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9章 共鳴と過去

⚠️この章には性的虐待の暗示を含む描写、身体的支配・同意なき身体接触、人格の抑圧およびトラウマを想起させる表現が含まれます。 読者の精神状態に応じて閲覧をご判断ください。 ……………… 「…………」  誰かの声がする。水の中で聞いているようなくぐもった不鮮明な声が。    ゆっくりと瞼を持ち上げると、痛いほどに強い光が視界を真っ白に塗り潰す。何度か瞬きを繰り返すと、ようやく視界が像を結んだ。  白い天井に白い壁、そして異様に明るい照明……  ベッドに寝かされているようだが、身体を思うように動かせない。  それどころか、視界まで固定されてしまったようで、身体が自分の身体ではないみたいだ。  徐々にくぐもった男の声が近づいてくる。そして、その声の主はトワの顔を覗き込むように白色灯の灯りを遮った。逆光になってしまって男の顔が黒く塗りつぶされる。 「……可愛らしい……に……そっくり……」  途切れ途切れにしか聞こえないが、トワに向かって何か言った男は、トワのことをひょいと抱き上げると、部屋の風景がスライドのように切り替わる。真っ白で異様に清潔な病室のような部屋は、いつの間にか薄暗い洋室へと変わっていた。   白いレースの天蓋付きベッドに座らされ、顔のない男が何か二、三言言うと、白い布の塊を渡してきた。  トワの意思とは関係なく、この身体の持ち主が恐る恐るこのレースの塊を広げると、それは真っ白なワンピースだった。  視線がゆっくりと男の方へと移動し、小首をかしげる。  男は、そんな自分の頭を無数の皺が刻まれた骨ばった手で撫で、壊れ物を扱うように頬に触れた。そして、自分の前に跪き、ブラウスのボタンに手をかける。一つ、また一つと慎重にそれを外し、慣れない手つきで着替えさせ始めた。  触るな  この自由の効かない身体に押し込められたトワの声がこの顔のない男に届くわけがない。  やめろ  トワがいくら拒絶したところで、この身体は微動だにしない。無抵抗なまま服を脱がされ、男の持ってきた服に着替えさせられてしまった。 「……は……当に、美しい……」  独白するようにそう言った男は、白いワンピースを纏った自分を抱きしめ、愛おしげに頬擦りをする。過剰なほどに丁寧で執拗な触れ方に背筋がぞわりと粟立ち、胃の中のものが込み上げてくる。しかし、この身体はそんな生理現象すら催すことすら許してくれない。  一分一秒でも早く、こんな状況から逃げ出したい。  そんなトワの願いも虚しく、顔のない男とこの身体の異様な時間は幾度も、幾度も繰り返された。  不思議なことに、男に着替えさせられるたびにこの身体の視線は徐々に高くなっていく。  初めはこの部屋の何もかもが自分よりも大きく、小人になってしまったと錯覚してしまうほどだった。しかし、次第に成長する自分の身体はそれらに追いつき、追い越し、あの男との身長差がほとんどなくなっていく。その合間で視界の端に映る自分の四肢も身長が伸びるのに合わせるように成長し、未分化な滑らかで華奢な子供のものから、しなやかな筋肉がつき薄らと血管の浮かぶ男性のものへと変わっていった。  顔のない男は、そんな変化を隠すように着替えさせるたびに骨格に合わなくなってきた窮屈な服のボタンを全て留め、骨ばった手には白いレースの手袋を嵌めさせた。  どれほどの時が経過したか、どれだけの服を着せられたか……  数年、十数年の年月が経過したように感じるが、耐え難いほどの嫌悪感がそう思わせているだけかもしれない。  しかし、この身体は間違いなくトワが着るであろう一生分の服よりも多い真新しい白い女性物の服を着せられ続けた。  そしてまた今回も顔の見えない男の持ってきた服に袖を通す。  普段のものよりも布をふんだんに使い、各所にレースでできた花があしらわれた丈の長いワンピース。シンプルで、品のある華やかさのあるそれは、いつも持ってくるような服とは一線を画している。恐らく何か特別な時に着るようなものなのだろう。  最後に仕上げをするように、頭の上からふわりと顔にかかる薄手の布をかけると、男はベッドに腰掛け、身振りで自分にその場で一周回るように指示をしてきた。  もはやこの身体に抵抗する術なんてない。  トワは、身体が動くのに任せて男の前で一周くるりと回って見せた。  すると今度は男が膝を叩いて手招きをし始めた。  この男が何を言っているかは相変わらずよく分からない。しかし、年齢を重ね、最初よりも皺が深く刻まれた手でズボンの中を泳ぐ痩せこけた膝を幾度も叩く男の方へと向かって自分の身体はぎこちない一歩を踏み出した。  関節が軋むような重たい足取りで少しずつ男に近づいていく。    二人しかいないこの静寂の中で、秒針が時を刻む音と絨毯の上を引き摺るような鈍い足音が嫌に大きく聞こえる。  一歩ずつ、まるで時間を稼ぐように足を運ぶ。  ついに男と膝が触れそうな距離まで近づくと、男は徐にトワの腰へと腕を回し痩せこけた膝の上に座らせた。  皺だらけの手が光沢のある布越しにトワの全身を這い回り、レースの花々を乱していく。  抱きしめ、頬擦りをし、白髪混じりの頭が顔に近づくたびに整髪料のツンとした香りが鼻先を掠める。  枯れ木のようなこれが触れたところから汚い何かが広がっていくようだ。    叶うなら、その汚れた部分をナイフで削り取ってしまいたい。赤く燃える炎で残さず焼き落としてしまいたい――しかし、そうやって頭の中でもがいたところでこの身体は動いてくれない。  拒絶できない  逃げられない  目を背けることも、嫌悪感を露わにすることもできない  ただただ自分が汚れていく様を受け入れ、見ていることしかできない  いっそ壊れてしまえば楽になるのだろうか……    ふとそんな考えが頭をよぎったトワの背を男がトントンと二度叩く。そして彼は枯れ枝のような指先で何かを指さした。  絶対に見たら駄目だ  トワの脳内でうるさいほどに警鐘が鳴り響くが、そんなのはこの身体には関係ない。  ゆっくりと頭を上げると、男の指の先には大きな姿見があった。  見たら駄目だ!  そしてその姿見には、笑みを浮かべた彼――タテハと名乗った青年と、自分に見せたことのない恍惚とした表情を浮かべた自分と血の繋がらない祖父、一条宗一郎の姿が映っていた。 …………… 「っ!?」  トワの意識が急浮上する。  お日様の下にいるような柔らかな光に包まれ、ぽかぽかと温かい。  悪夢に魘されて起きた時のような倦怠感の残る心身にこの温もりが沁み渡る。  起き抜けのまだぼんやりとしたままの頭で幼い男の子に手を引かれ、歩みを進める。  どこに向かっているかわからない。  彼がなんと言っているかもわからない。  だけどその子について行けば大丈夫だってことはなぜかわかる。  細切れの無声映画のような光景が次から次へとトワの周囲を流れていく。  現実ではあり得ない、さまざまな場面の継ぎ合わせ。  誰かの視点で記憶を追体験するようなこの光景……トワはふと以前見たある言葉を思い出した。  共鳴――  だとしたら、この光景はタテハの過去の記憶なのかもしれない。  彼の記憶全てにあの幼い男の子――彼の言っていた「大切な子」が現れる。  どこかへ行くときはいつも彼の手を引き、彼が転んでしまったときはぎゅっと抱きしめて小さな手のひらで彼の手のひらで彼の背を摩り慰める。二人分に分けたお菓子はいつも少し多い方を手渡し、狐色のふっくらとしたホットケーキは一口大に切り分けて食べさせてあげる。  まるで仲のいい兄弟のお兄ちゃんのようなその男の子と彼の記憶をなぞっていくうちに、トワの目頭が次第に熱を帯びていく。  知ってる……  まるで一度見たことのある映画を観ているように、この次に何が起こるのかがわかってしまう。  全部知ってる……  なぜなら、その男の子は幼い頃の自分自身だから……    また場面が変わり、今度はその男の子がくるりとこちらを振り向き手を振りながら言った。 「ばいばい、ハヅキ。またあした」  トワの視界がプツンと暗転した。

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