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8章 ホットケーキと特別
「ねぇ、トワ」
慣れないヘアゴムのせいで頭痛に悩まされることがなくなった頃――夏休みの残された日数があと僅かなある日の夜、ウトウトと微睡むトワの背後で彼がぽつんと呟いた。
ここ数日、彼はトワを抱き枕のようにして眠るのが気に入ってしまったようで、今夜もベッドに入るや否や彼はトワにぴたりとくっついてきた。広すぎると思っていたベッドの上で自由に身動きが取れず、この暑い中で同じ体温にすっぽりと包まれたこの状況に不満がない訳ではない。しかし、彼とこうできる残された日数のことを考えると、なんとなくやめさせることもできず、彼に好きなようにさせていた。
彼の甘く柔らかな声色と共に、しっとりとした吐息が耳朶を擽る。数度下げた冷房はほとんど意味をなしていないどころか、この部屋の温度がまた上がったような気がする。
「まだ起きてる?」
「あぁ」
「あのね、さっきの……また食べたくなっちゃった」
「ダメだ。今食べたらブタになるぞ」
「いいよ、ブタになっても。なんかのおとぎ話みたいにトワに治してもらうもん」
「なんだそれ」
どうやら彼は、昼間に食べた「アレ」が大層お気に召したようだ。
…………
材料を混ぜるだけ!
簡単!
そんな言葉が踊るパッケージの裏をトワは難しい顔で睨んでいる。
「卵と牛乳が先……」
「ほんとに材料を混ぜるだけなんだ〜」
「粉を入れたらさっくりと混ぜる……」
「ねぇ、トワ!これ開けてもいい?」
「あぁ」
「好きなのにあの施設だと全然食べさせてもらえない」とボヤいていた彼のリクエストに応えて、今日の昼食はホットケーキ。
まぁ、パンケーキもホットケーキも同じようなものだろう
彼に作ってやると大見得を切ったものの、トワ自身も彼と同じくホットケーキなんて作ったことはない。小さい頃、友達を家に招いた時に母親が作ってくれたのを脇で見てた程度の経験しかない。
しかし、言ってしまったからには失敗は許されない……トワは、パッケージ裏の作り方を納得いくまで何周も熟読し、ようやく顔を上げた。
「トワ、全部入れたよ!次はどうする?」
詰んだ……
彼の言葉通り、材料が全てひとつのガラスボウルに入ってる。ホットケーキミックスが湿った痕跡がないから、おそらく彼はちゃんと順番通りに入れてくれたのだろう……しかし、ボウルの側面からは粉と牛乳の間から、破れずにまだまん丸な卵の黄身が顔を出している。この様子だとさっくりと混ぜたところで混ざりきらないだろう。
「トワ?」
「…………」
眉をハの字にした彼が小首を傾げ、トワの顔を覗き込んでくる。
「……もしかして、入れない方が良かった?」
うん――とここまで出かかった言葉をグッと飲み込み、トワは首を振った。
「大丈夫。これくらいなら問題ない」
少し膨らみにくくなるが、ここで彼を落ち込ませてしまうよりはだいぶマシだろう。
完成したホットケーキは、案の定少し固かった。
しかし、そのこんがりとした狐色や、甘く優しい香りはトワの友達――ハヅキと食べたあのホットケーキとよく似ていた。
琥珀色のメープルシロップをたっぷりとかけたそれを口いっぱいに頬張る彼の顔を見て、トワはふとそんなことを思った。
…………
「じゃあ今夜は我慢するから、明日は?明日また作ってくれる?」
昼間に作ったホットケーキを完食してからというもの、もう日付が変わりそうな時間になっても彼はずっとこんな調子だ。この様子だときっと約束するまでは寝かせてくれないだろう。
「……わかった、明日な」
「っ!」
「だからもう今日は寝ろ」
「うん!」
こくんと頷くと、しっかりと抱きしめていた彼の腕がふと緩んだ。
「……ねぇ、トワ。こっち向いて」
彼の腕の中でもぞもぞと身じろぐと、背中を覆っていた彼の体温が遠ざかる。少し頭を上げると、もう鼻先が触れてしまいそうな距離に彼の顔があった。
窓から差し込む月光が彼の顔の陰影を際立たせ、蝶の羽のようなまつ毛が瞳に影を落とす。視線が交わると彼は普段見せる幼さとは程遠い、精巧なビスクドールのような端正な顔でくすりと微笑んだ。
「あれね、僕の思い出の味なんだ」
そう言うと、彼はゆっくりと指先でトワの髪を梳き、ポツリポツリと話し始めた。
「僕が今よりもずっとちっちゃい頃の思い出……その頃、僕には大切な子がいたんだ」
色々彼のことを聞いてきたけど、今までそんな話は聞いたことがなかった。
「その子は……僕よりも大きくて、しっかり者で、弱虫な僕をいつも守ってくれて……」
知らない……
「まるで、僕の本物のお兄ちゃんみたいな子だったんだ」
そんな話、知らない……
「その子との大切な思い出の味。トワに会えなかったら、もうずっと……味わえないと思ってたからすごく嬉しい」
ふわりと微笑んだ彼の笑顔は、彼の瞳に映る自分ではなくその「大切な子」に向けられているようで、何かがちくんと胸の奥にひっかかる。
もう見慣れた、自分のよく知る……自分だけがよく知っていると思っていた彼の笑顔が、急に自分の知らないものになってしまったようで、自分をすっぽりと包み込む彼の腕の中の居心地が妙に悪い。そんなのトワの気を知ってか知らずか、不思議そうな顔をして彼が大きな手のひらでゆったりとトワの背を摩った。
「トワ?」
「……だよ」
しまったと思った時にはもう遅かった。
自分の中の、彼に見せたくない、自分自身でさえ目を背けていたドロドロとした醜い感情が口から溢れ出る。
こんなかっこ悪いところなんて見せたくなかった……
こんな気持ちを彼にぶつけたくなかった……
「?」
「……誰だよ、そいつ」
でも、もうそんなのどうでもいい。
そんなことよりも、自分の知らない彼のことを知っている「誰か」がいることが耐えられなかった。
彼の中に自分以外の「特別な誰か」がいることが耐えられなかった。
「どう、したの?」
そう言ったまま止まった彼の唇の隙間から、礼儀正しく並んだ白い前歯が微かに覗く。
その「誰か」は彼のことをどこまで知っているんだ
その「誰か」が知らない彼のことはあるのか
彼の好物は?
彼の誕生日は?
彼の宝物は?
きっとその程度のこと、そいつは知っている。
それどころか、自分の知らない彼の名前だってそいつは知っているかもしれない。
もっと彼のことを知りたい。
知らないことが何もないほどに。まるで自分の一部であるほどに。
そうすれば、こんな感情に煩わされることなんてなくなるはずだ。
不安げな表情を浮かべる彼の顔に視線を彷徨わせる。
自分の知らない、自分だけが知ることのできる彼のことを探して。
そして、トワの琥珀色の瞳がある一点でぴたりと止まった。
今自分の目の前にある、彼の無防備な唇……その柔らかさは?温かさは?
きっと誰も知らないはずだ。
それなら……
トワが一気に身を乗り出すと、唇が柔らかく温かいものに触れた。
彼との距離はトワが思っていた以上に近く、何かにぶつかったような衝撃と共に鼻と唇に痛みが走る。口の中に鉄っぽい味が広がるが、トワはそんなことにも構わず彼の唇に自身の唇を押し付けた。
「……んっ……ふっ……」
息をするのも忘れるくらい夢中になって、彼と唇を重ねる。時折漏れてしまう今まで出したことのない情けない声に一気に体温が上昇する。そんな変化を彼に悟らせまいと息を継ごうとしたが、彼に強く抱き寄せられた。
「っ!?」
そのあまりの強さに思わず彼に視線をやると、再び彼と視線が交わる。熱を帯び、潤んだ彼の眼差しは、飲み込まれてしまいそうなほどに美しく力強い光を湛えていた。
射抜かれ、そのまま何かに磔にされたように動けない――
ただただ彼の腕の中で身動きが取れず呆然としていると、酸素を求め半開きだったトワの唇を湿っぽい熱の塊がなぞる。そしてそれはそのまま歯列の隙間をこじ開け、トワの中へと侵入してきた。
くちゅくちゅと湿った音を立てながら彼の舌がトワの口腔内をかき混ぜる。飲み込む隙さえ与えてもらえず口の端から溢れ出そうになる唾液を、乾いた喉を潤すように彼の舌が掬い取りこくんと嚥下する。そのたびに彼の表情に滲む恍惚とした色が濃くなっていった。
二人の境界が次第に曖昧になっていく……
彼のもたらすふわふわとした心地よさに溺れ、自分の全てを彼に委ねようとゆっくりと瞼を下ろし、ふっと全身から力を抜いた次の瞬間――
瞼の裏で蒼い極光が瞬いた。
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