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2章 契約と虫籠
「っ!?」
道の窪みにタイヤが沈み、一瞬車体が大きく揺れる。
過去に傾いていたトワの思考が一気に引き戻された。
あの授業のせいか、今日はやけに過去のことを思い出す。
記憶の奥底に封じ込めたものを無理やり引き摺り出されたようでやり場のない苛立ちが募る。心の底に蓄積された澱を吐く出すようにため息を吐き、視線をぼんやりと窓の外に投げた。
学校から離れれば離れるほど、窓の外の景色が徐々に閑散としたものに変わっていく。家が消え、人が消え、その代わりに木々が深くなっていく。そして、一条家の人間すらほとんど近付かない薄暗い林の奥にトワの家がある。彼と片手で収まる人数の使用人しかいないひっそりと佇むその家は、家というよりは誰にも侵されたくない所有物を納める匣のようだ。
「……時間の変更が必要でしたら……トワ様?」
「ん?」
運転手に視線をやると、彼は前を向いたまま溜息を滲ませた声色で言った。
「来週の送迎の件です」
「あぁ、いつも通りでいいよ」
時間の変更ができたところで、この「匣」以外のところには帰れないのだから。
小さく舌打ちをし、窓の外に視線を戻すと奥の方で「匣」に明かりが灯るのが見えた。
帰宅する頃にはとっぷりと日が暮れていた。
トワは八つ当たりをするように車のドアを乱暴に閉め、誰とも顔を合わせないように足早に自室に直行した。
制服のまま一人で寝るには大きすぎるベッドに四肢を投げ出す。先ほどからポケットの中で振動し続けていたスマホを取り出すと木元たちから何件ものメッセージが来ていた。
【元気のないトワにカロリーのお裾分け!たくさん食べて早く寝ろよ!】
そんな木元のメッセージを皮切りに、放課後にバーガー以外にも何軒か食べ歩きした時の飯テロじみた画像が連投されていた。
普段は大人しい糸村ですら木元に肩を組まれている写真を送ってきたくらいだ。余程楽しかったのだろう。
ベッドに寝そべった黒猫のスタンプを一つだけ送り返すと、間髪入れずに彼からトワを寝かしつけるようなメッセージが届く。それ以降は先ほどまでの賑やかさが嘘のようにトーク画面が静まり返った。
思わず緩んだ口元からフッと息が漏れる。薄暗い部屋の中で、その音がいやにはっきりと響いたような気がする。
「…………」
思春期の身体は正直だ。このまま眠ってしまおうとすると、朝食を食べてから何も口にしていないトワの腹の虫が控えめに抗議の声を上げた。
「……クソッ」
もたもたと身体を起こしながらネクタイを緩めたトワはスリッパを引っ掛けて部屋を後にした。
完全に夕飯のタイミングを逃した時間帯にも関わらず、無駄に大きなテーブルにはきちんと一人分の食事が用意されていた。先程散々見せられた飯テロ写真と比べたら健康的だが味気のなさそうなそれは、こちらの動きに合わせて配膳されたのかまだ湯気が立っている。
煮物のフキを除け、エビの入った汁物に蓋をし、残りを黙々と胃に押し込んでいく。腹の虫がようやく納得し、席を外そう腰を浮かすと、背後に人の気配を感じ反射的に振り返った。
「っ!?」
「こんばんは、トワ様」
音もなくいつの間にか背後に立っていた彼は、トワを一瞥すると続けてこう言った。
「当主様からの伝言を預かってまいりました」
抑揚のない声でそう告げたのは一条家の家令の藤木だ。いつも身体のサイズに合ったスーツをきちんと着こなし、ロマンスグレーの髪を少しの乱れもなくピタリと撫で付けており、いかにも神経質そうな出立ちをしている。彼は本邸の方に常駐しており、ここに来る時は決まって碌でもないことを持ち込んでくる。
「あのクソジジ……」
「ジジ?」
伏せられた藤木の視線がメガネのレンズの奥でチラリと上がる。
シワが深く刻まれた目元の奥。そこには老いてもなお衰えない鋭い眼光が覗く。風の無い日の凪いだ湖面のような静けさを纏う彼の眼差しには、有無を言わさぬ圧力が宿っている。トワはここまで出かかった言葉を飲み込み、再び口を開いた。
「っ……おじい様がどうしたんだ?」
「『虫籠』の件、まだ進んでいないのか、と」
「…………」
またこの話だ……
一条家は医療事業を手広く展開している。その中でも特に「第二の性の研究」が代表的だ。その研究施設には、希少且つ常に危険に晒されているインゼクトを保護するための「インゼクト養育施設」としての一面もあり、彼らの健康と安全を守るために日々研究に心血を注いでいる。
……なんて耳障りのいいことをのたまっているが、そんなのは表向きの話だ。
人々が渇望して止まない不死の力。その力を自らの意のままに使うことができたら……医療分野において頂点に君臨し、巨万の富すら思いのままだろう。
そしてその不死の力の鍵を握るのが「インゼクト」だ。養育施設とは彼らを一箇所に集め、他の第二の性を持つ人間と契約させることを目的に設置されたものである。
そこに収容されたインゼクトたちに与えられた選択肢はただ二つ。
一つ目は、ピルツと契約し、不死の妙薬となった躰を傘下の製薬会社に提供される。そして二つ目は一条家のハルツと契約し、美しいまま時を止めた躰を標本蒐集家に高値で譲り渡される。
どちらにせよ、彼らがここから出るには希少価値の高い「標本」となるしかないのだ。
そして、インゼクトとの契約によって永遠の命を得た一族の人間をグループの経営陣に据える。こうすることで、一条家は代替わりに伴う権力争いや経営の迷走といった不安定さから解放されるのだ。そして、誰よりも長く生き続ける一条家の人間がグループの頂点に立ち続けることで、外部や分家が経営に口を出す隙すら与えず、その支配体制を永遠のものにすることができる。
この歪んだ経営体制をインゼクトたちに幼少期からそういうものだと教え込み、外部には触れさせずに不死の力の原料として保管しておく。この養育施設を一条家の人間は「虫籠」と呼んでいるのだ。
「以前の検査結果からトワ様と相性の良さそうな個体の選定までは済んでます。高校卒業前に一度足を運ぶのが、あなたを引き取ってこれ程の生活をさせてくださってる当主様への礼儀なのではないでしょうか?」
引き取って?お前らが「無理やり親元から引き離した」の言い間違いだろ……
そう言ったところで、この老獪な家令の耳には届かないだろう。トワは観念したようにため息を吐き口を開いた。
「……分かったよ、一度だけだからな……あと、選定したって言っても候補は所詮候補、パートナーをその場で決めて帰ってくるなんて思うなよ」
「えぇ、十分承知しております。来週の金曜日に伺うと私からスタッフに伝えておきますね。送迎はもう手配しておきましたのでご心配なく。では、私は失礼いたしますね」
珍しく来週の送迎を気にしていた運転手の発言の理由に合点がいき、頭にカッと血が上る。
ハナから自分には選択肢がなかったと言われているようで、藤木がこの屋敷を立ち去ったことを確認するやいなやトワはその苛立ちをぶつけるように床を蹴りつけた。
「っざけんな!」
分厚い絨毯につま先が沈み、トワにしか聞こえない程の鈍い音が屋敷の静寂に飲み込まれる。
声を上げたところでどうせ何も変わらない――
つま先からジンと痺れるような痛みが広がる。
それではまだ足りないと訴える自身の衝動を抑え込むように、トワは強く歯を噛み締めた。
行動したところでどうせ何も変わらない――
破ることのできない屋敷の静寂の中、微かに震えるため息が妙に大きく響いた。
◇
真っ白な空間、軽いパタパタという足音が自分の周りを駆け回る。
「トーワっ!」
楽しそうに弾む声で名前を呼ぶたびに、それに合わせてトワの腰より低い高さで茶色いもじゃもじゃ頭が揺れる。
またあの夢だ……
「ねぇねぇ、何して遊ぶ?」
小さなもじゃもじゃ頭がトワの手を取る。トワの手にすっぽりと収まってしまいそうなその手の体温は少し高く、無意識のうちに強ばっていた身体の緊張がフッと解けた。
「トワは何して遊びたい?鬼ごっこ?木登り?」
「えっと……俺は……」
一生懸命話しかけてくるこの子に何か伝えたいが、上手く言葉が出てこない。そんなトワには構わず、小さなもじゃもじゃはどんどん話を進めていく。
「えーっとね、はーちゃんはねぇ」
「お前は……」
「かくれんぼがしたい!トワが鬼ね!」
「っ!?」
温かな体温がトワの手をすり抜ける。咄嗟に手を伸ばすが、ケラケラと楽しそうに笑う声は飛んでいくように瞬く間に遠ざかっていく。
だめだ、一人で行かせたら……
「待って!」
もじゃもじゃ頭の後ろ姿を追いかけても一向に距離が縮まらない。
また明日会える。そう思ってあの背中を見送った日から長い年月が経ったにも関わらず、その「明日」は訪れない。焦がれ続けたあの背中が手の届きそうな距離にある。微かに見えた希望がトワの背中を押した。
名前……呼ばなきゃ……
手をめいっぱい伸ばしながらその背中を追う。なりふり構わず足を踏み出し、カラカラに乾いた喉からなんとか声を絞り出した。
「待てって!ハヅキ!!」
小さなもじゃもじゃ頭……ハヅキに伸ばした手は空を切った。
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