2 / 3

第2話

 目が覚めた。  もう見慣れたような気がする天蓋。ロイドの身体には気怠い重さも、鈍い痛みも無い。寧ろ、身体は軽かった。  抱かれていないわけではない。昨日、屋敷へと戻った後、屋敷の侍女から手の甲の傷の手当てを受け、そのままアイーザの部屋へと連れて行かれ、抱かれた。  けれど、昨日の情事は何時もと違い、激しく求められ、奪われるものではなく、只管に甘く、優しく、ともすればロイドを労るものであった。  沢山、汎ゆる場所に口付けられ、欲を吐き出したというのに、身体は軽く、ロイドの心は重かった。  何故?飽きた?偶然?気紛れ?どうして?不要?温かさを感じる交わりであった筈なのに、それはとても空虚で、只々冷たいだけの行為だった。もしかすると…。 「気付いたんでしょうか…?」  仰向けに寝転がったまま、ロイドはポツリと溢す。  寧ろ、そうとしか考えられなかった。アイーザはロイドがロイドでないことに気がついたのだ。そうとしか考えられなかった。  そもそもがおかしかった。ロイドを知る者達の話を聞けば聞くほど、今のロイドと本来のロイドは似ても似つかない。きっと、顔は同じなのだろうが、あれだけ違うのであればいずれはバレることであった。 「写真の1つでも、あれば良かったのに…」  ロイドは、本来のロイドを調べる際、1番最初に探したのは彼の写真だった。1年生で、貧乏貴族の嫡男でもないとは言え、写真や肖像画の1つくらいはあると思っていた。  けれど、探しても、探しても、ロイドの家族や実家のことは調べられるのに、ロイドの事は一切分からなかった。というよりも、ロイドに関する一切の記録が消えていたような感覚だ。 (何故でしょう…?モブだから?)  それにしたっておかしい。おかしいとは思うのに、ロイドの頭はアイーザのことばかり考えたがり、気を逸らそうと思えば思うほど、思考はアイーザに捨てられるという考えばかりが侵食してくる。 「どうやって生きていけばいいんでしょうね…」  ロイドは自身の両手で両目を覆う。真っ暗だった。  それでも僅かに光が差し込み、眼を閉じていても黒い世界には薄っすらと、時にはっきりと、緑や赤、稀に青い色が映るというのに、今のロイドの視界は本当に真っ暗だった。  何も見えない。  アイーザに捨てられたら、ロイドは本当に何も見えなくなってしまう。お金も、この国に関する知識も、常識も、ロイドは持ち合わせていない。帰り方もわからない。どちらへ帰りたいのかも、もうわからなかった。 「どうしよう…」  ロイドは泣きたかった。けれど、涙を流すことはしなかった。  普段はそんなこと、一切気にもしなかったのに、今、ふと思ってしまった。 (涙で汚して、弁償なんて言われたらどうしよう…)  何を今更と思うかもしれない。けれど、今のロイドの身の回りにあるものは皆、本来のロイドのための物で、今のロイドのための物は何一つとして無い。  そして、今居るロイドは紛い物。紛い物がロイドの全てを掠め取っているのが現状だ。 「…帰りたい」  1人ぼっちの世界で、ロイドは誰にも聞こえぬ言葉を漏らした。 「まさか貴方が此処までしているとは思いませんでしたよ。アイーザ?」  人払いされた日当たりの良い応接室。大きな窓硝子の外には、この屋敷自慢の庭園が広がっている。誰もが称賛するその場所を、ルネもアイーザも、一度も美しいと思ったことが無い。ただ人目を気にして花を植え、枝が伸びると不格好だからと切り揃えられているだけのものに、2人は何の価値も見出さない。  だから、2人が此処を使う際はいつも、庭が綺麗に見えるよう磨き上げられた窓の上に分厚いカーテンが引かれていた。  何とかという有名なデザイナーらしい人物が、この屋敷のために作り上げたと大層自慢していた父親一押しのソファに腰を掛け、優雅に紅茶に口を付けているルネが、そう言った。 「私は必要なことをしたまでです。特に変わった事はしていませんが?」  ルネの言葉に、アイーザはそう返事をした。アイーザはルネに相対する位置に座り、優雅に脚を組みながら、革表紙の書物に目を通している。けれどそれはあくまで手持ち無沙汰であるからなようで、彼の目は文字列を一切追うことなく、目の前に置かれている紅茶にも一切手を付けていなかった。 「にしても、可愛らしい子でしたね。彼」 「貴方が珍しく、会わせろ。と言った時は多少驚きましたが…」 「双子の弟が本気で求めた婚約者ですからねぇ?会わぬわけにはいかないでしょう?」 「渡しませんよ」 「要りません。私は人間という存在に興味はありますが、個という存在には全く興味が無いので」 「そうですか。では、2度とロイドには会わないでくださいね」 「しようと思えば出来ますが…、彼が私に会いたいというなら話は別ですね」 「一生そんなことをロイドは言いませんし、私が言わせませんよ」 「あぁ、嫌だ嫌だ。どうして貴方はそう、1つの存在に執着するんでしょうねぇ…」 「全く興味の無い貴方もどうかと思いますけどね」 「お互い様、というところですかね」  話は一旦区切られ、部屋には沈黙が降りる。2人はこの沈黙も慣れたもので、普段であれば気にしない。しかし、アイーザは違うようだった。 「話が終わったのなら、私は部屋に戻りますが?」 「まさか、寧ろ、これからが本題ですよ」  そう言ったルネは一切の音を立てずに、紅茶が半分残ったカップをソーサーへと戻した。白磁に美しい花々が描かれたカップは母親が、どこだかの異国へ訪問した際に一目惚れしたとかいう自慢の一品だった。 「で?あれほど“ロイド”個人にに関する一切合切を破棄したというのに、完全に記憶を弄らなかったのは何故です?」  ルネは知っていた。何故ロイドがこの世界へ来たのかも、そして、誰がこの世界へ連れてきたのかさえも。  それは、ルネとアイーザがまだ3年に進級して直ぐのことだった。  その頃、既にルネは魔塔へ所属しており、屋敷に居ることも殆ど無かった。  また、嫡男の役目も立場も全て放棄し、幼い頃に親が決めた顔も知らない婚約者との婚約関係も一方的に破棄し、魔塔に引き篭もりと言う名の籠城を決め込んでいた。  残る男子はアイーザ1人。  双子ながら、彼は次男という立場であったため、急いで婚約者を決める必要も無いと、両親はアイーザに関しては半ば放置していた。  可愛げが無かったというのもある。ルネは愛想笑いが出来たが、アイーザは出来ない人間だった。更に感情の起伏も少なく、一見は感情の起伏がある様に見えるルネとは明らかな差をつけられ、アイーザはこの屋敷に居た。  しかし、お気に入りの長男は魔塔へ逃げ出し、焦った両親はようやくそこでアイーザを見た。そして、早く婚約者を決めろと急かした。  この世界で成人と見做される年齢は、ロイドの世界よりも早い。しかし、まだ大人としては未熟であるために学園に通わされ、様々な立場の人間と触れ合い、見識を広めるのだ。そして、高位貴族の嫡男となったアイーザが、成人済みでありながらフリーという存在でいるのはとても不味い状況だった。  だからこそ両親はアイーザに数多の縁談を持ち掛けたが、アイーザは首を縦に振らなかった。そして、とうとうストレスがピークに達したアイーザは、両親にある条件を叩き付けた。 「貴方がたが望む、“嫡男”という存在にはなって差し上げましょう。ですが、婚約者のことに関して、首を突っ込むことは許さない」  アイーザの静かな宣言は、確かな圧と狂気を纏っていて、それに気圧された両親は黙って頷いた。  そして、アイーザが選んだ婚約者こそ、この世界の“ロイド”であった。アイーザは“ロイド”でなければ駄目だから選んだわけではない。本音を言えば、誰でも良かった。  ただ、その日たまたま開いた本のページに綺麗な緑色の石の絵があって、こんな色の瞳をした、ある程度容姿が整った者がいい。とか、選んだ理由はその程度。アイーザが要求するものに合致する人物がたまたま、“ロイド”しかいなかっただけのこと。  そんな彼は絶対に婚約関係を結ぼうとはしなかった。金色の鬣のような、少し傷んで広がった髪をバサバサと大きく揺らしながら、全身でアイーザを拒絶した。  それすらもアイーザは気にしなかった。だって、これで準備は整ったのだから…。  1つ補足しておくと、アイーザはルネと比べ、魔法が下手なわけでも、魔力量が少ないわけでもない。ただ、魔法に大した興味が無く、学ぶ気も、極める気も無いだけで、魔力量はルネ以上であったし、ルネが得意とする精神、記憶操作に関してもルネと比べれば多少劣る程度で、アイーザ自身は空間掌握と操作、そして自身の血を用いた汎ゆる特殊魔法を得意としていた。  それを公表しない理由は単に、面倒くさいからである。  アイーザは先程述べた通り、魔法に興味が無い。故に、魔塔にも興味が無い。しかし、そのことを公表してしまえば、アイーザは一生魔塔に付き纏われる事になる。そんなことは御免だったので、アイーザは今もそのことを公表していない。  学園でのアイーザの評価は平均よりは上程度のものである。  そして、ロイドがこの世界へやって来たあの日、アイーザは行動に移したのだった。  ロイドが寝ていた天蓋付きのベッドの上には、鎖でガチガチに縛り上げられた“ロイド”の姿。ベッドの下の床には、アイーザの血で描かれた不気味な魔法陣。  当のアイーザはといえば、ベッドのそばに立って、とても美しい笑みを浮かべ、“ロイド”を見下ろしている。 「貴方には感謝していますよ。外から何かを取り寄せるには、必ず代償が必要なので」  探すのに苦労した、とアイーザは言う。  “ロイド”は下級貴族の生まれで、嫡男ではなく、家は貧困で、両親は金に卑しく、甘い汁に弱い。少し色を付けて不要な息子の1人を金で買ってやれば、両手を挙げて喜んだ。そんな、あっさり金で買える贄を探していた。  そんな全ての条件を揃えていた“ロイド”は、アイーザにとって本当に都合の良い存在だった。 「それでは始めましょうか。本当に手頃で助かりました」  そう感謝の意を伝えると、アイーザは血が滴る片腕を水平に持ち上げた。手首に力を入れていないのか、手がだらりとしているが、そんな姿でさえも美しい。そして、そんな手の先、床に描かれた魔法陣を見据える指先から、数滴の血が滴り落ちた。  白いシャツの腕を捲り、剥き出しになっている白い陶器のような肌のアイーザの腕を、幾筋もの赤が這い、手首から手の甲、更には手のひらに細い蔓の様に絡みつき、そこから白く細長い、けれど少しだけ節が目立つ指を伝う。そして、ほんのりと色付く、綺麗に整えられた艶のある爪の先から、そこに集まった赤い雫が赤い絹糸の様に落ちる様は、傍から見れば、それは一種の厳格な儀式にも似た、とても神聖で美しいものに見える者さえいただろう。けれど“ロイド”には、死神が鎌を振り下ろす様と同義であった。  アイーザの血が床に舞い降りると、魔法陣は赤黒い光を放った。そして、地面から光と同色の、質量を持った液体にも見えるとろみを帯びた光がゆっくりと染み出し、“ロイド”が居るベッドへと迫り上がっていく。  そして、それはゆっくりとロイドを包みこんだ。“ロイド”は涙を流し、何やら声を上げていたようだったが、アイーザには聞こえていない。それ以前に、アイーザの頭の中では、ロイドという名の、金色の髪と、緑色の瞳をした、男。その程度の情報しかなく、“ロイド”がどんな顔をしていたか?どんな声だったか?性格は?身長は?その問いに、アイーザは一切答えられないだろう。何故なら、アイーザの頭から既に“ロイド”に関する一切が無くなっていたから。いや、そもそも、はじめから存在していたのかさえ定かではなかった。  赤黒く、若干のとろみを伴うそれはどこか血液にも似ていた。そして、“ロイド”を包み込んだ後、光は魔法陣に吸い取られるかのように消えた。  ベッドの上には“ロイド”の姿は無く、代わりにロイドが穏やかな寝息を立てて、ぐっすりと寝ていた。アイーザは先程までの美しい笑みとは打って変わり、ふわりと何かが解けたような表情でロイドを見て、静かに、僅かに微笑んだ  それが、ロイドがこの世界にやって来た経緯であった。  ロイドが偶然、ロイドという名前で、短い柔らかな金髪で、緑色の瞳をした、男で、年齢も同じだったからこそ、ロイドはアイーザに連れて来られたのだった。  アイーザが婚約者に求めたもの、それは絶対にアイーザを愛し、求め、一切の疑問も持たずアイーザだけを見て、アイーザだけの声を聞く者。  ロイドがそうであるかはわからない。  何故ならアイーザは空間を操り、操作することは出来るが、この世界の外部と接触する場合は数々の制限がある。こちらの世界ほど細かく指定はできず、ロイドという名前、金色の髪、緑色の瞳、男性、年齢、くらいの情報までしか絞ることができない。  そして、その条件を全て満たした候補をこの世界に連れて来る。  贄となった者がどうなるのか、アイーザは知らない。興味も無い。  今のアイーザの頭の中はロイドしか存在しなかった。  そして、アイーザはロイドに快楽を植え付け、それが花開くまで、何度も何度も抱き潰した。ロイドは泣くことも、嫌がることも、逃げもせず、アイーザを受け入れ、アイーザに縋った。  そうして昼夜無くロイドと肌を重ね、ロイドの意識が途切れると、アイーザは自身が所有している影に“ロイド”個人に関する一切の情報を破棄させた。そしてアイーザは、“ロイド”を知る全ての人間を対象に記憶操作の魔法をかけた。  それはとても単純で、しかし、それ故に強固であった。アイーザは“ロイド”の存在そのものを消したわけではない。あくまで、その上にロイドの姿を上書きしたに過ぎない。  こうして、貧乏貴族の、嫡男ではない息子で、アイーザの婚約者である、ロイドが誕生したのである。  そして、ルネが何故そのことを知っているのかといえば、アイーザはルネの記憶を弄っていないからだ。そもそもルネには“ロイド”の記憶が無かった。いや、一時はアイーザの婚約者という名目の肩書きを持ってはいたので、ルネは“ロイド”を見たことがあるし、挨拶もしている。  けれど、興味が無かったのだろう、ルネの中にある“ロイド”に関するものは、金髪で、碧眼、アイーザの婚約者(らしい)男、程度の記号しかなかった。  更に言えば、ルネは魔法に対する造詣が深い。それは、言い換えれば魔法に対する防衛術、対処法にも優れているということだ。更にアイーザには劣るとは言え、高い魔力も加われば、いくらアイーザとてルネの記憶を操作することは容易ではない。  仮に出来たとしても、ルネは何かしらの痕跡を見つけ、自ら魔法を解き、アイーザに詰め寄ってくるだろうから、そちらの方が面倒だった。  だからこそ、ルネはある種の共犯であり、全てを知っているのだ。 「無理に変革を起こせば、必ずどこかが反発し、綻びが生じます。そしてそれを完全に阻止するためには莫大な時間と財力、体力を必要とします。私は、そのどれもこれもが面倒だっただけですよ」 「だからこそ、ある程度の下地を作り、思い込ませ、変化の少ないパーツを持った新たな部品をそこに嵌め込んだと…?」 「仮の部品を外して、本来のあるべき者を嵌めただけですよ。肩書きがあるということはとても重要で、時に、簡単に物事を進めるのに役立ちます」  そこでようやくアイーザは、冷めきった紅茶に口を付けた。そして、残りは全てカップを斜めに傾けて床に垂れ流した。更に口に含んだそれも吐き捨てて、敷き詰められている絨毯を汚した。  両親が2人で選んだという、この部屋1番の自慢の絨毯が紅茶の色に染まる。カップの中の白磁が僅かに煤けた灰色に染まっていた。 「おや、またですか?」 「普段からこうですよ。まぁ、死なないと踏んだのか、  最近は慣れた致死性の毒とは違うものを用いるようになりましたが」 「貴方も大変ですねぇ…」 「慣れたものです。私が消えれば、貴方を無理矢理にでも呼び戻せますからね。あれらも気が気じゃないようです」 「貴方が死んだところで、私は帰って来る気など更々無いというのに…。困ったものですねぇ、愛されるというのも」 「悍ましい…」  アイーザの顔には何の表情も無かったが、その声音には明らかな侮蔑と嫌悪があった。  アイーザは愛という言葉を嫌った。  ロイドのことを、可愛い、愛おしい、愛らしい、とは言うけれど愛しているとは一度も言ったことがない。愛とは相手を雁字搦めに縛り付け、全てを奪い、屈服させ、幻覚を起こし、自らの所有物とする呪いであり、麻薬である。  呪いも魔法の一種であり、魔法とは言葉だ。  言葉に意思と想像を乗せ、声として発することで具現化させるもの。アイーザは言葉でロイドを縛り付けたいわけではない。  アイーザはアイーザ自身でロイドを縛り付けたかった。だからこそ、「愛している」の一言は絶対に言わない。  これは、魔法を用いる者だけの悩みであり、苦悩であると言えるだろう。しかし、大半の魔法を使える者達は、そんなことに気付きもせず、悩みもしない。誰もがその強大な力を操れる事を喜び、力に溺れるか、ルネのように探求するかのどちらかだ。  きっと、アイーザは魔法が嫌いなのだろう。だからこそ苦悩し悩むのだ。少なくともアイーザはそう思っている。 「それで?貴方は大切な婚約者のためにしっかりとした基盤の舞台を用意して、自身の部屋に閉じ込めるだけで満足なんですか?」 「そう見えるのだとしたら、随分と耄碌したものですね」 「聞いてみただけですよ。それで、次はどうするおつもりで?」 「邪魔な女を排除しようかと…」 「あぁ…」  アイーザの答えにルネは思い当たるものがあるのか、短い返事を返しただけだった。納得を含んだルネの返事は、同時にアイーザに加担する同意でもあった。 「聖女の皮を被った娼婦、あどけない少女の顔をした傾城、無垢とは時に、邪心や下心を持った者よりもたちが悪い」 「大人しくしているなら放っておこうと思っていたのですが、言うに事欠いて、あちらからロイドに接触していたので…。まぁ、正当防衛ですね」 「気をつけてくださいね?正当防衛とはいえ、やりすぎればそれは罪になりますから」 「ハッ、私のロイドに接触した時点で、それ以上の罪があるとでも?無意識の加害者がロイドに接触するなどと…。烏滸がましい」 「哀れですねぇ、憐憫の情を拭いきれません」 そう言うルネの顔には、笑みしか浮かんでいない。 そして、柱時計の鐘が鳴る。ルネが立ち上がり、カーテンの外を見れば、日が沈みはじめていた。 「そろそろお暇しましょうか。時間も時間ですし」 「無駄な時間を過ごしましたよ、全く…」 「失礼ですねぇ」  そう言って2人はこの部屋唯一の扉へと向かう。廊下に出て、互いに背を向け歩き出した途端、背後からルネがアイーザに声をかけた。 「次の機会があれば、その時は別の部屋でお願いしますね?私、この部屋、嫌いなので」 「奇遇ですね、私もです」  そうして、アイーザがロイドが待っている部屋に戻ってきた。  ロイドが待つ部屋の扉を開けると、そこは、しん…と静まり返り、暗い部屋に光を遮る厚いカーテンの隙間から、赤い夕日が僅かに差し込んでいる。 「ロイド…?」  普段出迎えたり、身体が辛く出迎え出来ないときも必ず「おかえりなさい」の一言をくれるロイドの声が聞こえない。そうでなくとも、昨日は手酷く抱いていないので、出迎えてくれるはずだと、アイーザは決め込んでいた。 そのロイドが居ない。  アイーザは逸る気持ちを抑えることもせず、ベッドになだれ込み、崩れ落ちるかのようにベッドに近づき、その中を確認した。  そこには、静かな寝息を立てているロイドがいた。 眠るロイドの姿を視界に収めて、ようやくアイーザは呼吸を取り戻すことが出来た。  そして、ベッドに腰掛け、アイーザは熱の籠もった目でロイドを見つめる。しかし、その熱は一瞬で霧散した。  ロイドの目尻に残る、1筋の痕。 「一体、何に涙を流したというんです…?」  アイーザは息を呑み、静かにそれに触れる。痕を伝っていくと、枕カバーが濡れていた。そこはしっかりと染みになっており、ロイドが長い時間、1人で涙を流し泣いていたことを如実にアイーザに伝えていた。  アイーザの眉間に、僅かに皺が寄る。この涙は、昨日の3人組から受けた暴言のせいではない。となると、理由は…?  アイーザが瞬きも忘れて長考する。ロイドが1人、これ程までに涙を流していた理由。今のこの眠りは泣き疲れたせいだろう。ロイドがこれ程までに嘆き悲しむ理由は、一体なんだ。 「…ん、んぅ…」  ロイドが僅かな寝息を漏らす。アイーザの耳は、ロイドの声だけはどんなことがあろうと届き、拾う。アイーザがロイドの寝顔を覗き込めば、眉間に皺を寄せた酷く辛そうな顔のロイドがいた。 「…ぃ。か…た、い…」 「ロイド?」  何か寝言を言っているロイド。  アイーザは心配でそのままうつ伏せの様になりながら、両方の二の腕をベッドに付けて、ロイドの頭を閉じ込め、ロイドの寝息が掛かりそうな至近距離で、ロイドの顔を覗き込む。  するとロイドはまた、微かに、ゆっくりと唇を動かした。 「かえ、り…たい…」  ロイドは確かにそう言った。そして、透明な涙を流す。それはロイドが流した涙の痕を伝い、枕カバーへと落ち、消えた。  アイーザは目を見開いている。瞳孔は開き、視線はロイドにあるのに、視線がブレて定まらない感覚に襲われる。  アイーザにはロイドが流した涙にロイド自身が重なって見えた。  ロイドが消える。これほど厳重に、アイーザが何度も何度も快楽と束縛を与え、教え込み、身体には与えた分だけ痕を残し、それを鍵として完全に閉じ込めていた筈なのに。  ロイドも、受け入れていた筈なのに、それなのにロイドは消えてしまいたい。元の世界に帰りたいというのだろうか?  この枕カバーに残る、直ぐに乾いて消えてしまうような痕。それほどまでにロイドはアイーザの中から消えて無くなりたい、帰りたいと言うのだろうか?  ロイドという存在は、既にアイーザの中で真っ黒な焦げ痕のように、どんなに洗っても擦っても落ちない、全身に焼き付いた存在になっているというのに? 「ロイド…」 「…んっ、んん…?あ、…れ?…アイーザ?」  アイーザの声が、ロイドの眠りに落ちていた意識を呼び寄せる。ロイドはそれに素直に従い、ゆっくりと意識を浮上させ、まだとろりとしている瞼を薄っすらと開けた。そこで、予想外に目の前にあるアイーザの美貌に驚き、更に、自身が涙を流し、枕カバーを汚してしまっていることに気が付き、顔を青褪めさせる。 「あ…!?あ、の…!すみませ…」 「ロイド」  アイーザに名を呼ばれ、ロイドはアイーザを見た。そして、息を呑んだ。  アイーザが秘める狂気の一片を、ロイドは知っている。だからこそロイドは、ある程度アイーザを知っていると思っていた。  けれど、今のアイーザをロイドは知らない。  目を見開き、その目はロイドを見ているのに見ていない。アイーザの執着にはいつもどこか、ロイドを優しく包み込むような側面が見え隠れしていたのに、今は執着と支配と独占だけが剥き出しになっている。  その時初めて、ロイドはアイーザがずっと秘めてきたロイドに対する真の欲望と対面したのだった。 「あっ…、んっ…!はぁ…ッ!あ、…あぁ!あっ、んン…」  あれからどれ程の時間が経ったのか、ロイドにはもう分からない。アイーザの欲望と対峙してからずっと、ロイドはアイーザに抱かれている。  部屋にはずっとロイドの声が響き渡り、ベッドの上には激しい情事の痕が残っている。濃い性の匂いを含んだ重いピンク色の空気が辺りに充満しており、その空気が、時折漏れるアイーザの吐息が、声が、ロイドに触れるアイーザの指が、アイーザのドロドロとロイドに絡みつく欲望が、その全てがロイドを酔わせ、快楽に変わる。  何度身を捩り、快楽から逃れようとしても、アイーザの腕が、脚が絡みつき、「逃げるな…」と低く這いずるような声で命令されればロイドは石のように固まり、足首を掴まれズルズルとアイーザの元へ引き戻される。そして、終わらない快楽を延々と与えられ続けた。 「アイーザ…!ごめ、なさ…ッ!アァッ!」  ロイドは時折そうして、厭らしい喘ぎ声の合間にアイーザに謝罪の言葉を伝えようとする。けれど、アイーザはそれを聞き入れず、ロイドの最奥を激しく犯しては、その言葉を無理矢理塞いだ。  ロイドには、アイーザの醜い白濁の欲望が何度も吐き出され、ロイドはそれを飲み干し、中で受け止め、そんなアイーザにさえ甘え、縋った。  そんなロイドにアイーザは容赦無く何度も、何度も、飽きる事なくその欲望を吐き出し、ロイドはそれを必死に受け止めた。けれど、物事には必ず限界があり、ロイドの中はアイーザの欲望で満たされ、溢れて、決壊する。  そうして、決壊し、溢れさせてしまったロイドを咎めるように、アイーザはまたロイドが壊れてしまうほどの快楽を与え続け、白濁の欲望で汚し、ロイドを溺れさせる。  ロイドが助けを求めるようにアイーザに手を伸ばす。アイーザはそれを取って、更に深くへと引き摺り込んでいく。ロイドに救いなど無く、あるのはアイーザから与えられる苦痛のような激しい快楽のみだった。  それからもアイーザとロイドは激しい情事を続け、空が白みはじめる頃に眠った。その間もアイーザはロイドを手放す事無く、ロイドはずっとアイーザの腕の中に居た。  けれど、そんな欲望をただ吐き出し、叩き付け、刻み込まれる交わりにロイドは恐怖でも嫌悪でもなく、確かな安心を得ていた。  激しすぎる快楽も、途方もない欲望も、終わらない交わりも、それらは全てアイーザのロイドに対する執着であり、愛である。  そのことをロイドは短い期間過ごしただけにも関わらず、知っている。  短くはあれど、四六時中、熱が冷めやらぬほど、溶けた砂糖が煮つまりドロドロの蜜に変わるほど、ロイドは只管アイーザに求められ、愛された。それほど濃蜜な時間を過ごし、アイーザのそばに居たのだ。  ロイドの身体には夥しいほどのアイーザの所有の証が刻まれて、中はアイーザの欲望で満たされて、その奥にはアイーザという存在が赤黒い棘茨の蔦となって、ロイドを常に蝕み、侵食し、愛し、犯して、ロイドを支配し捕らえてしまっている。  ロイドは、それが何とも心地良かった。安心して、全てを委ねて、何もかもを任せてしまいたい。  だからロイドは、先程までの情交さえも甘やかなものに捉え、喜びと安心を感じ、今もぴったりとアイーザの胸元に自身を埋めて安らかな寝息を立てている。  そんな様子のロイドを見て、アイーザも少し落ち着きを取り戻したのか、今はロイドと共に眠っている。ずっとロイドにアイーザ!アイーザ!と求められ、アイーザもまた喜びと安心を得ていた。それでもどこかでロイドの「帰りたい」がちらつき結局、酷く激しく犯し尽くしてしまった。  それでもロイドはアイーザと離れたくないと、アイーザにずっと抱き着いていた。そして、意識を飛ばすかのように寝てしまったロイドをアイーザはキツく抱きしめた。そんなアイーザの姿には、悲痛すぎるほどの彼の祈りが込められていた。  ふと、アイーザが先に目を覚ました。分厚いカーテンは窓の光を完全に遮り、閉ざされた天蓋が2人と外を完全に隔絶する。そんな空間が、アイーザに僅かな安堵を齎した。  まだ腕の中で眠るロイドをアイーザはしっかりと抱きしめ、どうすればロイドを自身に縛り付けておけるか、そのことだけがアイーザを支配する。  快楽と行動だけではだめなのか、態度だけでは足りないのか。  結局「愛している」の言葉で、ロイドを縛るしか手段はないのか…。  しかし、その手段は、その方法だけは、アイーザは選びたくない。選ぶわけにはいかない。アイーザは自分に縛り付けたいのであって、呪い(まじない)で縛り付けたいわけではない。そんな偽りは要らない。ロイド自身がアイーザを受け入れなければ意味がない。 「ロイド…」 「…ん"ッ、ケホッ…、アイーザ…?」  アイーザの呼びかけに応えるように、ロイドは目を覚ました。散々啼いたせいだろう、声は掠れ、喉が乾燥しているのか、小さく咳をした。アイーザがベッドサイドに目をやると、其処にはクリスタルガラスの水差しとグラスが並べられていた。  アイーザが一度ロイドから離れると、水差しの中に水が入っているかを確認する。そして入っていた水を全て床にぶち撒け、魔法で冷たい水を生み出しグラスに注いだ。  アイーザが離れるとロイドは泣きぐずったが、グラスを持ったアイーザが戻って来ると、大人しくなる。そのままアイーザに抱き起こされて、ロイドはグラスを受け取ろうとした。  しかし、アイーザはグラスを渡さず、一度アイーザ自身がグラスの水を一口飲んで、喉を潤し、自らが口を付けたグラスをアイーザ自身の手でロイドの口元へと持っていく。  ロイドの唇にグラスをつけると、ロイドは嫌々と唇を離そうとし、両手でグラスを受け取ろうとする。アイーザはそんなロイドの腕ごとキツく片腕で抱きしめて自由を奪うと、再度ロイドの唇にグラスをくっつけた。 「ンンッ…、んむ…っ、…んっ」  それでも嫌々としていたロイドだったが、喉の渇きに耐えきれなくなったのか、薄っすらと口を開いた。  アイーザは少しだけグラスを傾け、少しずつロイドの口の中に流し込む。ロイドは何とか綺麗に飲もうとするのだが、自身で水量を調整出来ないためか、口の端から水が筋となって流れ落ちている。  その水がロイドの身体に流れ落ちる度に、情事の余韻が抜けきらないまだ敏感な肌が、その冷たさと刺激で身体を跳ねさせ、ビクビクと震わせる。  そんな激しい情事の際のような姿に、アイーザは激しく欲情していた。  だからだろうか、アイーザに邪な考えが過ぎる。一度はその欲を水を飲み終えたロイドの濡れた唇を舐め、口の端を伝う水を舐め取ることで落ち着かせようとした。  しかし、それでも欲に溺れきってしまっていたアイーザは、そんな邪な考えをあっさりと実行に移した。  グラスが空になると、ロイドは再度水を強請った。  そして、アイーザは水を注ぎ、先程と同じ方法でロイドに与える。しかし、1つだけ違うのは、先程までは僅かだったグラスの傾け方が、段々と急になってきていることだった。  最初こそロイドは溢しながらも飲んでいたが、今はすっかりロイドの口の容量を超え、完全に口から流れ出している。  そしてとうとうロイドは水を完全に吐き出し、ゲホゲホッと激しく噎せていた。そんな姿さえもアイーザには愛おしく、ロイドの顔を無理矢理上げさせると激しく唇を奪った。  ロイドは苦しくて涙を流す。そして、唇が離れるとロイドはとうとう泣き出して、「ごめんなさい…」と、壊れた人形のように繰り返した。 「ロイド…?」 「ご…、ごめんなさ…ッ、よ、汚して…、シーツ…濡らして、ごめんなさい…。ごめ…な、さ…」  まさかの謝罪理由に、アイーザは呆気に取られてしまう。  何故そんな事を気にするのか、アイーザには分からない。シーツなど変えれば良い。ベッドが汚れたならベッドごと取り換えれば済む話だ。ロイドが気にする事も、泣くことなどないというのに、アイーザには何故ロイドがそう考えたのか分からない。 「ロイド?私は貴方に、シーツを汚した程度で叱ったりなどしましたか?」 「し、てな…です…。でも…わ、私は…ロイドじゃない…から」 「?、ロイドじゃない?」 「私は…、アイーザの婚約者の、ロイドじゃないんです…っ。ずっと、言わなきゃいけなかったのに…。本当に、ごめんなさ…」 「ロイド、何の話をロイドしているんです?私の婚約者は貴方だけです。他になどいません」 「いるんです!私は…別の世界から、来た人間で…、ロイドですけど…、この世界の、ロイドじゃないんです…」 「あぁ、そういう…」 「騙していてすみません…!早く言わなきゃいけなかったのに、私がアイーザの腕の中にいたくて、ずっと…う、嘘をついていたんです…。最初から…、分かっていたのに…」  ロイドはそれから、ボロボロと涙を溢した。涙は留まることを知らず溢れ、その間もロイドは自身の手で強く目元を擦り、「ごめんなさい」と「すみません」を繰り返した。 「ロイド…」  アイーザが優しくロイドの手を掴み、目元を擦る行為をやめさせる。そのままアイーザがロイドの瞼にキスをして、舌を這わせ、溢れる涙を飲み干すことで、ロイドは泣き止んだ。 「落ち着きましたか?」  アイーザの問いかけに、ロイドはコクリと目元が擦れて赤くなった顔で、小さく頷いた。 「ロイド、貴方は私を騙していたと言いましたが、私は騙されてなどいませんよ?何せ私は、最初から貴方が此方の世界のロイドとは全くの別人だと知っていて、貴方を抱いたんですから」 「…え?」  アイーザは、ロイドが此方へ来ることになった元凶が自分だと本来のロイドがどうなったかの詳細は省いて伝えた。 「どうして、そんな事をしたんです?」  ロイドの問いに、アイーザは淡々と答えた。 「必要だったのは彼の肩書きと、この世界にロイドという青年が存在し、私と同じ学校に通う、私の婚約者であるという事実です」 「…?」  ロイドは上手く理解できていない様子で、眉間に僅かに皺が寄り、不安そうな顔で、一生懸命アイーザの言葉を理解しようとしている。アイーザはそんなロイドが愛おしくて堪らず、額や目元、眉間に鼻先、頬に唇と余す所なく口付けを落としながら、静かに続きを囁いた。 「要は、私は最初から彼に興味など無く、その後にやって来る“ロイド”に僅かに期待をしていたんです」 「それがもし、私以外の別のロイドだったら…。それでもアイーザは、そのロイドを抱きましたか?」 「どうでしょうね…。仮に抱いたとして、きっとそのロイドは壊れたと思いますよ」 「壊れる…ですか?なぜ?」 「私がしていたのは、あくまで“僅かな期待”だけ。私を受け入れ、受け止めきれる人間が早々いるとも思えません」  確かに、アイーザの愛は濃く、濃密で、粘度が高くて、重い。けれど、それを受け入れるのも受け止めるのも、ロイドはそんな大変なことだとは思えなかった。  それだけの愛を向けられること、それはロイドにとって喜びであり、安心であり、幸福なことだからだ。だからこそロイドにはアイーザの言葉が分からず、首を傾げることしか出来ない。 「だからこそ、ロイド。貴方という存在は想定外でした」 「あっ…」  アイーザはそのままロイドを押し倒し、馬乗りになり、ロイドを拘束する。そして、アイーザの唇が、舌が、ロイドの目尻、頬、顎のラインをなぞり、首筋を這い、喉仏を軽く甘噛みして、更に下に降りていく、ロイドの胸の上を滑り、赤い胸の飾りをアイーザが舐め、緩く歯を立て、押し潰し、口に含み、吸い付く。  チュッ、とわざとリップ音を立て、口から離すとアイーザはまたロイドに口付けた。  舌を絡め、最後には銀色の糸が引く濃厚な口付を終えてから、アイーザは続きを話した。  あの日、入れ替わったロイドの姿を見て、アイーザは不思議な感覚に襲われていた。  同じ金色の髪も、あの男はみすぼらしい獅子の鬣のような、ボサボサとして大層見苦しいものであったが、ロイドの髪は柔らかそうで、キラキラと美しい金糸のようだと、アイーザの目には映った。  その寝顔はどこかあどけなく、しかし、アイーザの奥底に眠る欲望に如実に訴えかけ、薄っすらと開いた赤い唇が、アイーザを淫らな享楽へと誘う。  ロイドはあの男よりも背が高かった。しかしその体つきはどこか線が細く、しっかりとしていそうでどこか頼りない。そんなアンバランスさが独特な色香を醸し出し、それがアイーザの理性の糸を1本、また1本、ぷつり、ぷつり…と切り落とす。 「これほどまでに、違うものですか…?」  アイーザは誘い込まれるままにロイドの肌に触れた。捲れかけたTシャツの脇腹をつうっ、とアイーザの指がなぞり、そのまま眠っているロイドが履いていたハーフパンツのゴムへと引っ掛け、下着ごと引き摺り下ろした。  そんなあられもないロイドの下半身を見ても、アイーザは萎えるどころか完全に勃起し、己の欲望を完全に持て余していた。 「まさか、男もいけるとは…」  新たな予想外にアイーザは1人笑いを漏らしながら、欲望の手を取り、そのままロイドの身体へと身を沈めた。  ロイドは最初こそ意識がはっきりせぬまま、アイーザにされるがままになっていたが、少しずつ意識を浮上させ、甘い快楽の微睡みの中に居たロイドは、甘えるように蕩けた声で、アイーザに「もっと…」とお強請りした。  初めてだろうに、それでも淫らに快楽を素直に拾い受け入れる身体に、更にアイーザは笑みを深くした。 「というのが、あの日の経緯です。貴方は微睡みの中に居たので殆ど記憶が曖昧でしょうが…」 「わ…、私が、強請ったんですか…?」 「そうですよ?1度でやめようと思ったんですけどね。あれほど可愛らしく求められれば、嫌と言うほど甘やかしてやりたくなるでしょう?」  そうアイーザがロイドの耳元で囁く。ロイドが耳を真っ赤に染め上げると、悪戯にアイーザはその耳の輪郭をなぞるように舌を這わせ、耳朶に口付ける。 「し、死ぬほど恥ずかしいのに…ッ!これ以上煽るのはやめてくださいっ!」 「今更でしょう?どれほど身体を重ね、肌を合わせたと思っているんです?」 「それとこれとは話が別ですッ!」 「ふふ、初々しい姿もまた愛らしい」 「アイーザ!」  ロイドが耐えきれないと叫ぶと、アイーザはようやくロイドを誂うのをやめた。そして、アイーザの手がロイドの首筋に触れる。 「酷く無理をさせましたね。まだ掠れている…」 「平気ですよ?それより、アイーザ…」 「なんでしょう?」 「私は…、此処に。…貴方の腕の中に居てもいいんですか?」 「ええ、勿論」 「ずーっと?」 「ええ。というより、貴方が嫌がり拒んでも、私は貴方を手放してやれません」 「それじゃあ、私は…。私の帰る場所は、貴方の腕の中でいいんですよね?」 「それ以外の何処に行くと言うんです?そもそも、帰ろうと思うことすら無くなりますよ。ロイド、貴方は一生、この中に閉じ込められるんですから」  アイーザにそう言われ、ロイドはトロリとした笑みを浮かべ、アイーザに1つお強請りをした。 「それじゃあ、アイーザ。私に水をください。いつものように、私に水の味を教えてください…」 「勿論、貴方が望むなら喜んで…」  そう言ってアイーザは水を入れていたグラスを手に取ると、それに口付け、水を口に含む。そのままロイドに口付けてその水をロイドに与える。ロイドは喜んでその口移しを口実にした口付けを受け入れ、アイーザから与えられる水をコクリ、コクリ…と嚥下した。  アイーザの口が離れると、ロイドは「まだ…」と言う様にアイーザの口を追いかけ、自らアイーザに口付けをする。そして、ロイドの唇が離れると、今度はアイーザがそれを追いかける。  そんな甘い戯れを繰り返しながら、2度、3度とアイーザはロイドがもう良いというまで、何度も口移しをした。  それが終わると、もうお前の役目は無いと言う様に、アイーザがグラスをベッドの外へと追いやる。ベッドから落とされたグラスは柔らかな絨毯の上に落ちたことで被害を免れたが、絨毯には零れ落ちた水が染み込み、大きな痕を作っていた。  それからまた2人は睦み合い、溢れる互いの情欲に逆らわぬまま、しっとりと肌を重ねた。  熱い吐息と甘い喘ぎ声が天蓋付きのベッドという2人の狭く小さな閨を支配していく。それでも2人は快楽に浸かり、溺れ、互いの欲を吐き出した。けれど、身体は限界を迎えたのか、そんな夜の余韻に浸りながら、2人は微睡みの中に落ち、身を寄せ合いながら深い眠りへと沈んでいった。  その後、目が覚めた2人はまた深く交わり合っていた。  それは一見激しくも濃密に絡まる、互いの存在を確かめ合うような、とても深くて濃い情交だった。  何度も深い口付を交わし、常にアイーザはロイドの中に居た。そしてそのまま激しく犯すのではなく、互いに手で触れ、舌を這わせ、口付け、肌を合わせる。ロイドは常にアイーザに満たされ、アイーザを感じながら、深い、深い、快楽の海に落ちていく。  ロイドの足先が、シーツの海の上を艶めかしく泳ぎ、時折快楽で脚を震わせ、シーツには数多の皺が寄っていた。それでもロイドは深過ぎる快楽を逃がそうと爪先でシーツを引っ掻いた。  そして、奥底から湧き上がる重さを含んだ絶頂でロイドの脚はピンと張り詰めたように真っ直ぐ伸びる。アイーザはそんなロイドの脚を撫で、内腿に痕を残すように口付ける。するとロイドの脚がアイーザに甘えるかのように絡みつき、抱き着いてきた。  ロイドの腕も、脚も、中も、アイーザを強請るかのように絡みつき、アイーザに甘えるかのように抱き着いて、それにアイーザは気を良くし、欲を隠しきれない笑みを浮かべ、ロイドの最奥へと熱い欲望を吐き出す。  2人はもう、今が昼なのか、夜なのかさえ分からない。そんな事はもうどうでも良く、ただ互いだけがいれば良かった。  ずっと、狭い空間の中で、ロイドがアイーザに溶けていく声が響いている。 「ん…、んんっ、あッ…あぁ…、あんッ!あ、あ…、ハァ…ッ、あぁ…」  そんなロイドの甘ったるい啼き声が、更にアイーザの興奮を煽る。そして、ロイドは時折、喉が渇いたと訴えた。そしてロイドは水ではなくアイーザからのキスを強請り、アイーザはそれに答えた。そのキスは渇きを癒す口移しのキスではなく、愛していると言えないアイーザのための、伝えたくても伝えられない愛の渇きを癒すキスでもあった。口でも、下でも交わって、2人は互いにドロドロに蕩け、溶け合うかのようなセックスをして、ロイドはまだ快感に震える疲れきった身体で、それでもアイーザが足りないと啼いて訴える。そんなロイドにアイーザは性の欲望を満たすものではない、ただ、お互いの愛を満たすために肌をぴったりとくっつけ、ロイドにアイーザが覆い被さるように抱きしめる。  するとロイドは安心しきった満たされた顔で、自らもアイーザ背に腕を回し、肌と肌をより密着させる。そうしてお互いが重なりあったまま、ロイドはアイーザの温もりとその重さを感じては幸せそうな顔をしていた。  その後も2人はぴったりと肌を重ね合わせ、互いの心音が溶け合う感覚に酔い、互いが与える肌が触れ合う感触と温もりに確かな安らぎを感じていた。  覆い被さっていたアイーザは、いつまでも自身が乗っていたら重いだろうとロイドと向かい合う横向き寝に体勢を変えた。そんな体勢になっても2人はぴったりと離れることなく、ロイドは脚までもアイーザに絡め取られていた。  しかし、ロイドの顔は少し不服そうだった。 「どうしました?」 「あのままでも良かったのに…」  どうやらロイドは、ずっとアイーザに覆い被さっていて欲しかったらしい。そんな事を言われるとは思っていなかったアイーザは驚き、一瞬言葉を失う。  ロイドは照れて真っ赤な顔を隠すように、アイーザの胸に顔を埋めた。 「ずっと貴方に閉じ込められて、貴方の愛の重みを感じているかのようで、凄く安心するんです…」 「おやおや、それではロイドはもう、元の世界には帰らないつもりですか?」  そう言ったロイドを誂うかのように、けれど歓喜と安心に溢れた表情でアイーザはロイドの頭を優しく、愛おしげに撫でながら、彼もまた今の顔はロイドに見せられないと思っていた。 「帰りませんよ」  ロイドは耳も首筋までも真っ赤にしながら、アイーザの胸に顔を埋めていたロイドだったが、それでもその声は酷く真摯だった。ロイドがおずおずと顔を上げると、羞恥で潤んだ色の瞳で、それでもアイーザを真っ直ぐ見ていた。  そして、ロイドはもう一度、切なさと苦悶が入り乱れたような表情で、「帰りませんよ?」と繰り返した。  その言葉はアイーザに許しを求める敬虔な祈りにもにて。ロイドは何も言わず、そんな表情で訴えかけながら、アイーザの返答を待っている。  アイーザはくすっと笑い、ロイドの頬へと触れた。  そして、その返事を言葉ではなく、甘美な口付けて応えた。  ロイドをとろとろに溶かすように甘やかで、ロイドの奥底の快楽と欲を刺激する、しっとりと深く長い口付け。  どこか神聖で、けれど確かな淫靡と淫猥さを含んだそれは、夫婦の誓いのキスよりも厭らしく、けれど、性的な行為そのもののためのキスよりも美しかった。

ともだちにシェアしよう!