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1章 虫入琥珀と冬虫夏草

 ただ無感情に教科書を読み上げる声に合わせて、スクリーンに映し出されるスライドが入れ替わる。  数種類の虫の画像や、生態を箇条書きしたもの、真菌に覆われたそれらの成れの果ての姿や、結晶に閉じ込められて美しいまま時を止めた標本のような姿……淡々とした説明と共に画像が変わっていく度に教室内に感心するような声や、嫌悪感を露わにするようなざわめきが起きる。  同級生たちが好奇心に満ち溢れた眼差しを教壇に向ける中、一条トワはまるで居眠りをするように腕に顔を埋めて机に伏せていた。  なんで、あんなものを平然と見られるんだよ……  空っぽの胃から込み上げるものをぐっと堪えると、喉が焼けるようにヒリつく。眉間に深い皺を刻んだ彼は、教科書の影で縮こまるようにして二の腕で自身の耳を強く塞いだ。  高校三年の生物学、今日はその中でも全員出席必須の特別講義の日だ。  普段なら、昼食後のこの科目の教室内は大半の生徒が船を漕いでいるか、教師の目を盗んでスマホを弄っている。しかし、今日に関しては皆が授業に夢中になっていた。物珍しい「虫」の標本に……自分たちと同じ姿形をした「虫(インゼクト)」と呼ばれる人々の標本に彼らの眼差しは釘付けになっている。  この世には、男女とは別に四種類の「第二の性」が存在する。  虫と同じ特徴が体質に現れる「インゼクト」  インゼクトと結ばれることで虫入り琥珀のように永遠の命を得ることができる「ハルツ(樹液)」  インゼクトに寄生することで冬虫夏草のように不死の妙薬を生み出すことができる「ピルツ(真菌)」  そして、それらのどれにも属さない人口の大多数を占めている「ノーマル」  「ピルツ」や「ハルツ」と結ばれた「インゼクト」は標本のような姿になり、魂のない抜け殻になってもなおこの世にあり続ける亡骸となる。  「ノーマル」である彼らにとってその標本のような亡骸を見ることは、自身の興味感心や怖いもの見たさといった欲求を満たす見世物小屋を覗くような感覚と同じようなものなのだろう。  吐き気がする……  まるで殻に閉じこもるように感覚を遮断したトワの意識は次第に深い闇へと沈んでいった。 ◇ 「…………」  暗い闇の中、壁一枚隔てた向こうからするようなくぐもった音がする。  音のする方へと歩みを進めると、次第にそれは鮮明で意味を持った音へと変わっていく。 「……トワ」  誰かの呼び声がする。 「トワ!」  声に導かれるように、一歩ずつ歩みを進めるとぽつりとこの闇の出口が見えてくる。温かな光の差し込むそこへ無我夢中で手を伸ばすと視界が真っ白に塗りつぶされ、思わず固く瞼を閉じた。 「トーワ!」  あどけない、鈴を転がすような声。  滑らかなその声は、まるで踊るように軽やかにトワの周りを駆け回る。 「ねぇ、トワってば!」  そうだ……これはあの子の声だ。  何年経っても忘れることのない、あの頃のまま時が止まったあの子の声だ。    きっと灼けるような眩しさのせいだろう。  固く閉ざされたトワの双眸から一筋の雫が零れた。 ◇ 「トワ!」 「っ!?」  背中を強く叩かれ、一気に意識が浮上する。コンタクトレンズがズレてチクリとした痛みが走った目を何度か瞬かせ、声の主に非難の眼差しを向けると、前の席の木元がニッと人懐っこい笑みを浮かべた。 「トワ、何寝てるんだよ。もう授業終わっちゃったぞ」 「……」  トワの顔を覗き込み、眼前で木元がヒラヒラと手を振った。彼の鮮やかな赤に染まった髪が明るさにまだ慣れない目に刺さる。 「おーい、まだ寝ぼけてるのか?」 「寝ぼけてない……気分が悪いんだよ」 「さっきの授業のせいか?確かにアレは『閲覧注意』って感じだったもんな」  彼は先程の授業を思い出したのか、眉を顰め表情に嫌悪感を滲ませながら続けた。 「パートナーをキノコだらけにして殺すとか、マジでキショいよな……流石に繊細なトワおぼっちゃまには刺激が強すぎたか?」 「違う」 「ははっ!冗談だよ。そんなに睨むなよ。じゃあ、糸村とマック行こうって言ってるんだけどそれは……」 「パスで」 「そっかぁ……残念」  そう言いながら木元は露骨にシュンと肩を落とした。まるで遊ぶのを断られた犬のようだ。 「了解、お大事にな。気を付けて帰れよ」 「……あぁ」  普段は心地よい木元の能天気な明るさが、今日は妙に癪に障る。  「あれ」を見てもまだ平然としていられる彼らと自分との間にある目に見えない隔たりをまざまざと見せつけられるこの授業がトワは大嫌いだった。  きちんと整えた髪を掻き乱しながら、重たい身体を引きずって校門へ向かう。血の気が完全に失せたトワの顔色は元の白さと相まって今にも透けてしまいそうだ。  校門の目の前、いつもと全く同じ位置に一台の黒いセダンが停まっている。いつもと同じようにそれに乗り込むと、いつもと同じタイミング、いつもと同じ感情の込もっていない声でいつもの運転手が口を開いた。 「おかえりなさいませ、トワ様」  運転手の上辺だけの挨拶に適当に返事をし、シートベルトに手を伸ばそうとすると、右目にチクリとした痛みが走る。再び何度か瞬きをし、軽く擦るとポロリとコンタクトレンズがこぼれ落ちた。  制服に引っかかった黒のカラーコンタクトを拾い、手のひらでぎゅっと握りつぶしたトワの右目はまるで陽光の中で輝く琥珀のようだった。  一条トワは「ハルツ」だ。  彼の黒い双眸が琥珀色に変わった日、彼の人生は一変した。 ◇  中学二年の春、柔らかな日差しの下、木々が次々と芽吹く季節。  目覚まし時計が起床の時刻を告げているにも関わらず、トワはすっぽりと頭から布団を被って一向にベッドから出ようとしない。  「春眠暁を覚えず」なんて言葉があるが、この日のトワは目覚まし時計よりも早く起きていた。  ……否、眠ることができなかったのだ。  深夜から続く全身に走るナイフで切りつけるような痛み。この痛みが、トワが眠りにつくことを許さなかった。  始めは我慢できる程度の痛みだった。このまま朝になれば治るだろうと思って思ってしまう程度には。しかし、そんなトワの予想は大きく裏切られ、痛みは次第に強くなっていく。  空が白み始める頃には、身体の内側を灼かれるような痛みに襲われ、彼は布団の中でうずくまることしかできなかった。もしもこの不可解な痛みが外傷によるものだったら……今頃このベッドの上には深紅のシーツと本来の形が分からないくらい切り刻まれた肉塊しか残っていなかっただろう。  強さも間隔も、そしていつまで続くかも予測できない逃れようのない痛みに気が狂いそうになる。  皆が寝静まり、現にただ一人取り残されたトワは狂気じみた痛みに飲み込まれないようにそれよりも強い刺激を求めた。  強く噛み締めた彼の歯が柔らかいものに沈み込む。  口の中に鉄の味が広がった。 …………  目覚めて初めて見たものは見知らぬ天井だった。  まだ軋む身体をなんとか起こし、辺りを一周見渡す。  白い壁紙に白いシーツ、窓を覆う白いレースカーテンの向こうにはうっすらと鉄格子のシルエットが見える。恐らく病院に運び込まれたのだろう。  現実味がない、居心地の悪さすら覚えるほど清潔すぎる空間。目が痛くなるようなシミひとつないここが自分が意識を失う前の世界と地続きになっていることを確認できるものは、正気を保とうと無我夢中で噛み締めていた自身の手首に巻かれた包帯くらいだ。  淡い水色の病衣から伸びる白く血の気のない腕をゆっくりと動かすと、包帯の下に鈍い痛みが走った。  身体に繋がれた何本もの配線の先にある何かの計器が一定の間隔で無機質な音を刻む。その音を聞きながらしばらくぼんやりしていると、扉が開く音と共に白衣を着た男が部屋に入ってきた。  親しみやすい笑みを口元だけに浮かべたその男は、メガネのブリッジを押し上げ、口を開いた。 「お加減はいかがですか?一条さん」 「……?」  医者の口から出た耳慣れない名前のせいで反応が遅れる。 「あぁ、無理に声を出そうとしなくてもいいですよ。一週間も眠ってたんですから」  一週間だって?  困惑するトワに構わず、医者はそのまま一週間の間に彼の身に起きたことを事務的に説明し始めた。しかし、まだ覚醒しきっていない頭では彼の話の一部しか理解することができなかった。  自分が一週間意識を失っていたこと  自分の身に学校の授業で他人事だと思って聞き流していた第二の性の分化が起きたこと  自分はその中でも「ハルツ」に分化したこと  そして、その中には信じがたいものもあった。  トワを是非養子として本家に迎え入れたいと母方の遠縁の親戚から要請があったこと  自分のいるこの監獄のような病院がその本家……「一条家」が経営していること  ここから先のことはよく覚えていない。  ただ、最後に医者に差し出された鏡に映った自分の琥珀色の瞳が放つ不気味な輝きは妙に記憶に焼きついている。  彼の双眸が琥珀色に変わった日、「樹トワ」は死んだ。  家族、居場所、思い出……持っているものを全て奪われた彼に与えられたものは「一条トワ」という耳慣れない名前と、ハルツの忌々しい体質だけだった。

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