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初夜-3
連れて行かれたのはこぢんまりとした美容室だった。
新宿の美容室なんて初めてなので、妙に緊張してしまう。
「いらっしゃい…ああ、アゲハか。待ってたよ」
中に入ると、店員がアゲハに向かってフランクに話しかけてくる。
彼はライという名前で、1人でこの美容室を切り盛りしているとアゲハが耳打ちで教えてくれた。
席は一つだけ。ヴィンテージ風にしてあるけれど、新しめで綺麗な店だった。ただ、照明が薄暗く、どこか夜の世界を彷彿とさせる。
アゲハは片手を上げてから、蘭を手で指す。
「今日はこの子。蘭くん。素材は良いから、シンプルな感じがいいと思うんだけど…」
アゲハが説明すると、ライが蘭の顔をじっと見つめてくる。
「そうだな。服もシンプルだし、前髪を軽くして…」
蘭を見ながらぶつぶつ呟くライに「あとは任せるよ」と言ってアゲハは待合の方に向かった。
「とりあえずシャンプーしようか」と連れて行かれながら、蘭はちらっとアゲハに目線をやる。
待合のソファに勝手知ったる様子で座りながら、スマホで誰かと連絡をとっている様子だ。
──「今日はこの子」、か。
薄々勘付いてはいたけれど、きっとこうやって世話をしているのは蘭だけじゃないんだろう。
自分だってただのバイトとして会ったつもりだと言うのに、もやもやとする心に困惑した。
☆
「──はい、終わり」
重たかった前髪は軽くなり、ボサボサでほとんど手入れされていなかった毛並みはつやつやとしている。
ただ、今時のおしゃれな若者というより、シンプルで透明感のある仕上がりになっていた。
正直、おしゃれな美容師の手にかかったらどうなってしまうんだろうと不安だったので、そこまで大きく変貌していない姿にほっとした。
そうは言っても、さすがは美容師。
一見大きく変わっていないように見えても、どこか垢抜けた雰囲気になったのは自分でも分かった。
髪型って大事なんだなと改めて思う。
普段は1000円カットで済ましている蘭だったが、今時リーズナブルな美容室もあるし、そう言うところに行ってみるのも良いのかも、なんて考え始めていた。
──これからもアゲハさんに会うんだとしたら、少しでも見た目に気を遣いたい。
なんて考えたところで、今日ですら何をするのか分かっていないくせに、と図々しく感じて恥ずかしくなった。
「蘭くん、素材が良いからシンプルな感じが似合ってる。イケメンは得だねぇ」
なんて揶揄う調子でライに言われ、蘭が苦笑する。わかりやすいリップサービスにスマートに返事できる術を蘭は持ち合わせていなかった。
待合に向かうと、顔を上げたアゲハが目を丸くした。
こちらをじっと見つめながら、アゲハは何も言わない。
蘭は困惑しながら目を泳がせる。お気に召さなかったのだろうかと不安になる。綺麗にしてもらったとは言え、俺じゃ、華やかさが足りないのかも──
悶々と考え始めたところで、アゲハが立ち上がる。無言で近寄ってくるアゲハに、思わず後退りする。
アゲハはすっと蘭の頬に手を添える。唐突に触れられて、蘭は体を硬直させた。
アゲハはニヤッと艶っぽく口角を上げた。
「──やっぱり、俺の目に狂いはなかった」
目が合っただけで、捉えられた気持ちになる。長くて綺麗な指が、蘭の耳、首筋をなぞる。動悸がして、全身が一気に熱くなった。
「ていうか、やっぱライに頼むのが一番だね。下手なとこ行くと客の雰囲気とか骨格とかなんも考えずに流行りの髪型とかにしたりするもん」
パッと蘭から手を離して、アゲハがライに話しかける。「気に入ってもらえてよかったよ」と彼は小さく笑った。
手が離されても、まだ胸の高鳴りは治らない。
「蘭は外で待ってて」
そう声をかけられて、呆然としていた蘭はハッとして慌ててこくこくと頷く。
「ありがとうございました」と会釈をすると、ライが片手を上げた。
出入り口の方に向かいながら、蘭はアゲハに触れられた部分をそっと触り、体を熱くする。
一体何をさせられるんだろうという一抹の不安は、すっかりアゲハの熱にかき消されてしまっていた。
△
「本当にありがとうね、また頼むよ」
「はいはい。またバーの方も顔出せよ」
アゲハに笑顔を向けて手を振る。満足げに去っていくアゲハの背中を、ライが無表情で見つめていた。
「──可哀想に」
ぽつりと呟く。
──また1人、何も知らない無垢な獲物が、妖艶で美しいアゲハ蝶に捕まってしまったのか。
アゲハは哀れな男だ。ああやって人の体や心を弄ぶことでしか立っていられないのだから。
ただ、それを止める術を持たない自分に、彼を責める資格などないのは弁えている。いちいち気にしていたら、この世界では生きていけない。
ライは誰もいないのにため息を吐いて、ひとつ伸びをしてから、気持ちを切り替えて次の客を迎える準備を始めた。
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