1 / 3
第1話
その日もロイドが大学から帰宅すると、姉のサラがリビングで乙女ゲームをプレイしていた。
「またですか…」
「仕方ないでしょう?部屋のテレビが壊れているんだもの…」
「修理の間くらいゲームを我慢したって…」
「嫌!続きが気になって、授業中も頭がいっぱいなのよ?無理よ、無理」
ロイドの言葉を遮り、サラはゲームを止めるという選択肢を否定する。ロイドはガックリと肩を落とし、自室へと戻った。
(見たいテレビがあったんですけどね…)
サラがハマっている乙女ゲームは、最近流行りの主に貴族が通う学園が舞台だ。平民のヒロインが努力をして、いつか貴族のお屋敷で働けるようにとマナーや作法を学ぶために学園に通いはじめる。
そこには攻略対象の、所謂イケメンキャラ達が居て、皆それぞれ身分が高く、そんな彼等に見初められる。端的に言えば有りがちなシンデレラストーリーだ。
当然、2人を妨害する悪役令嬢なるキャラもいるらしいが、この物語では後に改心して、結ばれた2人を祝福するキャラになるらしい。
何故ここまで詳しいのかと言えば、以前サラに熱弁され、内容から彼女の推しまで、徹底的に叩き込まれたからに過ぎない。
(あの日は地獄だった…)
そう思いながらロイドは自室のドアを開け、ベッドへダイブする。このまま不貞寝直行コースだ。
不思議とベッドに仰向けになれば、とろとろと瞼が重くなり、ゆっくりと夢の世界に誘われる。それにロイドは抗うことをしなかったが、ふと頭にサラが語った攻略対象の話を思い出した。
(サラの推しは1番人気の金髪の王子で…生徒会長で…、…後なんでしたっけ?あぁ、双子の攻略対象が苦手って言ってましたね。特に灰色の髪の…)
そのままロイドの世界は暗転した。
ロイドは深い眠りへと落ちていく。けれど、そんなロイドの頭の中は、灰色の髪の攻略対象がどんなキャラだったか?ということで一杯だった。
さらさらと肌に触れる敷布の感触が気持ちいい。
肌に直接触れているかのように感じる感触を、ロイドは微睡みの中で、ふふっと小さな笑いを浮かべて楽しんでいた。時折、人肌の体温が身体に触れ、終にはそれに完全に包まれる。
それにもロイドは安心し、気持ち良さを感じ、もっと…と擦りつき甘えてしまう。するともっとキツく全身を包まれ、下半身も何かが絡みついたように動けなくなる。
けれどそれはロイドの心の中を暖かな何かが満たし、溢れ、零れ落ちて、更に一杯になる。ずっと此処に居たいと無意識にロイドは思った。
時折全身を駆け巡る甘美で淫靡な快感という名の痺れも、湿り気を帯びた何かが一瞬だけロイドの肌に触れる行為も、何もかもがロイドの心も身体もとろりと溶かし、熱に浮かされていく。
腰の辺りが気怠く重く、鈍い痛みが走る。それを労るかのように触れていた感触が、段々と確かな欲望をもってロイドに直に触れ、厭らしい快楽にロイドは苛まれた。
(なんだ…、これ…?)
そこでようやくロイドは意識を浮上させ、見を捩りその快感から逃れると、ゆっくりと目を開けた。
視界に広がるのは、どうやらベッドの天蓋のようで、厚手の深い青の重厚な布と繊細な白いレースのカーテンが見える。その先には白地に金の装飾が施された高い天井。
ロイドはやはり生まれたての姿をしていたようで、彼に纏わりつく布は絹のような光沢があり、薄く、とろりと柔らかく、全身を浮かび上がらせるかのように肌にさらさらとした感触を残しつつ触れながら、隙間無くロイドの裸体に絡みついている。
「何処ですか!?此処!」
ロイドが慌てて飛び起きようとすると、腰に酷い激痛が走り、ロイドはそのままベッドへ戻され、倒れ込んだ。どうなっているのかとベッドの中でロイドがぐるぐる思考を巡らせていると、背後から突然男の声がした。
その男の声は低く、艷やかでありながら品があり、自然とロイドの耳に染み込み馴染む。横向きで寝ていたロイドが背後へ身体と首を向けると、そんなロイドに伸し掛かる様に、この世の美と贅を掻き集めて形にした様な絶世の美貌を持った男がロイドに絡みつくかのように、そこにいた。
その姿にロイドは見覚えがあった。
「あっ…」
彼だ…。サラが苦手としていた作中で最も麗しい見た目とモデルのような手脚の長い肢体を持ち、完璧な王子様のようでありながら、何処か闇と影を持ち、どうしても好きになれないと言っていた、灰色の髪と青紫色の瞳の攻略対象。
アイーザ、その人だった。
「相変わらずお前は可愛らしい…。寝ぼけているんですか?」
ロイドに乗り上げる男もまたロイドと同じで姿で、彼の白磁のような肌とロイドの肌が触れる。自身の肌と比べると本当に白いな…とロイドは思った。
彼はロイドに腕を絡め、脚を絡め、彼の中にロイドを捕らえ閉じ込める。不思議とロイドはそれに嫌悪を感じず、寧ろ安心と安らぎを得ていた。
ロイドを抱いていたアイーザの手が、ロイドの首筋を伝い、顎のラインをなぞり、頬に触れると、そのままロイドの顔を自分に向けさせ、その唇を自身の唇を重ねることで奪った。
ふにふにと柔らかく、ぷるぷると滑らかで、蕩けるほどに熱く、腰に響くほど甘美な、毒のような痺れを含んだ口付け。ロイドはそんな経験など無く、されるがままにアイーザに流されて、快楽に溺れさせられる。
ゆっくりとロイドが自身を立ち上がらせ、蜜を溢しはじめると、アイーザは容赦無くロイドを抱いた。受け身側という未知の快楽は、何とも背徳的で、狂おしいほどに強く、甘く、ロイドを酔わせ、奥底へと誘う。
身体は素直にアイーザを受け入れ、奥を開き、更に奥までアイーザが来てくれるのを望んで、涙を流した。そのままロイドは日が沈み、夜が来て、また日が昇っても、深い色のベッドの中で、アイーザから与えられる快楽以外何もわからなくなってしまっても、いつまでも激しく犯され続けた。
翌朝、ロイドは前日の情交が嘘のような完璧な制服姿で、アイーザの自宅である巨大な城のような屋敷の食堂で、テレビでよく見た貴族が使用している長いテーブルを前に、2人のためだけに誂えられたという装飾が美しいベンチのような長椅子にアイーザと共に並んで座っていた。
テーブルの上には朝食と言うにはあまりに豪勢な食事が、いかにも高級な皿の上に飾り付けられている。そんな食事を、ロイドは前日の情事の痕が残る身体を椅子の背凭れに預けながら、アイーザから与えられる食事を雛鳥のように享受していた。
甘く、重い身体は酷く気怠くて、ロイドをくったりとさせている。一見は完璧に見えるが、その制服の下には悍ましいほどに夥しい数のアイーザから与えられた情交の痕が全身に散りばめられており、その事実をロイドは意識する度に、腰の辺りが痺れる様に疼くのをどうにかやり過ごしていた。
「ロイド…」
アイーザはロイドを呼ぶと、背凭れからロイドの上半身を離し、自らに凭れさせる。ロイドは人形のようにくったりとされるがまま、アイーザの肩に頭を乗せて、ぼーっとアイーザの美しい顔を見ていた。
「ロイド?」
再度アイーザに名を呼ばれ、小さく切り分けたステーキ肉の欠片を、繊細な彫りが施された煌めく銀のフォークで口元に運ばれる。ロイドはゆっくりと口を開け、それを招き入れたが、力の入らぬ身体ではそれを上手く噛むことが出来ず、ロイドはゆっくりと咀嚼しながらもグズりはじめた。
それに直ぐに気がついたアイーザが、一度ロイドに口付け、舌を用いて口内から肉を奪い、自らが噛み砕いてどろどろにすると、それをロイドに口移しで与えた。
ロイドはアイーザに口付けられ、どろどろになった肉だったものを流し込まれながら、アイーザの舌が自らの舌に絡みつく快感に酔いしれ、素直にそれをアイーザの唾液ごと嚥下した。
「良い子ですね、ロイド」
アイーザに褒められる度に、ロイドは嬉しくなり、自然と口角が上がってしまう。そんな姿も可愛いとアイーザは口移し以外でも気まぐれにキスをして、ロイドは全ての料理の味を、アイーザとの口付けで知るのだった。
その後は再度身形を整えられ、アイーザと共に馬車で学園へと向かう。馬車の中でも2人は隣り合って座り、アイーザの腕がロイドに絡みついたままだった。
むわっと立ち込める甘く濃密な空気の中、ロイドはやはりアイーザから気まぐれに痺れる快楽を与えられながら、馬車という狭い密室で、その快感に耐えていた。
制服は開け、寛げられ、何度かロイドが絶頂を迎えた痕が残る。
そんな事は些細なことだと、アイーザは気にした様子もなく、彼はずっとロイドを腕の中という牢獄に捕らえ、片時も離そうとはしなかった。
(このままじゃ…トイレの時までついてこられそう…)
ロイドが不安に思っていると、アイーザは目敏くそれに気が付き、「何を考えているんです?ほら、此方に集中しないと、大変な事になりますよ?」
と甘く優しく絡めとる脅迫じみた言葉で、ロイドを深い快楽の底へと更に縛り付けていく。ロイドの甘い悲鳴が延々と馬車の中に響いていたが、その淫猥さを知るのはアイーザのみだった。
学園の敷地に到着すると、アイーザの手で簡単にロイドの身形は整えられ、その首には黒革の首輪がアイーザの手で巻かれた。
「…え?」
「クスッ、ダメですよ?貴方は私の大切な婚約者なのだから、学園ではしっかりと首輪をしておかないと…」
品のある光沢が美しい黒革と、繊細な銀細工とカットが施されたタンザナイトをあしらった首輪。その首輪を形作るどれもこれもがアイーザに結びついて、ロイドは顔を赤らめた。
馬車が校門前で止まる。
アイーザは頬を赤らめるロイドの額、頬、鼻先、唇とキスをして、ロイドを伴い馬車を降りた。余韻で上手く歩けないロイドがアイーザに凭れ掛かり、アイーザはしっかりと自身の腕をロイドの腰に絡ませて、2人一緒に登校する。
周囲からは羨望と恋慕が入り混じった視線を浴びせかけられても、アイーザは気にした様子もなく平然としていた。逆にロイドは嫉妬や嫌悪、僻みを過分に含んだ視線を向けられ、萎縮していた。男子も女子も、果ては教師までもがロイドをそんな目で見る。それほどまでにアイーザは美しく、1人の雄として魅惑的だった。
(さすがは攻略対象…。けど、こんなシーン、ゲームでは無かったような…)
そもそもこんなシーンがあったなら、乙女ゲームとして成立しないと、アイーザの余韻に支配され、ぼんやりとしたロイドの頭では気づくことが出来なかった。
それ以前にこんな設定、健全な乙女ゲームにはあるまじきものである。そんな僅かな疑問を頭に浮かべはするものの、直ぐ様アイーザの手でそんな考えは遠くへ追いやられ、ロイドは連れられた空き教室でアイーザとの情事に耽るのだった。
この学園には特別なルールがあるらしく、婚約者はたとえクラスが違うとしても同じクラスでなければならず、どちらかが相手のクラスへと移動せねばならないらしい。
そして、ロイドもそのルールに従い、アイーザのクラスへと以前から移動させられていたようだった。
(ずっと一緒なんて…頭がおかしくなりそうです…)
そうでなくともロイドはこの世界に来た時から、ずっと身体の内側で淫猥な熱が燻り続け、冷めることを知らない身体にされてしまっている。
学園内ではさすがに落ち着けるかと思ったのに、寧ろ数多の視線に晒されながら、こんな卑猥な熱を隠し続けなければならないなんて…。ロイドにとって学園生活とは地獄でしかなかった。
当初予言した通り、いつでも何処でもアイーザはずっと隣りに居て、ロイドは燻る熱を悪戯に刺激され続けた。この世界のこと、アイーザのこと、自分のこと、気になることは様々なのに、アイーザはそんな思考に耽ることを許さない。
時に激しいほどの快楽で、時に甘い誘惑で、時に怪しい囁きで、ロイドはあっさりと翻弄され、囚われ、アイーザへと落ちていく。アイーザは本当に暗い奈落の底のような、それ以上に深く底が無い。光さえも届かない、ねっとりと全身に絡みつきロイドを引きずり込む毒沼のような男で、ロイドの毎日は彼に支配され、じわじわと侵食するかのように染み込み続け、骨の髄まで激しく淫らに犯され続けた。
(もう無理…、死ぬ…)
ロイドは学園の食堂という嫌でも全校生徒から衆目を集める場で、アイーザに口移しをされながら餌付けという名の食事をしていた。あれからというもの、ロイドは彼の隣に座っては口移しで餌付けされ、アイーザの手から与えられたものでなければ、摂取することを許さないと厳命されれば、ロイドは頷くことしか出来なかった。
羞恥と、快楽と、愉悦、どれもこれもが綯い交ぜになって、ロイドに激しく襲い掛かる。頭の中は常にぐちゃぐちゃで、アイーザのことしかわからない。
そんな状態なのにアイーザは、溢れて、溺れて、ロイドが窒息してしまいそうになっても与え続けて、甘やかな苦しみが終わらない。
まるで淫靡で淫猥な牢獄に捕らわれた囚人のようだと、ロイドは頭の片隅で思った。
それからロイドに余裕が出来たのは、学園に在籍しながら魔塔に所属し、日夜そこに引き篭もり文献を読み漁り、実験に没頭している双子の兄、ルネが久しぶりに登校して来た日のことだった。
その日は学園全体が何やら騒がしく、アイーザのクラスは何処か緊張感があった。今日はアイーザやルネが所属している魔力持ちのエリートだけが集められた科、特進科の生徒達による学年別の魔法も用いた実技試験の日だった。
今日はアイーザ達3年の実技試験が行われる、それに出席するため、ルネがわざわざ普段は絶対に出たくないという、魔塔にある彼個人の分厚い本に囲まれた実験室から出てきたのである。
アイーザも試験を受けねば卒業できないと言い、嫌そうな顔を隠しもせず、何度もロイドに口付けしては名残り惜しそうに、嫌々ながら試験会場へと行ってしまった。
ロイドの本来の学年は1年らしく、元々の科は普通科で、魔法適性は無い。そのためロイドは試験を受ける必要は無く、また、部外者は立ち入り禁止なため、補修等の予定も無いロイドは1人で学園を探検していた。
此処がゲームの世界なのか、ゲームに似た別の世界なのかはわからない。けれど、1つだけロイドの中で結論がついた事がある。
それは、たとえ此処がどちらであろうと、この世界にはちゃんと生きている人達がいるということ。
だからロイドは、自分はゲームの世界に迷い込んだ、というよりは、文化の違う、知らない異国に来たくらいの気持ちでいようと決めた。
そうと決まれば少し気持ちは軽くなり、優先すべきはこの世界に居た本来の“ロイド”のこと。だからロイドは、今の自分のことを中心に調べる事にした。そして分かったことは、“ロイド”は下級貴族の家の出身で兄や姉、弟に妹が2人と、とにかく兄妹が多いということだった。
当然ゲームにそんなキャラは存在しない。たぶん、そもそもゲーム中にはモブとしてすら存在していないかもしれない。
何故ならこのゲームの攻略対象は高位貴族と王族が中心で、隠しキャラでさえも現王の弟が興した公爵家の息子だった筈だ。
(顔も名前も覚えてませんけどね…)
この世界に飛ばされたのが姉だったら、きっとゲームとの違いや、誰が主要キャラなのか直ぐに分かったかもしれないが、残念ながらロイドは一応知識はあれど、キャラ全員の顔は覚えていないし、逆に顔は記憶にあっても名前が出てこないというパターンもある。
ましてや学年なんて…、アイーザのですら忘れていたのに。
「あの…」
ロイドが1人、色々悩み、考え事をしながら歩いていると、突然、知らない女性の声に呼び止められた。その声は優しさと可憐さを含んだソプラノで、ロイドはその声に優しく手を引かれる様に思考の海から浮上した。
目の前に居たのはミルクティー色の髪と薄桃色の瞳の可憐な女性。ふんわりとした癖のあるミディアムボブの彼女のことを、ロイドは嫌と言うほど知っていた。
彼女はゲームのヒロイン、アリアその人だった。
アリアはロイドと同じ1年生。
平民で、いつか貴族の家で働くためにマナーや礼儀作法等、その仕事に就くために必要なスキルを得るために此処に来た。当初は普通科に在籍していたが、後に僅かながら魔力持ちだということが判明し、アイーザや他の攻略対象が在籍している特進科にやって来る事になる。
制服が変わっているから、現在の彼女はもう特進科に在籍しているらしい。
(余談だが、ロイドの制服は普通科にいた頃のものから変わっていない。ロイドは正式に特進科に在籍しているわけではないため、制服は変わらないのである)
「突然ごめんなさい。ただ、ずっとウロウロしてるから、迷ってるのかと思って…」
「あぁ!大丈夫ですよ?ゆっくり特進科の校舎を見て回る時間が無くて、ようやく探検できたところだったので!」
見慣れない物も多くて楽しんでいるのだと、ロイドは笑って答えた。そんなロイドの顔を見て、アリアは驚いた顔をする。そんなアリアの反応に、ロイドも疑問に思った。
「あの…、ごめんなさい。貴方は、誰…?」
「へっ!?あ、えー…っと、特進科にいる3年生、アイーザの婚約者…?で、ロイドといいます」
「それは知ってるの。私が聞きたいのは、貴方のこと…」
「え?いや、だから…、その、ロイドです…けど」
「そう、“貴方も”ロイドなのね」
「?」
「突然ごめんなさい。私の知っている人に似ていたから…。人違いだったわね」
「!、あぁ…!そういう事でしたか!びっくりしました」
「本当にごめんね、この先は1年生の校舎なの。だから…気をつけて」
それだけ言うと彼女は、「またね」と言って何処かへ行ってしまった。
ゲームの中では天使と称され、誰からも愛されていた真綿のような女性のイメージだった彼女。けれど今、ロイドに背を向け、濃い影が落ち、唯一の光源である窓から差し込む白い光のコントラストの廊下を進む彼女は、ゲームの彼女とは似つかない様な気がした。
(やっぱり、知らない異国と思った方が正解みたいですね)
それからロイドは1年の校舎へとやって来た。
そこで直ぐ、ロイドはアリアの言葉の意味を知ることになった。
次にロイドに声掛けてきたのは男子生徒、3人グループらしい彼等の顔はニヤニヤとしていて、どうやらロイドのことを蔑んで見ている様子だった。
「よう!貧乏貴族のロイド君!あれだけ婚約者は嫌だー!とか言ってたのに、とうとう媚びて尻尾振り出したのかよ!」
「金積まれて尻尾振ったのか?それとも、カマ掘られて気持ち良くなったかよ?」
「あれだけ鬼畜野郎だ、ゲス野郎だとか言ってたのによぉ?随分懐いたもんだ!」
「そんなに男が良いなら、俺達3人が可愛がってやろうか?」
「…はぁ、」
目の前でキャンキャン吠えている馬鹿3人を、ロイドは呆れを通り越して虚無になったかのような目で見ていた。ゲスというか、下品というか…。
今時、3流の悪役でも言わないような台詞だとしかロイドは思えなかった。反論するのも馬鹿馬鹿しいので、ロイドが黙っていると、男達は増長して更に下品極まりない言葉と悪態を上げ連ねていく。
本来の“ロイド”が嫌われていのか、そもそもアイーザの婚約者であるということで嫌わていたのかはわからないが、何方にせよ、ロイドの存在は此処では受け入られていないということだけは理解した。
(だからアリアさんは気をつけろと言ったんですね)
1人納得していると、ドンッ!と肩の辺りに強い衝撃を受けた。どうやら3人のうちの1人に軽く殴られたらしい。
(肩パンとは、また古いことを…)
本来のロイドは貴族の息子らしいが、今のロイドの中身は現代によく居る普通の大学生である。勉強は得意ではないが、身体を動かすことは得意だし、姉や友人と普通に喧嘩もした。
特にロイドはやんちゃなタイプであったので、殴り合いの喧嘩なんかも普通に経験している。そして、姉弟の座右の銘は“やられたらやり返せ”である。更に姉のサラはそこに、徹底的に!とわざと強調して付け加えていた。
つまり、これからロイドのすることはある種の正当防衛なのである。
「「「本当にすみませんでした…」」」
3人は真面目にロイドに頭を下げていた。そんな3人の姿はボロボロで、ロイドが徹底的にやり返したことが伺える。
当のロイドはピンピンしていて、「二度とこんなことしないでくださいよ?」と、彼等に念押ししていた。彼等は素直に頷き、慌てて逃げ出した。
「はぁ…、疲れた」
大きな溜息と共に言葉を漏らすロイド。
そしてふと、突然手の甲に僅かな痛みが走った。確認してみれば、指の付け根辺りから手の甲の半ば辺りにかけて、擦りむけた様に皮がめくれ、白い1本の太い筋の様になっていて、その真ん中辺りの部分は赤く、薄っすらと血が滲んでいた。
ボタンかネクタイピンにでも引っ掛けたかな?とロイドが思っていると、背後から男の笑い声が聞こえてきた。しかし、足音は2人で、気になったロイドが振り返ると、そこにはアイーザと、笑いをこらえている緩く波打つ薄茶色の長めの髪をした男が居た。
「アイーザ!…と、どちら様ですか?」
本当は、ロイドはこの男が誰なのか知っている。
彼はアイーザの双子の兄で、魔法の天才にして異端児とも呼ばれている一癖ある攻略対象、ルネだった。
金と銀のオッドアイで、サラがアイーザ同様苦手と言っていたから、ロイドはいつの間にか自然と覚えていた。
しかし、彼は本来魔塔から一歩も出ない引き篭もりで、攻略難易度も高いキャラクター。普通にゲームをしているだけではなかなか会うことが出来ず、隠しキャラを除いての出会いの難易度はトップクラス。
そんな人物を知っているわけが無いだろうと、ロイドは初対面を装った。
「貴方とは初めまして…、ですね。アイーザの双子の兄でルネと言います」
「はい!宜しくお願いします。ルネさん」
「さん付けは不要ですよ。近いうち、私は貴方の義兄になるんですから」
ルネにそう言われ、ロイドは一瞬で頬に血液が集まり、上気したかのように一気に赤くなる。その時改めて、ロイドは婚約者という言葉の意味と、自身の立場をまざまざと思い知った。
「あ…、え…と、そう…ですね…」
「フフッ、貴方は何とも可愛らしい。アイーザが手放さないのも頷けますねぇ?」
「なんとでも。ロイド、手を…」
「え?あ…」
いつの間にかそばにいたアイーザが、怪我をしたロイドの手を取る。その手付きは優しく、羽毛が肌を撫でるかのように、どこか擽ったく感じた。
まさか怪我をしている事に気付かれていたなんて…。ロイドは驚きで何かを言う隙も無いまま、ロイドの手はアイーザの手中に収められていた。
そしてアイーザはロイドの手を自分の口元まで持って行き、彼の唇がそっと、ロイドの傷口に触れる。ピリッとした痛みが走るが、それ以上にルネの前でこの様な行為をされることの方がロイドには問題だった。
「は…っ、恥ずかしいので、やめてくださいぃ…」
頬だけだった赤みは、今やロイドの顔全体、更には首、耳までも真っ赤に染め上げていた。
「アハハ、お気になさらず。アイーザの嫉妬深さも執着心の重さも知っていますから」
「そういうことじゃなくてですね…!?」
「ロイド、もう帰りましょうか。あんな輩のせいでついた傷です。化膿したら大変ですから」
アイーザはほんの少しだけ、唇を傷から浮かせて話す。彼の唇が動く度に時折ロイドの傷を掠め、僅かな刺激が走る。そして、彼が声を発する度、彼の吐息が傷口に触れ、僅かに傷が滲みる。
それは確かな痛みである筈なのに、どこかアイーザとの情事の際に与えられる甘美に侵食する快楽にも似て、ロイドはどうにかその手から離れようと藻掻いた。
「大袈裟ですよ!適当に消毒でもしておけば平気です!」
「…ロイド」
藻掻くロイドの手をアイーザは少しだけ力を入れて握る。痛みは無い。けれど、それは痛みやどんな強迫よりも強くロイドを縛り付け服従させる。
真っ直ぐにロイドだけを見つめる青紫の瞳が、声が、ロイドの僅かな反抗も許さない。そして、ロイドはそんなアイーザを見て、これから先、自分がどうなってしまうのかを察した。
また、あの激しく、執拗で、熱くて、甘くて、死にそうになる程の快楽の地獄に囚われるのだ。逃げる…、そんな選択肢も確かにある。けれど、ロイドの身体はもう、あの地獄から逃れる術を全て放棄していた。
「…、はい…」
震え、消え入りそうなほどに小さいロイドの返答。俯いていたロイドの顔を、アイーザが怪我をした手を握る方とは逆の手で、ロイドの頬に触れ、自分に向けさせる。声だけを聞けば死刑宣告を受けたような囚人のような返事であったが、アイーザに向けるその顔は全く逆のものであった。頬は赤ではなく桃色に、ロイドの碧眼は熱が籠もり、涙の膜で潤み、その奥には確かに欲望と期待の色があった。
傷口から唇を離していたアイーザが、そのままロイドを自身の方へと誘い、そのまま唇を奪う。ロイドは嫌がるどころか自ら受け入れ、捕まれていない方の腕をアイーザの背に回した。
口付けは長いものではなかった。
舌を絡めることもない、情事の際のものとは違う、時折気紛れにアイーザから与えられるものに近い、触れて、確かめるような甘さの余韻が残る口付け。
それにロイドは少し物足りなさを感じたが、きっとアイーザは、今はしてくれない。それがわかっているから、ロイドは大人しく抱き寄せられ彼の胸の中に居た。
「後は任せます。貴方の願いを叶えてやったんですから、その程度の代償は安いものでしょう?」
「兄使いの荒い弟ですねぇ。まぁ、その程度であれば引き受けて差し上げましょうか…」
そうしてアイーザはロイドと共に校門へ、ルネはそのまま校内へと戻っていく。
「…アイーザ」
「話は帰ってからにしましょうか。今は早く帰りましょう」
ロイドはコクリと頷いた。
明日は登校できるのだろうか、そんな考えが頭を過ぎる。そして、ロイドは自分が本来の自分の家へ帰ろうと思っていない事に気がついた。
(なんで…?)
そもそもロイドは此処の住人ではないのだから、いつかは帰らないといけないのに。そうだ、帰らなければならないのだ。
そもそも今のロイドの立場には、別のロイドが居るべきなのだから。
だから…アイーザにも、その事を伝えないといけないのに…。
「ロイド?」
アイーザに声を掛けられる。ロイドはゆっくりと顔を上げ、アイーザを見た。アイーザがロイドを見る表情はいつも、途轍もなく甘い。
その顔を見る度にロイドは胸を締め付けられて、嬉しくなって、でも、その顔は本来、ロイドに向けられるものではなくて…。
最近、無性に泣きたくなる。
その顔が、自分に向けられているものだったら良いのに…。
そう思う度に、ロイドは口を閉ざしてしまう。言いたいのに、言わないといけないのに、言いたくない。言えない。
「帰りましょうね」
その帰る場所が、本当にロイドの居場所であればいいのに…。
ロイドは返事が出来なかった。その代わりにアイーザの胸に自身を預けた。
ともだちにシェアしよう!

