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4章 蝶と硝子匣

 一度紙に零れたインクはもう戻らない。  シミひとつない白紙をジワジワと染め上げるそれは、少しずつ広がり奥深くまで染み込み根を張っていく。  喧騒の止まない教室の中、廊下側の席に視線を向ける。自分と似たような格好をしたクラスメイトたちの狭間に純白を纏った影が見えるような気がした。  艶やかで少し長い黒髪を揺らしながら、こちらに屈託のない笑みを向ける彼の姿が見えるような気がした。  あの日以降、気づけば彼は自分の中に勝手に居場所を作ってしまったようだ。自分の中の彼はなんの前触れもなく視界の端に現れ、視線を向ける前に姿を消してしまう。  ふわりと揺れる白い残像は鮮明に焼き付いているものの、記憶の中の彼の笑顔は、手放し難いと思うトワの気持ちを置き去りにして次第に過去のものになっていった。  ただただ虚しい毎日を重ねる毎に、「現実の彼」と「自分の理想や感情で彩られた彼」の境界がトワの中で次第に曖昧になる。そして、その曖昧になった記憶は、トワの願った「明日」と少しずつ同化していく。徐々に重なっていく「あの子」と「彼」の笑顔に手が届かぬもどかしさが募っていった。 ◇ 「おーい」  無機質な教室の蛍光灯の明かりが明滅する。 「もしもーし」 「……?」  チカチカと見えるのは明かりのせいではない。木元がトワの眼前でヒラヒラと手を振っていたのだ。 「トワ〜、お前ついに目を開けて居眠りするスキルでも会得したのか?」 「……寝てない」 「じゃあなんだよ?お前最近ずーっとぼんやりしてるじゃん。心ここに在らずというか、どっか遠くを見てるというか……糸村もそう思わない?」 「さぁ?」  糸村がボソリと答えると、木元はわざとらしくため息を吐いて言った。 「もぉ、ホント糸村は鈍いなぁ!これは……俺が思うに恋だね!恋煩いだよ!トワ、好きな子でもできた?」 「…………」 「…………」 「なんだよ二人揃ってそんな目で見るなよ!なんか俺が変なこと言ったみたいじゃん」  木元が拳で糸村をどつくと、彼の拳はぽすりと糸村の胸に受け止められた。  恋……  この気持ちはきっと恋ではない。  彼の性格どころか名前すら知らないのだから。  彼とどうにかなりたいという感情は微塵もないのだから。  たった今まで巫山戯たような表情をしてたのをすっと引っ込めた木元は、普段よりもトーンを抑えた声色で言った。 「じゃあ……家のことか?」 「……まぁ、そんなとこ」  能天気なようで、木元は時々妙に勘がいい。  トワは昨晩家に訪れたあの老獪な家令の言葉を思い出した。 「トワ様にもう一度面会していただきたい個体がいるのですが……」  少しずつこぼれ落ちていくあの日の笑顔の記憶。徐々に自分の中で作られた幻想に置き換わっていくその記憶に縋るしかない今の状況を変えられるのではないか……なんて、柄にもなくそんな期待をしてしまう。  あの時、いつものように嫌悪感に突き動かされなかった自分が自分でよく分からなかった。  しかし、日々拗れて、縺れた糸のように絡まっていく彼への感情。もしも、また彼に会うことができたらその感情を整理することができるのではないか、なんて考えに突き動かされる自分がいることは確かだった。 ◇  再び敷居を跨ぐことになるとは思わなかったあの施設。受付を済ませたトワの顔を見るやいなや、前回行動を共にした恰幅のいい女性スタッフが愛想のいい笑顔を浮かべて歩み寄ってきた。 「こんにちは、一条様。今日はありがとうございます。こちらへどうぞ」  異様に近い距離。矢継ぎ早に今日の面会の説明をする彼女はまるで急かすようで、うっかり気を抜いてしまうとこちらの手を取って早足で歩き出しそうだ。 「……彼もあなたに会えるのを楽しみにしてたんですよ」  彼女が喋る度にタバコとコーヒーの混ざった香りが鼻腔を掠めた。  長く白い廊下にカツカツと二人分の足音が響く。浅い口呼吸を繰り返したせいでトワの頭がぼんやりとし始めた頃、女性がある部屋の前で足を止めた。  木目調のドアに嵌められた磨りガラスから漏れる暖色の明かり。白色灯が照らす無機質な廊下の中でそのドアは異様に浮いている。  彼女はドアを解錠し、口を開いた。 「今日は初めての面談ですので、彼と自由に話してみてください。数値はこちらで適宜モニタリングしておりますので、私たちのことはお構いなく。部屋の鍵は中からは開けられませんが、卓上に呼び出しボタンがありますので、お帰りの際や、何か問題がありましたらそちらをお使いください。早急に対処させていただきますね。では……」  トワが部屋の中に半ば押し込まれるようにして入ると、後ろからカチリと鍵のかかる音がした。    部屋は柔らかな色の明かりで照らされ、オフホワイトの内装の中に配置された棚や机椅子といった備品は木目調に統一されている。卓上や部屋の隅には作り物の観葉植物なども置かれており、一見するとカウンセリングルームのようだ。  レースのカーテンがかかった大きな嵌め殺し窓から外の景色を見ることはできるが、どことなく閉塞感がある。 「あっ……」  トワが辺りを見回していると、先程から椅子に腰かけて窓の方をぼんやりと眺めていた先客が小さく声をあげた。  初めてここを訪れた日から、自分の中にいつの間にか居着いた彼。あの日と変わらない、記憶の中の姿と変わらない彼はゆっくりとトワの方を振り向き、口を開いた。 「はじめまして……って言ったらいいのかな」  どこか中性的で、少年のようにも少女のようにも聞こえる柔らかな声色。その甘く滑らかな声に耳朶を擽られ、トワの体温が微かに上昇する。  まつ毛が長く、ぱっちりとした黒目がちな瞳と視線が交わると、彼はふっと微笑んだ。  どこかぎこちない、作り物のような笑顔。  ここまで出かかった言葉が喉の奥で一瞬つっかえた。  彼と会えば何か変わる気がする……  自分の求めていたものに手が届きそうな気がする……  そう思って勝手に期待していた己の浅はかさに思わず笑いが込み上げてくる。  トワの視線は自然と卓上へと向いた。しばらく彷徨い、止まった視線の先にはボタンの付いた小さな箱のようなものが置いてあった。   …………  部屋に流れる沈黙。  まるで視線と共に魂まで絡め取られたかのように、彼から目を離すことは愚か、微動だにすることすらできない。  一定の間隔でカチコチと響くアナログ時計の音と、空調がかすかに唸る音……それだけがこの部屋を流れる時の経過を告げていた。  呆然と立ち尽くすトワを見かねたのか、目の前の彼は小さく小首を傾げる。そして、音もなく立ち上がり、トワの方へと一歩歩み寄ってきた。 「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ。こうやって話すのは久しぶりだったからつい……君、前に見学に来てたよね?」  そう言って彼は少し屈んでトワの顔を覗き込んだ。  トワよりも少し高い身長。陽光が当たる度に薄いブラウス越しに浮かび上がる彼の輪郭は、隅々まで均整が取れている。すらりとした彼の肢体は、細身ながら無駄のない筋肉で覆われていて、まるでしなやかな弓のようだ。第一ボタンまできちんと留られた彼の首元は窮屈そうだが、その禁欲的な様がかえって彼の魅力を引き立てている。  彼の美しさは緻密な計算の上で造り上げられたかのように隙がない……まるで、この躰の価値を引き出そうとする彼以外の人間の思惑が透けて見えるようだ。  そう思うと、目の前にいる彼が急に憐れに見えてくる。  周囲の人間に都合のいい思考を植えつけられ、何の疑問も持たないまま外界と隔離されたこの匣の中で一生を終える。生きながらにして展翅され、本人の知らぬ間に少しずつ標本に変えられていくようなものじゃないか。  トワがチラリと彼に視線を向けると、彼と視線がぶつかる。一瞬、彼の黒い瞳が風が水面を撫でるように揺れたように見えた。 「?」  「今のは見間違いかもしれない」そう思ってしまうほどのほんの一瞬の揺らぎだった。  光を湛えていた彼の瞳に仄暗い影がおちる。しかし、そんな翳りを振り払うように数度瞬きをすると次の瞬間には彼はまたあの不自然な笑みを浮かべ、先程と同じ調子で話し始めた。 「そういえば、君のことなんて呼べばいいのかな?」  彼の声色や雰囲気は親しみやすい印象を受けるが、どこか心ここに在らずといった色を含んでいる。取り繕いきれないそんな彼の綻び…… 「先生たちは君のことを『一条様』とか『トワ様』って呼びなさいって言ってたんだけど……」  その綻びの奥にある、彼の心の水底に沈められた「何か」に手が届いたら…… 「ねぇ」  「何か」を引き上げることができたら…… 「ねぇってば!」 「っ!?」  彼に肩を叩かれ、ハッと我に返ると、不思議そうな表情を浮かべた彼と視線がぶつかった。 「君のこと、『一条様』って呼んだ方がいいのかな?」 「なんで?」 「まったく、ぼんやりして全然僕の話を聞いてないんだから。先生たちが君のことをそう呼べって言ってたんだけどそれでいいの?」  腕を組み、そう言いながら彼は唇を尖らせた。わざとらしいむくれ顔はどこかの誰かさんを思い出してしまう。  ……にしても 「その呼び方は、やめろ」 「そういうの嫌いなんだ?」 「……なんか落ち着かないんだよ。それにそんなふうに呼ばれて喜ぶようなタイプに見えるか?」  ただの呼び方、しかし、自分の周囲にいるいけ好かない大人たちを彷彿とさせる呼び方。それ聞いているうちに、気が滅入ってしまいそうな自分の小ささを彼に隠すようにトワはフッと笑ってみせた。 「そっか、じゃあなんて呼べばいい?……一条さん……トワさん……えっと……」 「あんたと俺、多分あまり歳は変わらないだろ?」 「うん、むしろ僕の方が歳上かも」  こくりと頷き、そう言った彼はトワの顔の前で指を二本立て見せた。 「?」 「君、高校生でしょ?僕二十歳、ここでは一番お兄さんなんだ」  えへへと照れくさそうに笑う彼の言動は、幼く見える顔立ちと相まって成人男性のようには見えない。自分と同じ、もしくは歳下だろうと思ってた彼の指先がピースの形のままチョキチョキと動く。その指先をトワはついじっと見つめてしまったが、誤魔化すように咳払いをひとつ。そして、冷静さを取り繕ってゆっくりと口を開いた。 「じゃあ、尚更『様』とか『さん』とかいらないじゃん。トワでいいよ」 「……トワ?」 「あぁ、そっちの方が気楽でいい」 「トワ!」 「うん」  トワが頷くと、目の前の彼は満足そうな笑みを浮かべ、何度もトワの名前を呼びかけるわけでもなく自分にしか聞こえない声量で呟いた。何度も何度も、噛み締め、味わうように……  夢中になって自分の名前を唱える彼の笑顔は、夢にまで見たあの鮮やかな色彩を湛えているようで、トワの頬がふわりと熱を帯びた。止まりかけ、願わくばこのまま止まってしまえばいいとすら思っていた鼓動がトクンと脈打つ。耳朶を擽る無邪気な彼の声色が、夢の中で幾度も自分の名前を呼んだ小さなもじゃもじゃ頭のあの子の声と重なり、気付けばトワの視界には彼のことしか映らなくなっていた。  この部屋を満たす五感を刺激する無数のノイズ。それは、彼の笑顔の前では取るに足りないものだった。  しばらくトワの名前を唱えていた彼が不意に視線を上げトワを見つめた。 「あっ!せっかくだからもっと色々な話を聞かせてよ。ここの外のこととか、トワのこととか!」  そう言った彼は、あっという間にトワの後ろに回り込み、電車ごっこの要領でトワを部屋の奥へと導いた。 「立ちっぱなしじゃ疲れちゃうでしょ?座って座って!」  彼に言われて初めて気がついた。この部屋に入ってからのことがあまりにも目まぐるしくて、一歩踏み込んで自分がそこから微動だにしていなかったことに。  肩に触れた彼の手の温もりで、トワの自分でもいつからしていたか分からなかった緊張がふっと解ける。  ストンと椅子に腰掛けると、そこから彼のおしゃべりは途絶えることなく続いた。  この施設の外のこと……  トワの通う学校のこと……  トワの友達のこと……  彼からの質問の応酬は勢いを緩めることを知らないように続く。普段なら鬱陶しいと突っぱねてしまうくらい彼は話し続けたが、今日のトワにとってはその賑やかさがなんとなく心地よく感じられた。  いつの間にか部屋に差し込む陽の光は橙色に染まり、面会終了三十分前のアラームが鳴る。無機質な電子音がこの部屋を流れる時を一時停止したように再び静寂が訪れた。  ようやく彼のおしゃべりが止まったのを見計らい、トワは意を決したように口を開いた。 「えっと……」 「?」  目の前に座る彼の黒い双眸が、期待の色を浮かべながらトワに向けられる。そして、彼はトワの言葉の続きを促すように小首を傾げた。 「俺にも教えてくれないか?」 「なになに?なんでも聞いて」 「あんたのこと、なんて呼べばいい?……名前、教えてくれないか?」  名前……そう言った瞬間、たった今まで笑みを浮かべていた彼の表情が僅かにこわばる。相変わらず縫いとめるられたようにキュッと上がった両の口角がひくりと震え、彼の瞳に再び影が落ちた。 「……言いたくないなら無理することは」 「…………タテハ」  ポツンと弱々しい声色で彼が呟いた。 「タテハ?」 「……うん、タテハ……先生たちには、そう呼ばれてる」 「っ!?」  トワの頭にカッと血が上る。気付けば思考よりも先に身体が動いていた。  勢いに任せて机に拳を叩き付ける。ガンと鈍い音を立てて右手が痺れた。  何かに突き上げられるように勢いよく立ち上がると、トワの後ろで椅子が盛大に倒れる音が響いた。  再び訪れた不気味なほどの静寂…… 「悪い……急に大きな音を立てて」  胸の奥から込み上げる、言葉にならない叫びを押し殺し、震える声でトワがつぶやく。そして、ゆっくりと「タテハ」と名乗った青年に視線を向けると、彼は目を見開き、きょとんとした表情でトワを見つめていた。  窓から差し込む燃えるような陽光。それに照らされた彼の艶やかな髪は先程から蒼と金を溶かしたような特徴的な煌めきを帯びていた。その煌めきは彼が動く度に、青紫や琥珀の色彩を滲ませ、見る者を飽きさせない表情豊かな輝きを放っている。まるで幻想的な夜の海を描いた有名な絵画のようなその輝きを、トワは過去にも見たことがあった。  あの忌々しい一条の本邸、書斎の蒐集棚にある大きな硝子ケースに磔にされ、窓から差し込む西日に照らされた一匹の蝶 ――レテノールモルフォ  その蝶の煌めきと、硝子ケースのラベルに書かれた「タテハチョウ科」の文字。  自らの意思とは無関係に永遠に時を止められ、他者によって都合のいいように勝手にラベリングされた硝子ケースの中の蝶と彼が重なる。  そしてトワ自身にも……  そんなことを考えているうちに、次第に呼吸が上手くできなくなってくる。  どれだけ吸っても息苦しく、焦燥感が募る。  まるで陸地に打ち上げられた魚のように口をぱくぱくとさせながらこの息苦しさから逃れようと喘ぐ。浅い呼吸が次第に早くなっていくが、その望みは叶わない。  四肢の端からジワジワと痺れが広がる。  机に打ち付けた拳のジンとした痛みもその麻痺したような感覚に飲み込まれ消えていく。  キンと耳鳴りがし、視界が徐々に黒く塗りつぶされ、膝からカクンと力が抜けた。  危ないと思った時には、もう手遅れだった。  トワはこれから訪れる痛みに備えて、よく見えない目を固く閉じた。 「トワっ!」  ガタンと音を立て、タテハが飛び出す。大きな一歩で一気に距離を詰め、膝から崩れ落ちるトワをすかさず抱きとめた。  思いがけない体温と柔らかなぬくもりが、トワを包み込む。  正面から彼に抱きしめられたトワは倒れるのは免れたが、タテハの胸元にすっぽりと顔を埋める形になり、ほんの少しだけ気恥ずかしさを覚えた。  浅い呼吸を繰り返す度に、朝露に濡れた草木のような香りが、じわじわと肺腑を満たしていく。  その爽やかで優しい香りが心の奥に溜まった澱を、そっと洗い流すようで、気づけばトワは、正しい呼吸の仕方を少しずつ思い出していた。 「大丈夫」  そう言いながらタテハの意外と大きな手のひらがゆったりとトワの背を擦る。 「大丈夫だから」  誰が「大丈夫」なのか……誰に対して言った「大丈夫」なのか……トワのまだぼんやりとした頭では分からなかった。  ただ、誰かの体温を身近に感じながら聞くその言葉に、何故か不思議な懐かしさを覚えた。 「落ち着いた?」  彼の柔らかな声が耳朶を擽る。トワがこくりと頷くと案の定首から上を包み込んでいた彼の体温は離れてしまった。そのあたたかさが離れていく瞬間、胸の奥にかすかな名残惜しさが滲んだ。  痺れの残る手のひらをゆっくりと緩めると、トワがいつの間にか握りしめていたタテハのブラウスにはくっきりと皺が刻まれていた。その皺を軽く撫で、タテハがフッと微笑み、口を開いた。 「危ないから、一回ちゃんと腰掛けようか」 「あぁ」  まだ薄らと思考に霞がかかっているせいか、気の抜けた返事をしたトワは腰を支えられながらゆっくりと椅子に腰掛けた。  「落ち着いた」とは言ったものの、トワの心の奥底はどことなくザワついていた。  どうして?  なぜ?  そんな疑問符たちがトワの思考を占拠していく。  そして、それは溢れるようにいつの間にかトワの口から零れていた。 「なんで……」  掠れて震えるその声がまるで自分のものではないようで、声を発した実感が湧かない。 「なんで『大丈夫』なんて言えるんだ」  独白のようにも聞こえるトワの言葉。それを聞いたタテハがクスリと微笑み、トワの目の前に跪いた。  トワより高かった彼の目線がストンと下がる。軽く見上げてた彼の頭は一瞬にしてトワの目線の高さよりも低いところまでおりてきた。 「なんでって……うーん、内緒」 「……内緒って、あんた」  そう言ったトワの唇を塞ぐようにトンと何かが触れた。 「なんでも聞いてって言ったけど、これは内緒。だから、しー」  唇に触れたのは彼の人差し指だった。 「でも、トワが心配するようなことは何もないよ。大丈夫」  まるで宥めるようにタテハがトワの肩に触れる。そして立ち上がりざまに、彼の顔がトワの左頬に急接近した。 「っ!?」  先程までトワを包み込んでいた爽やかな香りが再び鼻腔を擽る。トワが小さく息を呑むと、タテハが彼の耳元で囁いた。 「ちょうど僕たちの左、壁際の観葉植物の影」  一瞬意味が分からず、トワがチラリと視線を投げる。そんな彼の疑問に気付いたのか、タテハが少し身体を傾けると、影から彼の言う観葉植物が顔を出した。 「観葉植物が、どうしたんだ?」 「あまりそっちを見ないで、全部見られてるから」  ほとんど唇の動きだけでそう伝えたタテハの言う通り、観葉植物の中には黒光りする何かが隠すように設置されている。  監視カメラ―― 「色々おしゃべりしすぎちゃうと、もう君と会わせてもらえなくなっちゃうかもだから、ね?」  そう言いながら小首を傾げた彼は、一瞬浮かべた寂しそうな笑みを隠すように身体を起こした。次の瞬間には、彼は最初に見せた作り物のようなぎこちない笑みを再び浮かべ、トワに向かって小さく手を振った。 「そろそろ時間だね……君が嫌じゃなかったら、また会いに来てくれないかな」 「…………」  トワは咄嗟に言葉が出てこなかった。  よく似た境遇の彼のことをもっと知りたい……  でも自分がここに通い続けるうちに彼も蒐集棚に飾られる蝶の中のひとつになってしまうのではないか……  相反する欲求……トワは「行きたい」とも「行きたくない」とも言えず、一度は開いたものの迷子になってしまった口をキュッと引き結んだ。 「嫌だったら、無理はしなくていいよ。でも……久しぶりにとても楽しかったから……」  後ろで静かにドアの開く音がする。トワの視界を覆ってた薄暗い影がフッと消えた。  彼の軽やかな足音が真横で止まり、温かな手のひらがトワの肩を優しく撫でた。 「じゃあね、トワ。また機会があれば」  甘く心地よい彼の声は奥に小さな震えが混ざり、語尾が滲んでいた。  トワの中の時がようやく動き始めた頃、部屋の中には自分ただ一人になっていた。  彼の姿も、声も、痕跡すらも、すでにこの部屋から消えていた。ただ、肩に微かに滲む彼の残した温もりだけが、白昼夢ではない現実をそっと告げていた。  匣庭に囚われた幻想のように美しい蝶は……確かにここにいた。 ◇ 「だいじょうぶ」  幼く未分化な声がする。 「だいじょうぶだから」  肩を小さく震わせる腕の中の温もりを強く抱き締め、ゆっくりと背中を擦る。  時折、しゃくり上げ、鼻をすする。そして胸に顔を埋めたもじゃもじゃ頭のその子が顔を押し付けてくる度に、その子の温かな涙が胸元を濡らす。  また、あの夢だ…… 「だいじょうぶだから、もうなかないで」  そして嫌という程聞き覚えのあるこの声は…… 「だいじょうぶだよ、ハヅキ」  俺の声だ……

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