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第3話
そんな蜜月のような愛の確認の日々を終え、2人は久しぶりに登校してきた。2人だけのベッドでゆっくりと朝を迎え、愛を確かめ合うような口付けを交わし、朝食はいつも通りアイーザの口移しで与えられる。
そんな朝の濃蜜な時間を侍女やアイーザの両親に見咎められながらも、どっぷりと2人だけの世界に浸っているアイーザとロイドは、そんな言葉も視線も無視して馬車へと乗り込んだ。
そんな馬車という狭い密室の中でも2人は片時も離れず、酷く淫らで甘い時間を過ごし、ロイドはアイーザから与えられる快楽で何度か果てた。
学園に到着すると、ロイドはアイーザに首輪を強請り、アイーザは笑ってロイドの首に自身の証を巻き付ける。
ロイドは首輪のタンザナイトにそっと触れ、アイーザの証がちゃんと其処にある事を確認すると、うっとりと恍惚の表情を浮かべた。
それから2人は、学園内でも蜜月のような時間を過ごす。
周囲からの視線も噂も、2人の世界には存在しない。あの朝の光景を校内でも繰り返し、その姿を見た生徒達はあまりの姿に目を逸らし、教師達は一部は目を瞠目して固まり、残りの者達は2人を叱責した。そんな教師達の態度に僅かな窮屈さを覚えながらも、自身の行いを鑑みることなく、時折、悪戯に軽いキスを贈り合いながら、2人は学園生活のその日を終える。
そんな最後まで寄り添い合う帰宅姿を生徒達は嫉妬と羨望、驚愕が入り混じった目で見つめていたが、その中に1人だけ、呆れを含んだ覚めた視線を送る者がいた。
真っ赤な夕暮れに染まるその表情に温度は無く、影が落ちる顔には天使のような微笑みも無い。そんな1人の生徒、アリアは自身の手首を握る手に力を込めている。震えて、激しく何かに爪を立てようとする手を、彼女は必死に押さえつけていた。
それから数日後、その日はルネが珍しく登校していた。
校内に備え付けられている応接室を借り、アイーザとルネが向かい合って置かれている革張りのソファに、相対するように座っている。
「全く…、ようやく連絡を寄越したと思ったら、まさか乳繰り合っていたとは…」
「否定はしませんし、ロイドとの関係構築において必要なことでしたので、弁明もしませんよ」
「腹が立つほどに潔いですねぇ。まぁ、その埋め合わせは後日していただきましょうか」
そう言うと、部屋は突然ピリッと張り詰めた空気に変わった。
優雅に脚を組み、穏やかな笑みを浮かべていたルネの顔が、鋭さに変わり、まるで穏やかな顔の面を取り外したかのように、表情が一変していた。
「本題に入りましょうか。貴方は、どうするつもりなんです?アイーザ」
ルネの問いにアイーザは笑みで返す。その笑みはどこか傲慢で、不遜で、先の全てを見通し、確信しているかのような笑みだった。
所変わって特進科の校舎。そこの南側校舎には、そこそこの広さを誇る中庭がある。草木が丁寧に世話をされ、正しく切り揃えられており、管理がしっかりと行き届いているのが見て取れた。
そんな庭の中央に鎮座する大きなアーチは、薄桃色の薔薇の花達で美しく装飾され、その甘い香りは様々な者達を虜にした。
そんな庭は生徒や教師達の憩いの場となっており、様々な者達が足を運ぶ。
しかし、北側の校舎にも小さな、忘れられた中庭があった。
そこに咲くのは小さな花達で、見る者の目を癒すものの、薔薇のアーチのような、人の目を惹きつける力は無い。それでも草木が生き生きとして、瑞々しい葉を広げ、吹き抜ける風は甘い花と爽やかな緑の香りを運んでくれる。
ひっそりと置かれた白い大理石の柱のガゼボ。ドーム型の天井は繊細なレースの網目のように、細い金属を編むようにして作られていて、そこから差し込む光と地面に映る影が何とも幻想的で、美しい。
ロイドは、この場所をとても気に入っていた。
ゲームでのクライマックス。攻略対象からの告白シーンは、南校舎の薔薇のアーチの下で行われる。そこで愛を誓い合った2人は永遠に結ばれるという、何とも在り来りな伝説がゲーム内で登場するからだ。
しかし、アイーザによればあの薔薇のアーチは自分達が入学する少し前に出来たものであるという。多分噂好きな誰かあのアーチの下で結ばれ、尾鰭や背鰭が付いたのだろうと推測し、そんな眉唾話は無いと切り捨てていた。
一方、この庭は、ゲームの中では一切出てこない。
一応、校内地図で存在は確認できるのだが、ゲームのキャラ操作は、目的地の選択肢を選ぶだけなので、その選択肢が無ければ来ることが出来ないのだ。
「この世界に来ないと出来ない、とても贅沢な経験ですよね」
プレイヤーですら来ることが出来ない場所に、ロイドは居る。
そして、本来ヒロインしか愛さない筈の男に、ロイドは深く愛され、求められ、抱かれている。
こんなことになるなんて、誰が想像できるだろう…。
けれど、これら全ては紛れもなく、ロイド自身に起こった現実だった。
アイーザに愛されて、受け入れることの喜びと快楽を知って、絡め取られ囚われることの安心を知った。ロイドの身体は完全にアイーザの手で作り変えられて、もう…アイーザ無しでは生きていけない。
ゲーム画面に映るアイーザだけでは、絶対に満足出来ないとロイドは確信している。アイーザにあれほど愛されて、骨の髄までアイーザに溺れているロイドが、ヒロインの名前を変えて、同じストーリーを繰り返すだけの恋で、満たされるわけがなかった。
むしろ、名前がロイドというだけのヒロインに、ロイドは絶対に嫉妬して気が狂いそうになるだろう。だから…。
「ごめんなさい。父さん、母さん、姉ちゃん。私、帰りません」
ロイドはあちらの世界に居る家族に別れを告げる。
ロイドはもう、アイーザと生きていくと決めたから。
「そんなこと、許されるわけないでしょ?」
突然の冷ややかな声にロイドは驚き、声の主を探した。
ロイドの特別な空間にやって来た侵入者、それはヒロインであるアリアであった。
しかし、アリアの表情は、ゲームでは見たことのない怒りと狂気に満ちていて、いつも緩やかな弧を描いていた彼女の眉は、今や面影もない程に吊り上がり、ぷっくりとしたさくらんぼのような唇は著しく歪み、酷く醜い姿をしていた。
「あ…、アリア、…さん?」
「貴方のせいで、もうめちゃくちゃよ。完全に狂ったの!どうしてくれるのっ!?」
アリアは髪を振り乱し、怒りで我を忘れたかのように、ロイドに怒鳴り散らした。
「なんで!?どうして!?」とアリアは繰り返し叫び、その感情の全て剥き出しにして、それが全て敵意となり、ロイドの喉元へと突き付けられている。
「ねぇ、帰ってくれない?そうしたら、また世界は箱庭に戻るの…。私は沢山の人達に愛されて、結ばれて、幸せになる。その繰り返しで良かったの…。私は、この世界の人全てに愛される存在なのに…!」
怒りに震えるアリアとは対照的にロイドは落ち着いていた。荒波のようなアリアと凪のようなロイド。
本来、アリアも凪であった筈だった。船も揺れず、穏やかで、静かに、何処にも進む事が出来ぬまま、ただ浮かんでいる。それだけで良かった。
けれど、その海は、今や完全な余所者に脅かされ、酷く荒れ狂い、浮かんでいた船は藻屑となり果て、消えてしまった。
だからこそせめて、この余所者だけは、この箱庭から追い出して、荒れ狂う海の底に沈めてしまわねばならない。それなのに、ロイドの海は凪いでいる。
「帰りません。私は、アイーザとずっと一緒にいるって決めてしまったので…」
「だから何!?そんなの、貴方が勝手に決めただけでしょう?私には関係ない!」
「そうですよ、関係ないんです。これは私とアイーザが決めたことなので。だから貴女も、此処のルールも、世界も、完全に部外者なんです」
「部外者は貴方よ!勝手に転がり込んで来て。滅茶苦茶に引っ掻き回して。箱庭の、私を愛してくれる人形を奪っていった、ただの泥棒のクセに!」
「私を此処に呼んだのはアイーザです。あと、アイーザは人形じゃありませんし、貴女を愛してもいません」
ロイドはアリアを真っ直ぐ見つめてそう言った。反対に目を逸らしたのはアリアだった。
知りたくなかった現実を突きつけられたような、急所を鋭いナイフで刺されたかのようなその表情のまま、アリアはズルズルと膝から崩れ落ちる。
アリアの顔は、まるで抜け殻のようだった。
「私を…愛するはずだったの…。貴方が、あなたがこなければ…。みんな…。アイーザ先輩だって…、ルネ先輩だって…。私だけを見ているはずだったのに…」
崩れ落ちたアリアはペタリと地面に座り込み、俯いたままボソボソと独り言のように呟いている。そんなアリアのそばにロイドはやって来て、そっとしゃがみ込み、アリアを見た。その顔に怒りは無く、ただ、彼女を心配しているロイドが居た。
「あの…、それ、疲れませんか?」
「…何?」
ロイドの一言に、アリアがゆっくりと顔を上げる。髪で表情までは見えないが、その姿は誰からも愛されるヒロインではなく、ただの幽鬼のようで、前髪の隙間から、虚ろな桃色がロイドを見ていた。
「誰からも愛されるって、疲れませんか?だって、それって、絶対何か無理をして、遠慮して、心を削っているのに傲慢で、そんなの絶対に疲れ切っちゃいますよ」
「貴方なんかに…、何がわかるの…?」
「わかりませんよ。私はアイーザ以外なんて御免ですから。アイーザを愛して、愛されて、アイーザの声だけを聞いて、アイーザだけを見ていられれば、それでいいんです」
「理解できない…」
ハッ、とアリアは自嘲するかのように笑う。ただ1人がいれば良いというロイド。けれど、アリアはそれが許されない。
この人だと決めて、結ばれると、全ては巻き戻る。じゃあ、次はこの人だと決めて、両想いになれたのに、やはり世界は振り出しへ戻り、何度も何度もそれを繰り返した。
それならいっその事、全員と結ばれてしまえばいいのでは?と、全ての終わりを期待して、全員との永遠を誓っても、やはり世界は残酷だった。
アリアは、そこで諦めた。
自分はそんな繰り返した記憶を全て持っているのに、周囲は誰もその事に気付いていない。
何度も何度も同じ事を繰り返して、その事に違和感を覚えない。行きたいところに行きたくても、誰かに呼び止められ、時に不自然な理由で行くことも出来ず、只管同じ事の繰り返し。
そんな当たり前が壊れた。
全てを知っていた筈のアリアが、何も分からない。クルクルと回るメリーゴーランドが狂いだし、天井に繋がれていた筈の白馬が突然身勝手に走り出すような感覚。
ただ乗っていれば良かったのに、今は、ただ乗っているだけは許されない。それでは、自身が望まないおかしな方へと進んでしまう。
アリアにとってはそれが恐怖であり、ただただ羨ましかった。
「私…、本当は、誰も好きじゃない…。ドレスも、宝石も要らない…」
その声はアリアの、まだ僅かに残っていた心の残渣のようだった。
「本当は…、此処で色々学んで、仕事をして…、父さんや母さんの手伝いをしながら…、弟や妹達と、ずっと、仲良く一緒に暮らしたい…!」
まだ幼かった頃、畑を耕す両親と共に、泥だらけになりながら笑っていられたあの頃。弟と妹が生まれ、お姉さんになり、アリアは守られるだけの側から、守られながらも守る側になったのだ。
畑を大きく広げ、家族みんなでその生活を守っていくだけでも良かった。けれど、それでは下の2人は、アリアのように学校には通えない。
毎日お腹いっぱい食べられるけれど、それ以上を望むにはどうしても畑だけの稼ぎでは足りなかった。だから、アリアは高給が望める仕事を得る為に、この学園に来たのに…。
そのせいで全てはおかしくなった。
それは、この箱庭の輪廻に取り残された、哀れな少女の魂の奥底からの叫びだった。
それは、抜け殻の壊れた人形のようなアリアの涙と共に溢れだす。
ロイドは何も言わず、ただ泣きじゃくるアリアの背を擦り、彼女の壊れてしまった心に寄り添った。
「いやぁ、やりますねぇ。暴走する彼女に恐れをなすどころか、それすらも受け止めて風穴を開けるとは…」
そんな2人の光景を陰からずっとルネとアイーザが見ていた。
2人は、アリアが危険な状態にある事に気がついていた。
記憶があるのは自分だけだとアリアは思っていたようだが、実際はアリアだけではなかった。
アリア同様に記憶を持ち、同じ時を繰り返す箱庭の事実に気がついているのはルネとアイーザも同じであった。しかし、2人は最初から気がついていたわけではない。
2人が気がついたのは、アリアに攻略対象として選ばれた時だった。
最初はルネだった。
拒絶したいのに拒絶できない。そして、彼女を愛さなければならないという、突然湧き上がった謎の使命感。そんな違和感を抱きながらもアリアと結ばれ、薔薇のアーチの下で永遠を誓い合った瞬間、世界は巻き戻った。
視界が高速で回転しはじめ、自分が何処に立っているのかさえ分からなくなる感覚。目眩、そして吐き気と、頭をキツく締め付けられ、内側から激しく殴打されているかのような頭痛が襲った。
そして、気が付くと自室に居て、その日は、3年に上がって直ぐの始業式当日になっていた。
そこでルネは世界の異常に気が付き、箱庭の真相を知った。広い様で狭い、ハリボテだらけの世界が、彼等のいる世界の真実であった。
透明なガラスのような壁で隔絶された、簡単に壊れ、再構築されるだけの小さな箱庭。
そこでルネは自身の得意な記憶操作を応用して、記憶のない間の事も思い出した。
アリアに選ばれない間のルネは、常に同じ事を繰り返していた。魔塔の天才として常に引き篭もり、魔法の研究を続け、必死に何かが掴めそうだと藻掻き、苦悶する自分。
それが解決するのは、アリアと結ばれた時のみで、彼女の「貴方は天才じゃなくてもいいの。大丈夫、天才じゃなくたって、ルネ先輩はすごいんですから!」という、何とも薄っぺらい言葉に感動し、救いを見出し、涙を流して縋る自分。
何とも滑稽で、変な笑いが出た。
次にアリアが選んだ攻略対象はアイーザであった。
家族からも拒絶され、有望視された双子の兄は魔塔へ逃げた。
1人取り残された非凡な兄とは違う、少し優秀であるだけの双子の弟。
常に冷静で、美しい仮面を被りながら、その中の本当のアイーザ常に孤独に苛まれ、涙を流している。そんなアイーザに手を差し伸べ、「本当の貴方は、とても優しい人。私は、貴方の優しさを知っている」とのたまう彼女と、そんな陳腐な言葉1つで救われ、泣き崩れるアイーザに対しルネは、茶番以下だと評価を下した。
そして、そんなアイーザに対して感じていた違和感が確信に変わる。
「誰なんでしょうね、あの“男”は…」
今、ルネの眼前にいるアイーザは、ルネの知るアイーザではない。アイーザは、そんな繊細な男ではない。
尊大で、不遜で、誰よりも傲慢で、我儘で、怠慢な、自分勝手な自己中男。それがルネのアイーザに対する評価だ。
そんなアイーザが“孤独に苛まれ、その事に苦悩し、アリアの一言で救われ、涙を流す”?
「ハハッ!全てを知ったら、完全に黒歴史でしょうねぇ…?」
ねぇ、アイーザ?と、ルネは心底楽しそうな顔で、杜撰なお遊戯会を繰り広げる2人を最後まで見守った。
そうして、またも巻き戻りは訪れた。
そして、ルネは真っ直ぐ始業式に向かわず、実家へと足を運んだ。
訪れたのはアイーザの自室。
そこで彼は違和感に…、いや、この世界の異常性に気が付いたのだろう。アイーザは金の装飾が美しい枠に嵌め込まれた姿見の前で、愕然とした表情のまま立ち尽くしていた。
「気が付きましたか?」
「…。居たんですか…」
ルネが声を掛けることで、ようやくアイーザはルネの存在に気がついた。普段の彼ならば、ルネがこの屋敷の敷地に入った時点で、常に張り巡らせている防御魔法で察知していたであろうに…。
今の彼は、それにすら意識を割く余裕が無いのだろう。
「貴方は何処まで気が付きました?」
「…あの、アリアとかいう女の違和感と、この世界が、安い三流劇場以下の舞台の上だったということくらいですね…」
ハッ、と自嘲するかのように笑うアイーザを見て、ルネは全て知った際の自分の姿を重ねた。本当に、こういうところだけはにているなと、ルネも内心同じように笑った。
そうしてルネは自身に使ったものと同じ魔法をアイーザにも使用し、アイーザは記憶に無い間の事も思い出した。
まさかの自身の姿にアイーザは、怒りで身を震わせるでも無く、絶望し泣き崩れるでも無く、全くの表情の無い顔で、無言で姿見に拳を叩き付け、破壊した。
「この中に完全に囚われている間は、何かしらの洗脳か、似たようなものを受け、人格すらも矯正されるようですね」
「私達は舞台に立つ役者以下の存在ということですか。体の良い操り人形などと、随分と悪趣味な…」
ルネの冷静な分析に、アイーザは忌々しげに言葉を返した。それはルネに対してではなく、この世界をこの様な姿にした者に対しての言葉であり、態度であった。
アイーザは手に刺さる破片も、流れ落ちる血も無視して、ルネの見解の続きを待った。
「それか、見栄えの良い駒ですかね?とにかく、今の私達は世界の異常性に気がついている。そして、その御蔭か、全ての記憶も持っていることができている…」
「つまり、多少なりとも、ループからは逸脱しているということですか…」
「あくまでも多少ですけどね。イレギュラーではありますが、排除する程度ではない。というところでしょうかねぇ…」
「ということは、この空間…。仮に箱庭とでもしましょうか。この箱庭は、絶対でも、完全でも無いということですね」
「えぇ。仮説ですが、必ず出口はあります。そして、鍵は多分…」
「アリアとかいうあの女、ですか…」
それから2人は、繰り返す世界の中で大小構わず、ありとあらゆる方法を試した。時に校舎を破壊し、物語の重要人物を殺め、一時はアイーザの力で、ルネと自身以外のありとあらゆる存在までも消してみせた。
それでも、その瞬間からその世界は無かったことにされるのか、世界は少しだけ巻き戻り、2人が何かする前の穏やかな姿が瞬時に再構築されてしまう。
瓦礫となった校舎も、真っ赤に染まった地面も、灰となった草木も、何もかもが、何事も無かったかのように巻き戻ったのだった。
しかし、小さな発見はあった。
その際の巻き戻りには、アリアは気がついていないこと。
繰り返す中で2人は、アリアも記憶を持ち、巻き戻り繰り返す箱庭の存在に気がついていることに気がついた。それは本当に些細な出来事で、彼女の問いに対してアイーザが適当な返答をした際のこと。
「え?違う…」
風が吹けば簡単に掻き消されてしまう様な微かな声と、ほんの一瞬の僅かなアリアの表情のぶれ。そして、反対にアイーザが、ループの間は絶対にしなかったであろう問いに対して、彼女はしどろもどろになり、アイーザの前から逃げ出した。
すると、途端に世界は再構築され、アイーザの目の前にはアリアが居た。
アリアは、先程の事を全く知らぬかのようにアイーザに話し掛けてくる。しかし、その回の物語を終えた後に見たアリアの全てに絶望した表情。
その時に確信したのだ。
彼女は巻き戻りにも、この世界の異常性にも気付いていて記憶があるが、ルネやアイーザとは逆に、この世界に呑み込まれ始めているということに。
それに気がついた2人は、アリアに手を差し伸べる事はしなかった。ルネは一応迷ったフリをしたが、アイーザは静かに拒否した。
アイーザはまだ、あの黒歴史を許していないらしい。
しかし、そこはルネも同様だったので、それ以上口に出すことはしなかった。
そうして、また何度目かの巻き戻りの時のことだった。
アイーザが「いい加減あの女にも、馬鹿の一つ覚えのように私の婚約者だと吐かす女にも、本当に嫌気が差す」と言い出したのだ。
彼の婚約者は、両親が決めた高位貴族の一人娘であった。
容姿こそ整ってはいるが、アイーザの隣に立つには些か花が足りず、彼に呑まれてしまう程度のものでしか無く、それ以上に問題なのは性格だった。
彼女は幼い頃、とあるパーティー会場でアイーザを見掛けてから、ずっとアイーザに片思いをしていた。それだけなら可愛いもので、彼女はアイーザに近づくありとあらゆる女性を敵視し、時には酷い暴言を浴びせ、彼を好きだと言う者には容赦しなかった。
「この私ほど、アイーザ様を愛している者など居ませんわ!」と豪語していた彼女。
しかし実際は、アイーザの類稀なる容姿とその家柄が、自身のステータスになると固執しているに過ぎなかった。
そんな女とアイーザが一生添い遂げるのは無理だろうなと、ルネも予想はしていたが…。こんな時に、こんな自分勝手な事を言い出すのがアイーザだなと、ルネは納得もしていた。
そして、アイーザは自身の婚約者を挿げ替える事にした。
まず初めに、血が繋がっているだけの初老も過ぎた男女に、アイーザは婚約者のことでは口を挟むなと脅しを掛けた。
それから適当に、大人しそうで、アイーザの事に口を挟まないような女を婚約者とした。
世界が再構築されるかと思ったが、世界はそのまま続いた。
そこで分かったのは、世界の再構築は、アリアや物語の進行に必要不可欠な物や人が、何らかの方法で排除された場合や、アイーザやルネの行動、言動が、著しく物語の進行に問題や不都合がある場合だという事に気がついた。
端的に言えば、アイーザには婚約者が居る。そしてそれは、婚約者という肩書きがあれば誰でも良く、必要に応じて、その性格は書き換えれば良いという判断をされるようだった。
その後、アリアが再度アイーザを攻略対象に選ぶと、大人しい婚約者は性格が一変し、酷く他人に攻撃的で、アイーザをブランド品にしか見ていない下品な女へと変貌を遂げてしまった。
全てが面倒くさくなったアイーザは、アリアをも拒絶し、さっさとフッた。
それは、アリアにとって初めてのバッドエンディングでもあった。
しかし、そんな事を知らない2人は、バッドエンディングを迎えた際も、アリアの記憶は消えるのだなと思っただけだった。
それからも何度となく同じ時を繰り返し、アイーザが試すことにしたのは、完全なる外の世界の部外者を、この物語の中に登場させることだった。
アイーザの空間魔法の範囲は、この世界だけに留まらない。ハリボテのような外側にも、異次元の外界にも、それは適用される。
さすがの異次元ともなると、アイーザも一筋縄ではいかないが、多少の制約を用いて、範囲を狭めれば、造作もない。
1度目は、ただ完全な部外者を外側から連れてきた。しかし、何の肩書きも持たず、学生に紛れることもできない年齢であったその人は、箱庭の舞台から完全に排除され、世界は再構築した。
ここで分かったのは、ただ外部から連れてくるだけではダメだということだ。
完全な部外者を座らせるための椅子が要る。
そこでアイーザはこの世界の住人であった“ロイド”に目をつけた。
彼の椅子を奪い、そこに、この世界の住人ではない、外の世界のロイドを座らせる。
上手くいげは、その“ロイド”はある種の侵略者となり、この世界を壊すきっかけになるかもしれない。
そして、その思惑は的中した。
期限は1年間。
けれど、そんな長い時間は必要無かった。
ロイドはいとも簡単にアイーザをも変えてしまった。
ロイドは、ただ眠っていただけだった。それでも、ロイドはアイーザの心を掻き乱し、彼の中の歪んで醜悪な欲望を引き摺りだし、それを受け入れ、簡単に愛へと変貌させてしまったのだ。
それはロミオとジュリエットの燃え上がる恋のように、僅かな時間で怒涛の物語を繰り広げた。しかし、彼、彼女等2人の悲劇とは違う、別の終着点へと辿り着きつつあった。
その後、アイーザは仕上げに、箱庭全域に記憶を操作する魔法を掛けた。
ロイドの事を上書きし、更には、ロイドと離れたくないという己の欲望の為だけに、学園のルールと認識をも書き換えてしまった。
それが首輪であり、婚約者にだけ適応されるクラス制度であった。
ルネは呆れはしたものの、再構築が行われなければどうでも良く、馬に蹴られる趣味も無いので、傍観することに決めていた。
お陰で世界は、ロイドをこの世界のロイドとして認識した。
そして、世界はロイドを異物ではないと誤認したのか、彼を排除する事無く、世界は進んだ。
しかし、ロイドという小さな異物は、確実にこの箱庭を侵食しはじめた。
その最たるものがアリアという存在のブレ。そのブレが物語へも波及し、今のアリアは誰とのフラグも立っていない。
そして、アイーザは婚約者のロイドと仲睦まじく、ロイドは外界の者であるからか、箱庭のルールが通用せず、再構築も行われなかった。
実は、よくよく見れば世界の隅や端には、歪みによる小さな亀裂が走り、チラチラとノイズが見えることもあった。
しかし、ロイドという存在が邪魔をしているのか、ロイドが現れる度に姿を消し、ロイドは世界をも屈服させはじめていたのだった。
箱庭の歪みが日に日に大きくなるほどに、アリアというヒロイン像もまた、大きく揺らぎ、脆くなったそれは揺らぎに耐えられず、段々とひび割れていく。
小さなひびはやがて大きくなり、アリアという存在そのものが大きく歪んでしまった。
それなのに、世界は再構築をしない。
世界はもう、ロイドに抗う術を持っていなかった。
そうして出来上がったアリアの…箱庭という世界の大きな風穴。
ロイドは、2人の想像以上のことをやってのけたのだった。
「ロイド…」
アリアの背を擦っていたロイドの背後から、愛しい人の声が聞こえた。すると、途端にロイドの表情は甘く蕩け、声の方へと振り返る。そして、彼もまた「アイーザ…」と愛しい者の名を呼んだ。
アイーザがロイドを真っ直ぐに見据える。
その視線にはアイーザの意思が宿っていて、それを正確に汲み取ったロイドは、アリアを心配しながらも、アイーザの元へと駆け寄った。
そのままロイドは自分の在るべき場所、アイーザの腕の中へと舞い戻る。アイーザは戻ったロイドを愛おしげに、自らの腕で覆い隠すかのように抱きしめ、ロイドもそれに応えるように、アイーザの背に腕を回した。
そんな2人をルネは呆れたように見つめ、苦笑いを溢す。
そんな2人の世界に水を差すように、低い呻き声が甘い世界を引き裂いた。
「なんで…、なんでアンタだけ…?私…、此処に来たの、今日がはじめてなの…。必ず邪魔が入った…。私は、学校のこと…、半分も知らないのに…」
ずるい!とアリアが叫んだ。
「ずるい!ずるい、ずるい、ズルい、ズルイ、狡いっ!!壊したくせにっ!部外者のくせにっ!アンタばっかり好き勝手してっ!いい加減にしてよ!!」
アリアの絶叫とともに、箱庭が大きく揺れた。
それは、世界が大きくひび割れ、崩壊をはじめた音だった。
歪みを正そうとする世界の暴走。世界を押さえつけるロイドに対する反発が生んだその揺れは、空を落とし、学園を瓦礫と変え、大地を大きく引き裂いた。
その大きな裂け目は3人が立っていた地面にも及び、足元が完全に裂け、足から地面の感触が消えた。
(落ちる…)
アイーザに抱きしめられながら、ロイドはそう思った。
ゆっくりと裂け目の縁に立つアリアが遠ざかる。3人は、巨大な裂け目の暗黒へと落ちていく。
そんな時、ロイドの頬に雫が落ちた。ふと見上げれば、ロイド達3人を見つめるアリアが1人、泣いていた。
ロイドはアイーザの腕を逃れようと藻掻き、そして、裂け目から天へと手を伸ばす。それは、アリアに差し伸べた、ロイドの救いの手であった。
アリアは、その手に縋ろうと手を伸ばす。
しかし、そんなロイドの手を取ったのは、他でもないアイーザだった。自らの腕を逃れたロイドを咎めるかのように、彼は無理矢理ロイドを引き寄せ閉じ込める。
それでもアリアを救おうとするロイドの手。それさえもアイーザは封じて、自らの腕の中に、縛り付けてしまった。闇の中に落ちていくロイドを、アリアは静かに涙を流しながら見つめていた。
ロイドもまた、泣いていた。
どうにかアリアを救いたくて、愛してやまない男の腕を逃れてでも、アリアを救おうとしてくれた。
「ねぇ、ロイド君…。貴方がもし、私と恋する相手の中に居てくれたら…、私は救われていたのかな…?」
自らの問いに、アリアは緩く首を振った。そんな事はありえないと。
何故なら、彼の後ろには、地上から女神を連れ去る冥府の主のような男が、殺意と狂気に溢れた瞳で、アリアを射殺さんばかりに睨みつけていたのだから。
そんな完全に崩壊した世界が、やがて再構築をはじめる。
異物を排除した世界はゆっくりと巻き戻りをはじめ、落ちた空も、崩れた校舎も、地面の裂け目も消えてゆく。
アリアはもう、抗うことを止めた。
「ありがとう、ロイド君…」
私、もし貴方がこの、おかしな世界の住人だったら、絶対に貴方だけを好きになっていと思うな…。そんなアリアの独白は、世界が完全に巻き戻ったことで、言葉になることも声になることもなく、壊れた世界の外に追いやられ、誰にも聞かれることなく消えていった。
それからも箱庭は、延々と物語を繰り返す。
壊れた時計のように、戻らず進まず、行ったり来たりを繰り返す。けれどそこには、僅かな変化があった。
真剣な表情で勉学に勤しむアリア。
彼女は友人達と共に笑い、時に気になる男性に頬を染めながら、それでも入学目的である家族に楽させる高給取りになるため、日夜努力を続けていた。
その顔に、壊れたアリアの面影は無い。
彼女は、記憶が無かった。
あの壊れた瞬間だけでなく、今迄の記憶も、世界の異常性も忘れ、完全なる世界の一部になっていた。彼女はこれからも、物語のヒロインとして、終わりを知らない反芻する世界の中で、何も知らずに生きていく。
それは生きていると言えるのか疑問も残るが、それでもアリアは物語の中で生きていた。
そんな彼女の救いは、記憶を無くしたことと、とある別の道が開けたことだろうか。勉学を推し進め、誰とも結ばれることなく、目標だった高給取りエンディング。
その中で彼女は実家に帰り、忙しく働きながらも家族と共に幸せに暮らしていた。たとえそれが、一瞬の夢のような時間だったとしても、それはアリア本来の夢であり、彼女が勝ち取った唯一であった。
一方3人は、箱庭の外に居た。
ルネとアイーザは実家を捨てて、ルネは相変わらず魔塔に引き篭もり、日夜怪しげな研究と実験を繰り返し、新たな魔法開発に勤しんでいた。
アイーザはロイドと共に居るために、気紛れに魔塔へ協力し、高額過ぎる対価を毟り取って生活していた。
2人の住まいは遠く離れた果ての地で、其処にアイーザが魔法で屋敷を立て、数人の人ならざる侍女を雇って生活していた。食事と気紛れな仕事の時間以外、アイーザはロイドと共に寝室から出て来ず、昼夜無く2人は甘美な蜜が滴る濃密な日々を過ごしていた。
「アイーザ…、あ…ッ、もうダメですって…、あんッ!」
「ハァ…ッ、おや、ロイド。もうへばったんですか?まだ私は、満足していないというのに…」
「もう…、あんなにしたのに、アイーザが、元気すぎるんですよっ、んんッ」
寝室から漏れるのは2人が愛し合う甘い声。煩わしいものが無くなったアイーザは、毎日のように飽きもせず、ロイドを抱き潰し、淫蕩に耽っていた。
「ほら、もう時間でしょう…?遅刻したら、ルネが怒りますよ?」
「情事の最中に他の男の名前を出すなと…、何度言えば貴方は理解するのでしょうね?」
「やぁ…ッ!アイーザ…、ダメって…!あっ…」
そうしてまた、2人は快楽の奥底へと沈んでいく。
その後、完全に切れたルネが狂気を形に変えた催促の嵐を送りつけてくるまで、アイーザとロイドはしっとりと肌を重ね、何度も何度も、足りないと言うかのように互いを求め、愛し合った。
今日もサラはリビングでゲームをしていた。
母が帰宅し、「もうゲームはおしまい!」と注意する。彼女は1度返事をして、アリアとモブの会話を見守っていた。
モブの女子生徒が、以前こんな素敵な先輩が居たとルネとアイーザの名前をだす。サラは「へ〜、そんな先輩キャラも居たんだ。見てみたかったな」と独り言を溢した。
「ちょっと!早くやめて!」と母が再度注意してきたことで、ようやくサラはゲームを止めて、夕飯の支度を手伝いに行った。
テーブルの上に置かれているゲームのパッケージ。
その表紙の攻略対象の中に、ルネとアイーザの姿はなかった。
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