガネに着古したTシャツ、量販店で買ったデニムという出立ちの自分が隣に立つなんて烏滸がましいと思ってしまうくらい、彼は綺麗だった。
「お、本当に来たじゃん」
どこか驚いたようなアゲハの一言目に、不安を覚える。
「だめ、でしたか」
心配そうな蘭の声に、アゲハが笑い声まじりに答える。
「違う違う。声かけてもバックれる子多いからさ。蘭が、ちゃんと来てくれて嬉しいよ」
とくんと胸が鳴る。
嬉しいなんて言われたり、名前を呼ばれただけで浮かれた気分になってしまう。
不思議だ。半日ほど前に出会ったばかりの人に、こんな気持ちを抱くなんて。
「ていうか、敬語じゃなくていいよ。苦手なんだよね、硬っ苦しいの」
アゲハがそう苦笑する。
「…早かった、ね」
蘭はその言葉に甘えて恐る恐るタメ口にしてみる。
「それ、蘭が言う?何時に来た?」
「15時すぎ…かな」
「早っ」とくすくす笑われて顔が熱くなる。
「蘭って真面目そうだから、早く来るかなって思って俺も早めに来たんだけど…ほんとに早かったね。──そんなに俺に会いたかった?」
悪戯っぽいアゲハのセリフにぎょっとするけれど、蘭に否定はできなかった。
何も言えずにいると、「ほんとわかりやすい」とくすくす笑われて、顔が熱くなる。
自分のわかりやすさに辟易しながらも、アゲハに揶揄われるのは悪い気分じゃなかった。
不意にじっと見つめられて、蘭がどぎまぎする。
「蘭、コンタクトってしたことある?」
「あ、うん。いつもはコンタクトなんだけど…ちょうど切らしてて」
普段は2weekのコンタクトレンズを着用している。が、最近切らしてしまい、買いに行くのが面倒で、ここ数日はメガネを付けている。
「じゃ、まずコンタクト買いに行こっか」
すかさず「着いてきて」と歩き出したアゲハに慌てて続く。
コンタクトが必要、ということは見た目が大事なんだろうか、なんて勘繰ってしまう。メガネが悪いとは思わないけれど、少なくとも蘭のしている黒縁メガネはとても垢抜けてるとは思えない。
やっぱりこんな地味な格好はまずかったんだろうか、と不安になる。服装や身だしなみなんて、後ろ指を指されないような無難なものならなんでもいいだろうと無頓着だったことを今更後悔する。
──それにしても…バイトって、何のバイトなんだろう。
アゲハは説明しようとしないし、蘭の方からは何となく訊きづらかった。
最初提案を受けたときに、ロクに確かめずに即答した迂闊さに我ながら呆れる。
けど、内容がなんであれ、蘭は首を縦に振っていたんじゃないかと思う。というか、バイトだろうが何だって良かったのだ。
──この人のことをもっと知りたい。
そう、思ってしまったから。
☆
店に入り、いつも購入しているコンタクトを店員に伝えると、アゲハが支払いまでしてくれた。
これからも使うものだし自分で払うと言ったものの、「これもバイト代ってことで」とサラッと流されてしまった。
「ここで付けてっていいですか?」とアゲハが店員に断りを入れ、蘭はその場でコンタクトを着用することになった。ケースを持っていなかった蘭に、アゲハはケースまで買ってくれた。
「…ごめん。色々払ってもらっちゃって」
店を出てしゅんとしている蘭に、アゲハが意外そうな顔をした。
「俺が連れてきたんだから、当然だよ」
仕事の一環なんだろうけど、さらっとこんなことを言ってしまうところに大人の余裕を感じる。若そうに見えるけど…この人は一体いくつなんだろう。ミステリアスで掴みどころのない人だ。
そんなことを考えていると、「もう一件寄るところあるから、行こうか」とアゲハはまた歩き出した。
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