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第5話③
「……」
ふたりきりになった座敷に、ざざんと波の音と、ウミネコの鳴き声が響く。
(ば、ばあちゃん……! なんでそんなこと言っちゃうの……!!)
なんだか一気に羞恥がこみあげてきた。ばあちゃんに心の裡を知られていたことも恥ずかしいし、千里くんの前で思いっきり子ども扱いされたことも恥ずかしい。
変な汗をかきながらも、僕は千里くんにラムネの瓶を差し出した。
「あの、これ……」
「おう……サンキュ……」
受け取った千里くんが、少し眉を寄せる。
「――あ。もしかして、ラムネ嫌いだった?」
「いや……違うんだけど、俺、ラムネ飲んだことねえ」
「えっ、嘘っ!」
さっきまでの羞恥も居たたまれなさも吹き飛び、僕は思わず大きな声を出してしまった。だって『ラムネを飲んだことがない』だなんて信じられないじゃないか!
「い、い、い、一回も飲んだことないの?」
こくん、と千里くんが頷く。
「……それは人生の半分、損してる」
僕の言葉に千里くんが目を剥いた。
「は、半分? 大袈裟じゃねえ?」
「ぜんぜん大袈裟じゃないよ」
僕は重々しく頷いて手を差し出した。
「貸して。ラムネ開けてあげる。コツがあるんだ」
「お、おう」
千里くんからラムネを受け取り、ナイロンの包装を剥がす。外した蓋を瓶の上部に押し当てた。そのままぐっと強く押し込む。瓶の上半分が、白い気泡で泡立ち、おぉっと千里くんが声を上げた。
「ここで手を離すと噴き出しちゃうから、じっと待つのがコツ」
僕は説明しながら、そのまま手のひらを押し当て続けた。十秒ほど待ち、ゆっくりと手を離す。気泡が消えて透明になったラムネ瓶を千里くんに渡した。
「飲んでみて」
千里くんは受け取り、恐る恐るといった感じで口元に近づけた。そして思い切ったように口をつけ、瓶をあおる。ぐっ、ぐっ、と、千里くんの大きな喉ぼとけが上下する。やがて飲み干した千里くんは顔を正面に戻し、僕を見て叫んだ。
「うまい!」
その満面の笑顔を見た瞬間、うわっと変な声が出そうになった。
僕の胸の中で何かがしゅわと音を立てて弾けたのだ。まるで炭酸が噴き出していくように、胸の底から細かい泡が無数に湧き上がってくる。
どくん、と心臓が大きく打つ。
茫然と目を瞬く僕を、千里くんが不思議そうな顔で見た。
「どうしたんだ? 凪は飲まねえの?」
「う……うん。飲むけど」
(今のって、いったい何……?)
ラムネの瓶を開けながら、もう一度自分の内側を覗き込むような心地で、胸の感触を浚ってみる。でもまるで泡が跡形もなく消えたように、なんの気配も見つけることが出来ない。
考えながら手を動かしていたのが悪かったのだろう。気が付くと手元の瓶かは炭酸がしゅわしゅわ溢れていた。
「うわっ!」
「凪、もったいない! 吸って!」
「う、うん!」
僕は慌てて瓶に口をつけた。おもいっきり瓶を呷れば炭酸の泡が弾けながら喉を滑り落ちる。それはさっきの胸の感触にどことなく似ていて、気が付くと僕は一気にラムネを飲み干していた。ふうと大きく息をはくと、正面で千里くんが笑い声を立てた。
「すげえ飲みっぷり。でもわかる。ラムネってすげえうまいもんな。俺、今まで人生の半分は損してた」
「……わかればよろしい」
はは、と千里くんが笑いながら、空になった瓶を振る。ビー玉が瓶にあたってカラカラと音を立てる。
「なあ凪、このビー玉、取れんの?」
「うん。上の青いところを捩じって外せば」
「ほんとだ、外れた」
千里くんの指がビー玉をつまみ、目の高さまで掲げる。それを覗き込んだ千里くんが「あ、凪が写ってる」と笑う。
僕もつられるように、自分のラムネの瓶からビー玉を取り出しそっと覗き込んだ。
ビー玉に映っているのは、逆さまになった千里くんの顔と、その後ろに広がる青い空と海。青と白い光の気泡。
さっき引いていったはずの胸のしゅわしゅわが、また戻ってくる。
(――えっ)
驚いてビー玉から目を離した。ほんの少し動揺しながらも目の前の千里くんに目をやる。
そして僕はまた目を瞬いた。ビー玉を通さない千里くんは逆さまでもなく、白い気泡も身にまとってない。それなのに空と海の青を閉じ込めたような眩しい世界の中で、千里くんの笑顔はなぜか一番に煌めいて見える。
(あれ……? なんで僕……)
「なあ、凪」
俯いてビー玉をいじくりながら、千里くんが口を開いた。
「俺といっしょに、オープンキャンパス行かねえ?」
「――え?」
俯いた千里くんの瞼がかすかに震えているのが見えて、なぜだかもっと動揺して、千里くんの言葉を聞き逃してしまった。
「えっ、あっ、何?」
千里くんが顔を上げる。すこし怒ったような顔をした。
「だから、大学のオープンキャンパス。ちょうど来週に、俺が行きたい地元の大学であるんだよ。ここからでも日帰りで行けるし、いろんな資料もらえるし話も聞ける」
「あ、で、でも。仕事もあるし」
「豊さんと美千代さんに頼んでみようぜ。一日だけ休み貰ってさ。……俺、お前と行きてえ」
――お前と行きてえ。
その言葉に、なぜか心臓のあたりがまたしゅわっとした。僕は言葉が出なくて、咄嗟に頷いてしまった。
「ほんとか?」と千里くんが嬉しそうに身を乗り出してくる。
「あ、うん……僕も……千里くんといっしょに、行きたい」
僕の言葉を聞いて、千里くんは満面の笑みを浮かべた。それを見た瞬間、また心臓の中でしゅわっと気泡が立つ。
ざざん、と波の音がして、ウミネコの鳴き声がする。空はピカピカに晴れ上がって海は眩しくて、目の前で千里くんが楽しそうに笑っていて、僕の胸はラムネみたいにしゅわしゅわして。
(この感じはなんだろう)
初めて感じる感情に、僕は胸のあたりを抑えて慎重に呼吸を繰り返した。
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