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初夜-4

美容室を出て駅へ向かうと、そこにはアゲハの車が停めてあった。グレーのセダンだ。華やかな外見の彼が、落ち着いた雰囲気の国産車に乗ってるのは少し意外だった。 車中では、たわいもない話を2人でする。 「ずっと東京なの?」 そう尋ねられて、蘭は頭を振る。 「埼玉から来たんだ。大学が東京だから、こっちで一人暮らししてる。…アゲハさんは?」 「俺は生まれも育ちも東京。てか、新宿」 アゲハは案外自分の話をしてくれた。 彼はずっと東京に住んでいて、ほとんど出たことがないらしい。 「生活も娯楽も困らないし、旅行に興味がないから」 新宿生まれと言うからよっぽど良い育ちなのかと思ったら、そういうわけでもないらしい。 「子供の頃は築年数が半世紀近いボロいアパートで過ごしたよ。母親が水商売しててね、通勤に便利だったのかな。ま、数日に一回くらいしか帰ってきてた記憶ないけど。一応父親もいたけど、こっちはもっと会わなかったな」 今は一人暮らしでそこそこ良いとこに住んでるけどね、とおちゃらけるように笑う。 アゲハはさらっと口にしたけれど、なかなか壮絶な人生に何と答えて良いのか分からず、曖昧に相槌を打つしかできなかった。 それでも、アゲハが自分を開示してくれたことを嬉しく思った。 「蘭は上京して何年?」 「大学入った時からだから…1年は経ったかな」 「てことは…今2年生?えーっと…じゃあ、学年は俺のが一個上か」 思わずえっと声を上げる。 「そ、そんなに若いの…!?」 蘭は早生まれなので今19歳だが、20歳になる年。つまり、アゲハは今20歳か21歳ということになる。 若くても24、25くらい、なんならもっと上だと思っていたので唖然とした。 蘭の反応にアゲハが苦笑する。 「よく言われるんだよね。老けてるって」 アゲハの自嘲に蘭がぶんぶんと首を横に振った。 「そ、そんなんじゃなくて…身なりがちゃんとしてるし、大人っぽいし…ほとんど同い年なんて信じられないくらい綺麗で…」 そこまで捲し立ててハッとする。アゲハはぽかんとしている。 綺麗、なんて思わず口をついて出てしまい、恥ずかしくてたまらなくなった。 アゲハは小さく吹き出す。 「…ありがと。嬉しい」 はにかむアゲハに、胸がきゅっとなった。 綺麗なんて、きっと言われ慣れてるだろうに、どうしてちょっと照れくさそうに笑ってくれるんだろう。 きっと、この人にのめり込んだら碌でもないことになる。人生経験の浅い蘭にも理解はできた。ただ、理解できたからって、心が止めてくれない。 完璧な見た目。その内側に孕む傷。 蘭は、彼にどうしようもなく惹かれてしまった。 ☆ 蘭の目の前には、デザイナーズマンションのようなスタイリッシュな高層ビルがあった。 呆けた顔でそれを見上げる。 アゲハが車を停めたのは、恵比寿にあるホテルだった。 そこに辿り着くまでの道中の景色も、洗練された高級住宅街という感じで、ずっと蘭の不安を煽っていた。 今までも縁がなかったし、これからも降り立つとは夢にも思ってなかった。そもそも、行こうと思ったことすらない。 「じゃ、行こうか」 「ちょ、ちょっと待って」 さっさと中に入ろうとするアゲハを、慌てて呼び止めた。 「お、俺、こんな格好だけど…こんなとこ入ってもいいの?」 アゲハがきょとんとしてから吹き出す。 「別に変じゃないよ。あまりにもダサかったら着替えさせるとこだけど、許容範囲。ていうか、蘭のあどけない雰囲気にはそれくらいがいいよ」 フォローされてるんだか貶されてるんだか微妙なラインの言葉では、蘭の憂慮は消えなかった。でも、と躊躇う蘭に、アゲハはくすっと笑ってその手を優しくとった。 長い指が蘭のそれに絡みつく。触れているのは一部分なのに、身体中が熱くなる気がした。 「部屋から出ないから大丈夫だよ。──蘭は、俺に着いてきてくれるだけで良いから」 低くて甘い声。優しいその声が全身を巡る。 それだけで、支配された気分になった。 「行こう」と誘うその声に、蘭はほとんど無意識に足を進めていた。 2階の受付に繋がる階段を登って中に入る。シンプルながらも、外観の雰囲気と相違ない洗練された雰囲気を纏う。 受付を素通りして、アゲハはエレベーターへと向かった。持っていたカードキーをかざし、最上階のボタンを押す。 窓のない空間で2人きり。2人とも扉の方に体を向けている。ほとんど揺れもなく、静かに登っていく筐体。 黙り込むアゲハに、緊張感が増す。嫌な予感が頭を掠める。 決まったわけじゃない。けど、ホテルというシチュエーションにピンとこないほど、蘭は子供ではなかった。 「名前、付けなきゃね」 ふいに、アゲハが口を開く。 唐突なセリフに「…名前?」と不安そうに蘭が訊く。 「本名だとアレだし。…美須々蘭だから──スズラン、とかどうかな。とりあえず、今日のところは」 スズラン、という響きに何だかぞくっとした。 綺麗な言葉なのに、どこか、艶のある棘を孕んでいる。そんな雰囲気があった。 というか、本名だとアレって、どういう意味だ。不安が募って心を埋め尽くしていく。 「ねえ、バイトって…どんな内容なの?」 蘭は意を決してそう尋ねた。アゲハは、ああと小さく答えた。 「そういえば、伝えてなかったね」 やけに白々しく聞こえるセリフ。アゲハが、首だけ蘭の方に向けて、小さく笑う。艶やかさは健在だけれど、それに加えて、視線が鋭くなっている気がした。 獲物に目をつけた、獣のような視線。ゾッと背筋が凍る。 「まあ、ここまで来ちゃったし、部屋に入ってからのお楽しみってことで」 はぐらかされたところで、タイミングよく到着を知らせるベルが鳴り響いた。扉が開く瞬間、アゲハは蘭の手をとった。 「ほら、着いたよ」 アゲハにエスコートされながらエレベーターから降りる。 廊下には、間接照明がいくつかと、デザイナーズ空間らしくアートが飾ってあった。 薄暗い廊下を歩いていくと、角にひとつだけ扉があった。 アゲハがカードキーをかざすと、カチャリと鍵が開く音がした。アゲハが扉を開いて、蘭に入るように促す。 恐る恐る足を踏み入れると、目に飛び込んできた光景に蘭は目を見開いた。

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