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第1話
先生、俺があんたの犬になる
「じゃあ、ボクが指を鳴らしたら、元の人生に戻ります。三、二、一──」
パチンと音を鳴らすと、患者がハッとしたように目を見開く。
「あ~戻っちゃった~」
がっくりと肩を落とす彼女だが、だいぶ気持ちが強くなってきているのがわかる。
「でも感覚は掴めてきましたね」
「はい! 頑張れそうです」
その笑顔にボクもほほ笑む。
ボクは催眠療法が得意な精神科医だ。トラウマがなかった場合、どんな感覚なのかを催眠術で体感してもらうことが多い。そうすることで、本来の自分の魂の形を捉えてもらうことができ、分かりやすいゴールが見える。
だが、そこには信頼関係が必要だ。それがなければ、そもそも催眠にかかることすら難しい。その上、内容によっては、無理やり価値観や感覚を変更するので、本人にかなりの負担がかかってしまうから、施術にはいつも、細心の注意を払っている。
「心堂先生、私、先生のおかげで、立ち直れそうです」
ふいに患者が恥ずかしそうに、ボクにそう告げる。
「キミが頑張ったからですよ」
「こ、今度、お礼にお食事とか……」
彼女の言葉に、ボクはにこりと微笑む。
「ありがとう。でもその気持ちは、未来の恋人に使ってあげて」
「あ……はい……」
いつもこういう時、どう断るのが正解なのかわからない。彼女もまた、寂しくほほ笑んだ。
「ではまた来月」
そう言って、ボクも、笑顔で終わらせた。
「心堂先生、モテモテですね。今月三人目! イギリス皇太子に似てるだけありますね!」
午前の診察が終わり一息つくと、さっそく付き合いの長い、若い看護師がちゃちゃを入れてくる。
「ボクにはどうしようもないって」
「付き合ってみたらいいのに、すごくかわいらしい人じゃないですか」
そう言われるも、ボクは足を組み、額に手をやる。
「知ってるだろ。ボクが人間苦手なこと」
「〝克服したくて精神科医になった〟んでしたっけ? なにがそんなに苦手なんですか?」
「〝こうして欲しい〟とか〝こうしたい〟が手に取るようにわかるから、疲れるんだ」
「いつも的確ですもんね~」
「……仕事で役立っても、ふつーの人間関係には、邪魔なだけだよ」
結局、いまだにプライベートでの人付き合いは苦手だ。〝こうすれば解決する〟とわかりきっていることを、どうして人は気づかないのだろうか。それとも、それが分かるから、ボクは精神科医としてやっていけるのかもしれない。
そう悶々としながら、携帯の写真フォルダをひらく。
「あ、アレクくん! 大きくなりましたね」
「うん。まだ一歳なんだけど、飛びつかれるとボクの胸元までくるんだ」
「え! 先生って一八〇ありましたよね」
「ボクもびっくりだよ」
よほどうれしそうに携帯画面を見つめていたのか、看護師がにまにましながらつついてくる。
「愛犬が恋人ですね」
「まあ、そうだね。彼がいれば、何もいらないかな」
「きゃー禁断のボーイズラブっ!」
確かにオスだが、そこまで盛り上がれる彼女の素直さが、少しうらやましい。
「それで? 次は新患だったよね?」
「あ、そうそう、それこそ〝禁断〟なんですよ」
渡されたカルテとアンケートを見ると、なるほど、少し厄介なことになりそうだ。
「心堂先生。催眠の権威だって聞いてきたんです。どうかうちの息子を治してください! どんな方法でも構いません」
そう言いながら、椅子に座る彼を、まるで汚いものを見るような目で見る。
「ほんとになんで、男が好きとか、異常ですよね? 心堂先生」
そう言われ、思わず母親を睨みつけてしまいたくなるのをぐっと耐える。
「お話はわかりました。治療を進めますので、いったん彼と二人にさせてください」
にこりと微笑んだボクに安心したのか、母親はぺこっと頭を下げ、待合室へ戻っていった。
残された彼は、下を向いたまま、疲れ切った表情を見せている。綺麗で長い金髪に、青い瞳が台無しだ。
「さて、と。皇(すめらぎ)イリヤくん。一六歳か。初めまして。心堂尽です。よろしくお願いします」
「…………」
黙ったまま、誰も分からない程度に頭を揺らす。
「皇くん。綺麗な髪だね。お母さんは日本人みたいだけど、お父さんが外国の人?」
「……ロシア」
「ロシア! へえ、ボクが飼ってる犬がロシア原産なんだ。なんか親近感──」
「早くまともにしてくれよっ!」
突然、ダンッと足で床を蹴り、彼が痺れを切らしたように叫ぶ。
「キミはまともだよ。治療なんて必要ない」
すかさずそう告げると、彼が言葉を詰まらせる。
「──ッツ、わかってる、でも、このままじゃ」
家に居場所がないのだろう。母親はブランド品をこれでもかと身に着けていたのに、彼はボロボロのTシャツとジーンズだ。
「皇くん。治療が必要なのは、むしろキミのお母さんの方だ。でも、彼女はそれに応じないだろう。このままだと、キミが母親のせいで、心を病む可能性の方が高い。だから」
「だから?」
ここでようやく、彼がボクを見る。潤んだ瞳は、まるでこの地球(ほし)のように美しい。
「成人するまで、一緒に彼女を騙そう」
「──ッ……」
驚く彼に、小声で続きを話す。
「催眠術でまともになったと嘘をつくんだ。いいね?」
「先生は……あんたは、それで大丈夫なのかよっ……」
優しい子だ。どうやらボクの心配をしてくれているらしい。
「もちろん。心を救うのが、ボクの仕事だ」
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「びびるぐれーやさしくなった」
下唇をむいっと突き出し、納得のいかない顔で皇くんが吐き出す。治療と称して通い始めて一か月は経った。金髪に艶が戻り、肌艶も良くなってきたのを見て、ボクはひとまず安心する。
「ほんと、意味わかんないよね。今時、同性が好きなくらいで騒いじゃってさ」
ハッキリ言ってバカみたいだが、子どもではなく、親に問題があるケースは後をたたない。その度に、ボクはやるせない気持ちになる。
「その、心堂先生も、男が好き、とか?」
ふいに、皇くんが窺うように聞いてくる。どうやら、ここまで親身になる理由がわからなくて、混乱させてしまっているようだ。ボクはゆっくりと首を横に振る。
「……ボクもね、親にいらないって言われたから」
「え? 医者なのに?」
「ふふ、そう。うちは代々医者の家系なんだけど、外科医以外は、医者とは認めてもらえないんだよ」
「なんだよ、それ」
皇くんがぽかんと口をあける。彼は裏表がなくて、素直な性格のようだ。
「バカみたいだろ? ボクも外科医を目指してたんだけど、血を見て失神しちゃってさ。そこからはもう──」
まるでいないように扱われた。ボクも、いないように振る舞った。おかげで空気を読む力が異常に発達して、今、こうして役に立っている。
「そっか……でもなら、心堂先生も、女の人が好き……だよな?」
ボクは困ったように微笑んでみせる。
「ん~どうかな。人といると疲れちゃうから、あんまり付き合ったこともないんだ。今は愛犬のアレクセイが恋人♡」
そう言って写真フォルダを見せるため、彼の近くによる。
「あ、ロシア原産って言ってた?」
「そ! ボルゾイっていう大型犬。手足が長くて、顔が小さくてモデルみたいだろ? すごく穏やかな性格で、一緒にいると安心するんだ」
思わず仕事も忘れてはしゃいでしまったボクに、彼が笑う。その姿が、ふいに愛犬と重なる。
「キミ、似てるね。この子に」
「モデルみたいにイケメンってこと?」
ふっとまた彼が微笑む。それだけで、彼のまわりの空気が華やぐようだ。
「うん、手足が長くて、毛並みもキレイ──笑った顔も……ほら」
言いながら、画面を二人でのぞき込むと、彼の髪とボクのが、わずかに混ざる。
「っ……」
ふいに、彼の瞳がボクを捉え、見つめてくる。ゆっくりと近づいてくる青に吸い込まれそうだ。
「んぶっ!?」
だが、いきなり鼻をつままれて面食らってしまった。
「ははっ、すんげー驚くじゃんっ!」
お腹を抱えて笑う彼を思わず睨む。
「そりゃっ……」
キスされるかと思った──とあやうく言いそうになって焦る。
「あんた、俺が男好きだって知ってんのに、隙ありすぎ」
そう言ってにっと笑う顔は、十以上離れているとは思えないほど、野性的で、男らしい。
(ッツ! なに考えてるんだボクはっ! 相手は未成年で、患者だぞっ)
慌てたボクは、両手で隠すようにして、熱くなった頬を冷ます。
「ねえ、先生が仕事の時って、その子、誰かに預けてたり?」
「え、あ、ううん。寂しいかなと思って犬の保育園にも通わせたことあるけど、なんかうまく馴染めなくて……誰かに見てもらいたいけど、相性もあるから、なかなか」
助かった。話していると気持ちが落ち着く。
「よし、決めた」
「え、な、なにが?」
ほっとしたのも束の間、急な展開に、仕事中とは思えないほど、間の抜けた声を出してしまった。だが、彼は気にした様子もなく、瞳を輝かせて、ぐっと拳を握る。
「俺、ドッグトレーナーになる。もしくは、トリマー。そしたら、先生の犬の世話ができるだろ?」
にかっと笑う笑顔は、今度は年相応だ。
「ふふ、じゃあその時はお願いしようかな?」
「絶対だからな!」
そう言って笑う彼は、とても純粋で、ボクにはまぶしく感じた。
「アレク~! ただいま~! ん~、今日もかわいいね!!」
長い手足で一足飛びにボクのところに駆け寄り、胸元に飛びついてくる愛犬の頭をこれでもかと撫でる。
「かわい~、癒される~」
「わふっ!」
この時間が至福の時だ。誰にも邪魔されたくない──。
「おかえりなさいませ」
「……あ、……」
愛犬と一緒に出迎えてくれたのは家政婦さんだ。実は、ボクは家の片付けがまったく出来ないので、週に三日ほどお願いしている。
「では、失礼しますね」
「え、ええ……ありがとうございます」
彼女が帰ってから、ボクは隠れてため息をつく。
「うゎ~、頼んでおいてなんだけど、キレイすぎて落ち着かない……とりあえず、読みかけの本──あれ? どこだ? あーもう、またか……」
なにもかも仕舞われてしまっていて、どこを探しても見つからない。まいったな。続きが読みたいのに──。ボクは意を決して、彼女に電話をする。
「そちらの本でしたら、ソファ横のローテーブルの引き出しの中ですよ」
「あ、ああ、ありました。ありがとうございます」
「いいえ。では、ごめんあそばせ」
そう言ってぷつりと切れてしまう。〝いつもソファで読んでいるから、その近くに仕舞っておりますよ、私は仕事ができますから〟という心の声が暗に聞こえた気がして、ボクはことさら大きなため息をつく。
「プライドもあるだろうし……あまり片付けないでほしいとも言えないな……」
これで何人目だろうか。片付け方をあれこれと指導されたり、恋愛感情を抱かれたりとなかなか思うようにいかない。
今回の彼女も、ボクの部屋なのに、彼女好みに整理整頓されすぎていて落ち着かない。毎度毎度何がどこにあるのか、確認しなければならないのもストレスだ。
(来月の更新はないかな……いったん部屋に人を入れるのはやめよう──)
「くぅ~ん」
「あ、ごめんごめん! お散歩にいって、ブラッシングしようか」
そう言うと尻尾を振って喜び、ボクのまわりをぐるっとまわってくれる。
「かわいい~! ほんとにお前だけだよ! ボクの癒しは!」
ぎゅっとハグをすると、つぶらな瞳が誇らしげにボクを見つめていた。
「先生、俺、ドッグトレーナーの資格とった!」
「すごいじゃない! おめでとう!」
ここに通い始めて二年あまり──元々病気でもなんでもないのだから、彼と話す時間は、ボクにとってリラックスできるいい時間だった。
「……お別れか。寂しくなるね」
「え……」
耳や尻尾がついていたら、きっと垂れていただろう。皇くんがしゅんっとした表情で下を向いてしまう。
「どうしたの?」
「先生、雇ってくれねーの? 俺、先生が仕事に行ってる間、アレクと一緒に遊んだり、料理とか、片付けもできるぜ?」
ボクは素直に驚く。てっきり社交辞令だと思っていたのに、彼は本気だったのだ。
「皇くん、家事、できるの?」
「おう! 任せてよ! 今だって、俺が家の片付けとか掃除とか、料理もしてるんだぜ!」
「へえ! じゃあ、お願いしようかな」
家に他人を入れるのは懲りたはずなのに、ボクは気づいたらそう口に出していた。
「っしゃー!」
その時の彼の喜びようったらない。一瞬、早まったかもしれないとよぎった後悔が、どこかへ飛んで行ってしまったほどだ。
本当に、素直でかわいい。
「ハハッ、お前がアレクセイか~! すげえ! まじでデカイ! 会いたかったぜ!」
「わふっ!」
玄関をあけるなり、二人は生き別れた兄弟みたいに出会えたことを喜び合っている。
「うぁ~、ひでーありさま」
廊下を抜けて部屋に入るなり、皇くんがつぶやく。
「あはは、片付け苦手でさ」
「お前の毛並みはキレイなのにな」
そう言ってボクの愛犬の頭をやさしく撫で、あらためてボクの部屋を見渡す。
「好きにやっていいの?」
「うん。お願い」
あれこれ注文をつけても良かったのだが、それよりも、彼がどんな風にやってくれるのか興味があった。
「オーケー。任せてよ!」
頼もしい笑顔に、ボクもワクワクしながら任せることができた。
「ただいま~、え、すごい美味しそうな匂い……わわっ?」
「まだ見ちゃダメ」
皇くんに後ろから両手で目隠しをされ、膝でつつかれるようにリビングまでの廊下を歩いていく。
「じゃーん、どお!?」
「──すごい……」
ソファや椅子に脱ぎ散らかしていた服は、キレイにたたまれていて、読みっぱなしだった本も背表紙が見えるように机の上に置かれている。
いわゆる見せる収納というやつなのかもしれない。どこに何があるのか一目でわかるのに、驚くほどスッキリしている。
「すごい! すごいよ皇くんっ! キレイなのに、どこに何があるのかわかるっ!」
感激しながらはしゃいでいると、彼が鼻の下を指で擦って、へへっと笑う。
「そう言うと思った。ほんとはもっとキレイにできるんだぜ? 先生がわからなくなるだろーから、ほどほどにしたんだ、な、アレク」
「わふっ!」
アレクともすっかり打ち解けているようだ。お互いの鼻先をくっつけてじゃれあっている様は、まるで絵に描いたような〝幸せ〟だ。
そして、いい匂いの正体は、どうやらオムライスのようだ。
「美味しそ~!! 一緒に食べよう!」
「え、先生の分しか作ってないけど……」
「あ……」
それはそうだろう。彼は家政婦とドッグトレーナーとしての仕事を終え、今から家に帰るのだ。そう思うと、ふいに今から一人で食べる夕食が、わびしいものに感じてしまった。
(……変だな……いつも一人が楽だったのに)
なんとなく微妙な空気が漂っていると、皇くんが遠慮がちに口をひらく。
「先生……気に入ってくれたならさ、住み込みで雇ってくれない? 俺、あの家、出たくて」
そう言って、捨てられた犬のようにこちらを見る。
「いいよ」
ボクは即答してしまっていた。なぜだかわからないが、そこに迷いはなかった。
「まじかっ、ハハッ、すげー嬉しいっ」
アレクを抱きしめ、満面の笑顔を見せてくれる彼に、ボクも嬉しくなる。
「ね、キミの分も作ってよ。一緒に食べよう!」
「お安い御用。まじ一瞬だから!」
そう言って鍋をふるいはじめる。
「…………」
なんだか不思議な気分だ。自分の家に他人がいるのに、ぜんぜん違和感がない。
「はい、完成。せっかくだから、こっちの出来立て食べてよ」
「いいの!? じゃ、遠慮なくいただきます!」
ケチャップと塩コショウのシンプルな味つけが、口いっぱいに広がる。
「お~いし~!!」
「ハハッ、先生、感動しすぎ」
「──……」
皇くんは時々、包容力のある、とても穏やかな笑顔でほほ笑むことがある。
「ん? なに?」
「え、あ、ううん。これからよろしくね」
「こちらこそ!」
本当に不思議だ。一緒にいて、彼の笑顔を見るだけで、とても心地が良い──。
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