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10章 真実と逃避

「トワ!ねぇ、トワってば!!」 「っ!?」  重たい瞼をこじ開けると、不安げな表情を浮かべた彼の顔が飛び込んできた。ずっと自分を揺すり、声をかけ続けていたようで、目が合った瞬間に実に整った顔をくしゃりと歪めて強く抱きしめてきた。 「よかった……このままトワが目を覚まさなかったら僕、どうしようって……」  安堵の色を浮かべ、目元に涙を滲ませた彼の表情。情けないハの字の眉や、つい世話を焼いてしまいたくなる頼りない表情の中に、あの面影を見つけた気がした。しかし、記憶の中のハヅキと自分の目の前にいる彼が同じだという実感はいまだに湧いてこない。  もしも、自分の見たものがただの夢だったら……  もしも、無意識のうちに自分の願望を事実とすり替えようとしているのだとしたら……  なんてことを考えてしまう。 「トワ、大丈夫?具合悪くない?」 「あぁ」 「ずっと魘されてたけど、怖い夢とか……」 「いや、大丈夫」 「ならよかった」  心底ほっとしたように、彼は大きく息を吐いた。  彼に聞きたいが、うまく言葉にできない。  浮かんでは消える疑問を、拾っては組み立て、納得いかなかったら崩す。そんなことを頭の中で繰り返す。  いつもはおしゃべりな彼も何故か黙り込んでしまい、部屋が静寂に包まれた。  さわさわと風が木々を撫で、鈴を転がすような虫の声が響く。  彼に聞くならきっと今しかない。  トワは意を決して口を開いた。 「えっと……」 「あの……」  二人の声がぴたりと重なる。思わず顔を見合わせると、今度は彼の方が先に口を開いた。 「何?先に聞かせて」 「……わかったかもしれない。あんたの名前」 「…………」 「違かったら違うって言ってほしい。俺に合わせようとしなくていいから」 「…………」 「呼ぶなら、ちゃんと本当の名前で呼びたいから」 「…………うん」  ゆっくりと息を吸い、壊れ物に触れるように慎重に言葉を紡ぐ。 「……ハヅキ」 「…………」 「……あんた、ハヅキ……なんだろ?」  彼が一瞬目を見開く。そして、ふっと脱力し微かに震える声で言った。 「……えへへ……バレちゃったか……」  明るく取り繕ったような声色。何かを諦めたような笑みを浮かべた彼は今にも泣き出しそうだ。  トワは咄嗟に次の言葉が出てこなかった。 「久しぶりだね……トワ」  こんな顔をさせるつもりなんてなかった 「ずっと変わってないから……僕、すぐにわかったよ、トワのこと」  頼むから…… 「でも僕は、あの頃と何もかも変わっちゃったから」  お願いだから…… 「トワには……見つかりたくなかったな」  そんな泣きそうな顔でこんなことを言わないでくれ。 「かくれんぼ、失敗しちゃった。やっぱりトワは、僕のこと見つけるのが上手だね」 「……変わったって、ハヅキはハヅキだろ?なんでそんなこと……」 「全然違うよ。あの頃とは……僕の名前が分かったってことは、見えちゃったんでしょ?」 「見えたって……何を?」 「知らないフリしないでよ。優しいね、トワは……僕は、全部見ちゃったよ。トワの楽しかった思い出も、辛い時のことも」 「……ハヅキ?」 「トワは偉いよね、辛くても苦しくてもずっと綺麗なままなんだから」  そう言って自嘲するような笑みを浮かべたハヅキはくるりとトワに背を向けた。 「ここで問題……生物の簡単な問題だよ。ちゃんと学校に行ってお勉強したトワにはすごく簡単な問題」 「あんた何……」 「蝶が幼虫から成虫に変わる時、蛹の中ではどんなことが起きてるでしょうか?」 「……巫山戯てるのか?」 「巫山戯てないよ。ほら、考えて」 「…………」 「残念、時間切れ。正解は幼虫の体をドロドロに溶かして新しく成虫の体を作り直す、だよ」 「それとこれに何の関係があるんだよ」 「関係?あるじゃん。ねぇ、トワ……忘れちゃった?僕はインゼクトだよ、蝶の因子を持った……トワの知ってる小さい頃の僕と、今の僕は全然違うんだ」  彼の語尾が揺れ、微かに鼻を啜る。背中越しの声だけが響いて彼がどんな顔をしているのかは分からない。 「今の僕は、トワの知ってる小さくてまっさらなハヅキじゃない……だからもう知らないフリしなくていいよ。僕はトワが思ってるよりもずっと空っぽで汚いんだから」 「…………」  全部見た  知らないフリ  汚い  彼がそんなことを言う度に胸の奥がザワつく。  恐らく彼は「共鳴」のことを言っているのだろう。  あの時、彼の記憶の中で見たものといえば、彼の幼少期の自分と過ごしていた時の記憶くらいだ。  ただそれだけ……  それだけしか見ていない  それだけしか知らない  絶対に、それ以外のことなんて…… 「トワ……見たんでしょ?」  見てない…… 「僕がトワと別れた後のこと」  知らない…… 「僕と……あの人のこと」  そんなこと知らない……  あんなのはただの悪夢だ…… 「ねぇ、トワ……もうやめよ?さっき君が見たのは……」  悪夢だって言ってくれ…… 「全部……僕が体験したことだよ」 「……嘘だ」 「嘘じゃないよ」  あんなの、嘘に決まってる……  嘘に違いない……  言葉にすればそうなるような気がして夢中になってこの言葉を唱えた。  嘘だ  あんなのは悪い夢だ  絶対にありえない  しかし、それらを口にするたびにハヅキは一歩ずつトワに歩み寄りながらその言葉を片っ端から否定していった。  ハヅキの声で繰り返される望まない言葉の応酬が徐々に迫ってくる。彼の明るく軽い声色とは裏腹にその言葉ひとつひとつが重くのしかかり、押しつぶされてしまいそうだ。  吸うことも吐くこともままならない息を絞り出し、トワは何とか最後の希望を口にしようとする。しかし次の瞬間、強い力で後ろから抱きしめられ、その言葉は喉の奥に引っかかり、トワはただはくはくと唇を動かすことしかできなかった。  俺はハヅキにこんなことを言わせたかったんじゃないのに……  くすりと笑うような吐息がトワの耳元を掠める。 「諦めなよ、トワ」  トワの耳元で後ろからそう囁くと、強く抱きしめていたハヅキの腕が一瞬緩み、彼の大きく骨ばった手のひらがトワの身体の輪郭をなぞり始めた。  ゆっくりと這い回るような彼の手つきは、トワの全身を確かめるように、異様に丁寧で執拗だ。Tシャツの上から触れるだけでは飽き足らず、今度は彼の手のひらがTシャツの中に滑り込んできた。 「っ!?」  彼のヒヤリとした手のひらが触れるたびに背筋が粟立つ。 「ねぇ、トワ……言ったじゃん」  熱っぽく湿った吐息が頬にかかる。そして、トワの頬に彼の頬を擦り寄せた。 「僕は汚いって……」  やめろ……  あの悪夢がフラッシュバックする。  全身にまとわりつく不快感  自分の輪郭が次第に曖昧になり、自分でない何かに作り変えられていくようなあの感覚……  ハヅキはハヅキだ。  どんな経験をしようと、どんなに変わろうと、自分の知ってる「ハヅキ」がなかったことになるなんてありえない。  ありえないはずなのに……  そんなこと馬鹿げてるって思うのに……  自分の後ろにいる男が誰なのか分からなくなってくる。  汚い……  手が触れ、吐息のかかったところからその汚染が広がっていくようで、耐え難いほどの嫌悪感に襲われる。この拘束から逃れようともがけばもがくほどきつく締め付けてくる腕が誰のものなのか……そんな考えを頭の外に追いやるように、トワは固く瞼を閉ざした。  早く、終わってくれ…… 「まだ諦めてないの?」  熟れすぎてぐずぐずに崩れた果実のような、耳朶に纏わりついてくる甘ったるい声。耳馴染んだ彼の声なのに、全く知らない誰かの声に聞こえる。 「トワの友達だったハヅキはもういない……ドロドロに溶けて死んじゃったんだよ」  生温かく、湿ったものがトワの首筋を這い、背筋が粟立つ。そして、今まで身体を拘束していた彼の白く節だった手がハーフパンツへと伸びてきた。 「触るな!!」  今まで出したこともないような大きな声にトワ自身、一瞬何が起きたのか、自分がなんて言ったのか分からなかった。  微かに緩んだ彼の腕から抜け出し、両手で彼の肩をぐっと突き放す。ふらふらと後退り、俯く彼の表情は月明かりに照らされて不気味に輝く髪の影に隠れて見えない。 「あんた……なんのつもりだよ!誰なんだよ!」 「…………」  トワが何を言っても彼はぼんやりと立ち尽くし、微動だにしない。  こんな奴、ハヅキじゃない……  こんな奴、友達なんかじゃない…… 「あんたのことなんて……知らない」  まるで逃げるようにトワは寝室を飛び出した。  寝室から一番離れた部屋へと無我夢中で逃げた。  しかし、あの男はトワのことを追ってくることはなかった。  施錠した部屋のドアを叩いてくることなんてなかった。  どうして、こんなことになったんだ……  こうなるくらいなら、何も知りたくなかった……  去り際に一瞬見えたような気がする、あの男の今にも泣きそうな表情が妙に心に引っかかる。  泣きたいのはこっちの方だ。 【第一部 完】

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