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3章 標本と邂逅

 望んでいた「明日」に手が届かなくても、一日は淡々と積み重なっていく。それと共に藤木の言う「礼儀を果たす日」も否応なしに迫ってくる。  そんな現実から目を背けるように、トワは「明日」の後ろ姿に手を伸ばし続けた。  何度も、何度でも……  夢だと分かっていても、あの背中を諦めることができない。  夜が訪れる度に、喉が枯れるまであの子の名前を呼び、走り続けた。  こんな調子で毎晩のように浅い眠りを繰り返し、数日経過する頃にはトワも授業中に船を漕ぐ生徒の一人となっていた。 ………… 「トーワ!おーい、また具合悪いのか?」 「……あっ、悪い、何?」  勝手に落ちてくる重たい瞼と格闘していると不意に声を掛けられた。  顔を上げると木元が身体を捻り、トワの机をトントンと二回指先で叩きながら、わざとらしいむくれ顔をこちらに向けてきていた。 「何ぼんやりしてんだよ〜、そんなに調子悪いなら保健室行く?糸村タクシー呼ぼうか?」 「大丈夫。それに行くなら自分で行くよ。お前、糸村のことなんだと思ってるんだよ」 「うーん、友達、なのかなぁ……?」  そう言って首を傾げた木元は、どうやら小柄な自分では運べないトワのことを糸村に運ばせるつもりだったようだ。大人しい糸村が日頃から彼にパシられてるんじゃないかと思ってしまう。 「さすがにそれは酷いだろ。ただの寝不足だよ」 「そっかそっか!それなら早く寝ろよ〜。どうしても我慢できないなら、俺の胸で寝てもいいぞ」  木元が両手を広げて見せると、二人の間の机に大きな影が落ち、1冊のノートが置かれた。 「コウちゃん、これ、課題のノート」  低くはっきりとしない声でそう告げた影の主、糸村は長い前髪の奥でチラリと木元に視線を向けた。 「……昨日言ってたやつ。昼休みまでに返してくれればいい」 「おっ!サンキュー、お礼に今度なんか奢るわ」  益々糸村が木元にパシられてるのではないかと心配になってくる。  そんなことを思いながら、トワが糸村を一瞥すると、不意に頭をこちらに向けた糸村と視線がぶつかる。一瞬前髪の隙間から見えた彼の双眸に鋭い視線を向けられたような気がした。猫背だが、トワよりも背が高く体格のいい彼から妙な威圧感を覚え、どことなく居心地が悪い。 「俺のことはいいから、早くノート写せよ」  トワが自分の机に顔を伏せると、木元は諦めたのか、黙ってノートを写し始めた。  意識が沈み、教室の喧騒が遠ざかる。  このままもっと深く、二度と浮上できないほどの深淵へと沈んでいけたら……  トワはそう強く願った。  しかし、無情にも放課のベルが彼の意識を連れ戻した。気怠げに頭を持ち上げ、窓の外を一瞥すると校門の前に見慣れた黒いセダンが停まっていた。いつもと変わらぬ光景だが、今日は自分の席から立ち上がるのが億劫になるくらい身体が重い。  あの車に乗ってしまったら、自分の「これから」が大きく変わってしまうから……  もう二度と、自分の求めた「明日」が訪れなくなってしまうから……  無理やり永遠の生命を与え、人生の終着点を奪う。こうして出来上がった自分という息をする標本を永遠に一条家という標本箱に閉じ込める。そんな望まぬ未来をもたらすあそこに連れて行かれるくらいなら、このままここで深い眠りに就いて二度と目覚めない方がマシだ。  そんな反抗心を乗せた眼差しで車を睨むと、運転手と目が合った。まるでこちらを監視するような眼差しが不快で、トワは舌打ちをしながら席を立った。 ◇  トワがいつも通り後部座席に乗り込むと、今日は隣の座席に見慣れない数冊の黒いファイルが置いてあった。恐らくこれから連れていかれる「あそこ」に関するものだろう。  視線だけ動かし、そのファイルを見てみたが、表には何も書いていない。このまま眺めててこんなものに興味を持っていると運転手に誤解されるのは癪だ。トワは運転手に話しかけるきっかけを与えないように、ゆっくりと瞼を下ろしこのまま眠ったことにしてしまうつもりだったが…… 「トワ様」  真正面に座ってるにも関わらず、こちらの様子が見えているのではないかと言いたくなるタイミングで運転手が口を開いた。 「こちらのファイルですが、本日伺う『虫籠』に準備させたものでございます。こちらにこれからお会いしていただくパートナー候補の情報が載ってますので、よろしければご覧くださいませ」 「…………いい、必要ない」 「一条家の未来の顔のパートナーに相応しい個体を厳選したとのことです。しかも、因子も珍しいものばかりだとか。せっかくですから因子だけでも……」 「必要ないって言っただろ」  運転手の人を人とも思っていないような言葉に自然と語調が強くなる。  因子、因子、因子……  まるで彼らをアクセサリーか何かだと思っているのか?  インゼクトの中には類稀なる能力や、美しい外見を持つ者がいる。それらは全て彼らの持つ因子によってもたらされるものだと言われている。  人並み外れた美しい歌声を持つスズムシの因子を持つインゼクト  自慢の脚力でスポーツ界から注目されるバッタの因子を持つインゼクト  まるで宙を舞うようなアクロバティックなパフォーマンスで見る者を魅了するトンボの因子を持つインゼクト  功利主義的な思考に取り憑かれた人間はそれらの中でも特にハナカマキリや蝶、タマムシといったような外見に特徴が現れる因子を持つインゼクトを我が物にしようと躍起になっている。  彼らが標本となった暁には、所有者に高いステータスや巨万の富をもたらすからだ。  恐らく、運転手が嬉々として語る「珍しい因子」とはそのようなものだ。  そして間もなく自分もその功利主義者たちの片棒を担がされることになるだろう……  そんな思考を無理やり切り離すようにトワは瞼を下ろす。彼の意識はプツンと途切れた。 ◇  十数台の椅子や机のある部屋や、大きなスクリーンのある部屋、広い運動施設や、食堂……  一見すると学校のようだが、白で統一された内装やシミひとつない異常なまでの清浄さ。見慣れた日常の景色なのに至る所に散りばめられたそんな違和感。それらが我が物顔で居座るこの空間にいると自分の方がこの世界の異物なのではないかと錯覚してしまいそうになる。初めて足を踏み入れるその施設の第一印象をはっきりというならば「一刻も早く出ていきたい場所」だ。  応接間に通され、ソファに座らされたトワはチラリと視線を上げ、恰幅のいい中年の女性スタッフを一瞥した。彼女のカイガラムシを潰したような赤色に染まった唇は口角を縫い止められたような笑みを浮かべ、この施設の実に崇高な理念を延々と語り続けている。トワに向けられた彼女の瞳はまるで底のない穴のようで、こちらを見ているにも関わらず全く視線が交わらない。 「一条様、こちらからお送りしたデータはご覧になりましたか?」  口元が動くたびにヤニで黄ばんだ歯が唇の隙間から覗き、唇の端に泡が溜まっていく。 「もしかして、悩んでいらっしゃいます?どれも魅力的な因子を持ってる個体ですからね」  彼女の声に乗って、雨の日のゴミ捨て場に置かれた吸い殻缶の匂いがしてきそうだ。  視線を落とし、小さく溜息をつく。まだ口をつけていない湯気の立つ紅茶の水面が揺れた。 「データで悩んでいても何も始まりませんから、まずは実際に面会してみましょう。本日の訪問で気になる個体が見つからなくても、二度三度って回数を重ねればきっと見つかるはずです」  そう言うと彼女はトワに立つように促した。  二人が立ち去った後の応接間。彼らが囲んでいた背の低いテーブルには出された時から様子の変わらないティーカップだけが残されていた。 …………  トワが案内されたのは、先ほど見た教室のような部屋だった。誰もいなかったそこから、今は人の話し声がしている。 「こちらの教室に、事前の検査であなたと相性が良い可能性があると判断された個体を集めました」  「集めた」ということは、実際の授業ではなく彼等を見せるためのデモンストレーションのようなものだろう。  教室の中のインゼクトたちは、制服の代わりにお揃いのふんわりと軽い素材の白いブラウスに脚のラインにぴたりと沿った白いパンツ、もしくはショートパンツを纏っている。  トワとあまり歳の変わらない少年少女たちがひとつの教室に集められている様は、一見すると授業風景のように見える。しかし、その光景の中にはトワのよく知る授業風景にはない違和感があった。  彼らの表情や仕草には感情が伴っていないのだ。  彼らは手本のような姿勢で、前方の教師役のスタッフにぼんやりと硝子玉のような瞳を向けている。口角が薄らと上がっているものの、ただそれだけだ。  授業に耳を傾けるだけの生徒以外にも、数人程何か癖のような動きを繰り返している者もいる。長い間ここで過ごしているうちに身についたものか、因子の影響によるものなのだろう。 「ご覧の通り、特性が現れないような因子を持った個体が大半を占めておりますが……」  そう言いながら、彼女はトワの視線を導くようにあるインゼクトを指さした。 「あそこの窓際の席見えますか?」  彼女の指の先には、少年にも少女にも見える華奢なインゼクトが座っていた。陽の光の中に溶けてしまいそうな淡い色彩の彼、もしくは彼女は他のインゼクトたちと同様に授業に参加している。しかし、その合間合間でしきりに自身の爪をいじっていた。ペンケースから取り出したヤスリで爪の先を整え、手入れをしているようだ。  毛先に向かうほど白から薄紅色へと色付いていくふんわりとした髪を窓から吹き込むそよ風が揺らす。その光景はまるで大輪の花弁が綻ぶようで思わず目を奪われてしまう。 「あれはハナカマキリです。とても華がありますよね」  彼女はそう言うと、視線を後方の座席へと滑らせた。 「そして、その列の一番後ろの席の個体が……」  肩より上で切りそろえられた横髪とピンと伸びた背に流れる艶やかな髪。陽の光を纏って煌めいているその色彩は、僅かな動きでも反応して極光のように姿を変える。あの表情豊かな色彩の揺らぎを一目見れば、説明など聞かなくても分かる。彼女の因子は、タマムシだろう。  トワがぼんやりと教室を眺めていると、ふと視線を感じる。視線を下ろすと、自分のすぐ目の前、廊下と教室を隔てているガラス窓越しにぱっちりとした黒目がちな双眸がじっとトワを見つめていた。 「?」  思わず小首を傾げると、ガラスの向こうの彼も首を傾げる。その動きに合わせて、彼の肩ほどの長さの絹糸のような黒髪がサラリと流れた。  不意に現れた標本の中に迷い込んだ生命のような彼の存在にトワの思考が一瞬止まる。そんな彼の困惑ぶりに気付いたようにガラスの向こうの彼の顔がふっと綻んだ。  まるで子供のような、純粋であどけない心からの笑み。  トワが求め、焦がれたあの温もりが目の前にあるようで思わず彼に手を伸ばすと、指先がコツンとガラスに当たる。微かな音にも関わらず、スタッフたちの視線が一斉にこちらに向いた。  その視線に気付いたのか、ガラスの向こうの彼が、ピクリと肩を震わせる。そして、慌てるようにその笑顔を仕舞って視線を正面に戻した。  瞬きをするたびに彼の長く繊細な睫毛が揺れる。まるで羽を休める蝶のようにゆったりと揺れるその睫毛の奥にある瞳は最後までこちらに向けられることはなかった。   …………  軽く肩を二度叩かれる。 「っ!?」  気付けば日が傾き、教室が橙色に染まっていた。インゼクトたちはいつの間にかいなくなっており、教室内はいつの間にか空っぽになっていた。 「一条様、そろそろお時間ですよ」  この時、初めてトワは自分がぼんやりしてしまっていたことに気がついた。  厳密に言うと、意識の輪郭が曖昧になるほどに夢中になっていたのだ。  まっさらな紙に落ちた一滴のインクのような、何もない世界にふわりと彩りをもたらす彼の笑顔に。

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