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第45話 そして隣には君がいる
「紫季、お疲れ。卒業おめでとう」
「何回目だよこの会話」
二人は校門からバス停までの道を並んで歩く。
何度も一緒に歩いたこの道。
きっとあと少しで、この桜並木も満開になる。
でも、それを見る頃にはもう、ここに自分たちの制服姿はない。
幼稚園の頃から、ずっと同じ道を歩いてきた。
四月からは、初めて別々の道を行く。
そう思っただけで、喉の奥が少しだけ詰まった。
別に、寂しいわけじゃない。
でも、いつも当たり前だったものが当たり前じゃなくなることに、体のどこかがまだ追いついていない。
紫季はいつもより、ほんのちょっとだけ凛太朗に近づいて歩いていく。
たまに手が触れるけど、繋ぐ勇気はない。
すると、凛太朗がガバッと紫季に覆い被さり、そのまま自然に肩を組んだ。
「最後だもんね。手、繋ぎたいね」
心臓が、キュンと縮こまる。
(同じこと、考えてる……)
目の奥が熱くなり瞳が潤んできた。
(ダメだ……情緒不安定だ……)
紫季は、たまらず鼻をずずっと啜った。
「紫季。泣いてんの?」
「泣いてない!見るなバカ」
精一杯強がってみせたが、きっと凛太朗はわかっている。
紫季は少し俯き、自分より少し広い歩幅で歩く凛太朗についていった。
「紫季、今日のことだけど——」
「覚えてるよ。二人で親にルームシェアの許可もらうんだろ?」
「うん。……そうなんだけど」
凛太朗の声が、少しだけ低くなる。
組んでいた肩が外れたと思ったら、紫季の手首を軽く引いて、立ち止まらせた。
ちょうど、バス停に着く。
二人は並んでベンチに腰を下ろす。
沈黙が少しだけ流れて——やがて、凛太朗が口を開いた。
「紫季。……おじさんと、ちゃんと話したほうがいいと思う」
その声は、責めるでも押しつけるでもなく、ただまっすぐだった。
「再婚してから、あんまりちゃんと話せてないだろ?見てればわかるよ。紫季、どこか無理してるの、気づいてた」
紫季の視線が、膝の上で組んだ指に落ちる。
否定しようとして、言葉が喉につかえた。
「……別に、困ってるわけじゃない……」
「紫季がいいならそれでもいい。けど、もし心に引っかかるものがあるなら、今のうちに向き合っといたほうがいい」
凛太朗は、紫季の手にそっと優しく触れる。
そのぬくもりが、想像していたよりずっとやさしくて、紫季は思わず息をのんだ。
凛太朗は、ふっと目を伏せる。
紫季の手を包んだまま、しばらく何かを迷うように指先を動かして——
それから、ぽつりと呟いた。
「……俺はもう、父さんには会えない」
小さく呟かれたその言葉に、紫季は顔を上げる。
凛太朗の目は、いつもより少しだけ遠くを見ていた。
「できるだけ悔いのないよう、生きている間に沢山……沢山話をしたんだ。
その時間を取るために、予備校も変えたしね。
でも……それでもやっぱり、まだ足りないって思うんだよ……もう一度、笑い合いたかったし、もう一度、相談したかった」
凛太朗の声が、かすかに震えた。
けれどその手は、紫季の手を包んだまま、ほんの少し強くなる。
「でも、紫季は違うだろ?今、ちゃんと生きてる。
わだかまりがあるなら。伝えたい事があるなら。
ちゃんと話した方がいい」
紫季の胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。
あたたかくて、でもどこか痛い。
そんな凛太朗のまっすぐさが、心の奥まで刺さってくる。
「俺は、紫季に……後悔だけはして欲しくない……」
紫季は黙ったまま、繋がれた手をそっと見下ろした。
春の光が、ほんのりその指先を照らしていた。
そのぬくもりが、胸の奥の、ずっと冷たかった場所を、じんわりとあたためていくようだった。
「ただいま」
「おかえり。紫季くん。卒業おめでとう」
「おめでとー」
茜と葵は玄関で紫季を出迎えた。
「ありがとう。あおもありがと」
紫季は葵の頭をポンポンと撫でる。
「父さんいる?」
「うん。書斎で仕事中だよ」
「わかった。ありがとう……ちょっと行ってくるね」
書斎の前で、紫季は一度深呼吸してから、扉をノックした。
「父さん、今いいかな?」
「おぉ、紫季。入っておいで」
扉を開けた瞬間、いつもの香りがふわりと鼻先をくすぐった。
古本の乾いた匂いと、新しい紙のインクの匂い。
紫季にとって、それは“父さんの部屋”そのものだった。
奥の机に向かう背中。
いつの間にか、こんなに小さくなっていたんだ、と気づく。
「紫季、卒業おめでとう」
父は、手を止めて紫季の方に振り向いた。
「ありがとう。これ卒業証書」
「うん。よく頑張ったな、紫季。英数科、大変だっただろ?」
「まぁね、でもやりたい事だったから……」
「そうか」
言わなきゃいけないことは、ずっと胸の奥にあった。
でも、いざ言おうとすると、言葉が喉の奥でひっかかって出てこない。
胸の真ん中が、ぎゅっと締めつけられる。
このまま黙っていれば、何も変わらない。
でも、変えたいと思ったのは、自分だ。
紫季は拳をぎゅっと握る。
「……あのさ」
言いかけて、紫季は視線を落とす。
父の顔が視界に入って、それだけで昔の記憶が押し寄せてくる。
「なんだ、紫季。言いたい事があるなら言ってごらん?なんでも聞くから」
父の言葉と、慈愛に満ちたまなざしを見た瞬間———
紫季は堰き止めていた感情が一気に溢れ出した。
「……父さん……俺の事、重荷だった?」
父の表情が、はっと変わった。
「俺のせいで、離婚して……親権まで持って、大変だっただろ?
今になって、ようやく少しわかる気がするんだ。
父さんは、すごい大きな決断をしたんだなって。
それなのに、俺……あんな事件、起こしちゃって……
あれで、父さんは営業の仕事、辞めることになった。
……ほんとは、俺のこと、重かったんじゃない?
しんどかったんじゃないの?
だから……茜さんみたいな優しい人に惹かれたんじゃないの?」
紫季の声が震えた。
父は一瞬、動きを止めた。
ただの一瞬——でも、その沈黙が、紫季には答えのように思えて、心がざわついた。
でも次の瞬間、父は椅子を乱暴に引いて立ち上がった。
まっすぐ紫季の前に立ち、肩をがっしりと両手でつかんだ。
「……違うっ!!」
その声は、今まで聞いたことのない、切羽詰まった叫びだった。
「違う……紫季、それだけは絶対に違う!!」
父の目が、真っ直ぐ紫季を見つめていた。
その目の奥で、何かがこらえきれずに揺れていた。
「お前がいたから、俺は今まで、生きてこられた。
朝、仕事に行く意味があった。
夜、帰る場所があった。
——それは全部、お前がいたからだ」
「でも……っ」
紫季が何かを言いかけたその瞬間、父はその言葉を抱きしめることで止めた。
強く、強く、ぎゅっと引き寄せる。
その腕の中で、紫季は何も言えなくなった。
「俺は、あのとき全部投げ出してもよかった。仕事も、世間体も。
だけど、紫季だけは、手放したくなかった。
お前のこと、守れるなら、それだけで良かった……」
「……っ……うそ……だって……」
紫季の喉がつかえる。涙がこぼれそうなのに、必死でこらえる。
「うそなんかじゃない!!
お前を愛してる。誰よりも、何よりも。
……紫季、お前は俺の——誇りだ」
その瞬間、紫季の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
喉の奥から声にならない声が漏れ、両手で父の背中を掴んだ。
「……父さん……っ、俺、……っ、邪魔じゃない?」
涙が止まらなかった。
もう高校を卒業したのに、ただの子どもみたいに、泣いた。
「そんなこと、あるわけないだろ?」
父はその背中を抱きしめ続けた。
言葉なんて、もういらなかった。
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